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孟郊 の 『 遊子吟 』

中国の律古詩
08 /06 2021
  遊子吟   孟郊

慈母 手中の 線
遊子 身上の 衣
行に 臨んで 密々に 縫う
意は 恐る 遅々として 帰らんことを
誰か 言う 寸草の 心
三春の 暉に 報い 得んと


  ゆうしぎん   もうこう
じぼ しゅちゅうの せん
ゆうし しんじょうの い
こうに のぞんで みつみつに ぬう
いは おそる ちちとして かえらんことを
たれか いう すんそうの こころ
さんしゅんの きに むくい えんと

先生のお話によると、
孟郊(751~814)は、中唐の詩人。
周りの人と性格が合わず、若い時から嵩山に隠棲。
50才近くになって進士に合格、地方官を歴任するが
人付き合いが苦手で出世せず、いつもボロをまとっていた。
詩人としては才能があり、韓愈の門下生で影響を受けた。
中でも五言古詩が得意であった。
64才で不遇のうちに病死した。

       ◆  ◆  ◆

遊子吟とは、
 遊子 = 旅人。さすらい人。
  吟   = 楽府題。

詩の意味は、
慈悲深い母の手にある糸は、
旅に出るわが子が身に付ける衣服を縫っている。


出かけて行くわが子(遊学の出発に当たって)のため手を抜かず緻密に、思いをこめて一針一針心をこめて縫っている。
母は心配している、息子の帰りが遅くなるのではないかと。
 
 臨行 = 出かけて行く。
 密々 = 緻密。ていねいに。
 
子どもがわずかばかり親に孝をつくそうとする心を持ったとしても、それで親の心に報えると誰が言えるだろうか。どのようにしても親の恩に報いることは出来ない。 
 寸草心 = 子どもの心に例えた。
 三春暉 = 母の心に例えた。母の大きな慈愛を例えた。     
    三春とは、孟春、仲春、季春の三か月のこと。
  暉 = 日ざし、輝き。

孟郊がようやく進士の試験に合格し、50才で任地に赴くに当たり、母を呼び寄せたときに作られた詩ともいわれる
    ・・・ とのことです。    (2021.8.9 記)





    【 中国の絶句 】
   盧綸 の 『長安春望』





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盧綸 の 『 長安春望 』

中国の律古詩
07 /23 2021
  長安春望   盧綸

東風 雨を 吹いて 青山を 過ぐ
却って 千門を 望めば 草色 閑なり
家は 夢中に 在って 何れの 日にか 到らん
春は 江上に 來って 幾人か 還る
川原 繚繞たり 浮雲の 外
宮闕 參差たり 落照の 間
誰か 念わん 儒と 爲って 世難に 逢い
独り 衰鬢を 將って 秦関に 客たらんとは


  ちょうあんしゅんぼう   ろりん
とうふう あめを ふいて せいざんを すぐ
かえって せんもんを のぞめば そうしょく かんなり
いえは むちゅうに あって いずれの ひにか いたらん
はるは こうじょうに きたって いくにんか かえる
せんげん りょうじょうたり ふうんの ほか
きゅうけつ しんしたり らくしょうの あいだ
たれか おもわん じゅと なって せなんに あい
ひとり すいびんを もって しんかんに かくたらんとは

先生のお話によると、
盧綸(748-800?)は、中唐初期の詩人。山西省永済の辺りで生まれる。安禄山の乱をさけて鄱陽(はよう)湖の近くに移り住み、進士の試験を受けたが何度も失敗した。
8代目代宗の時代で、時の宰相であった元載(げんさい)に文才を認められ、官職に就き、警察・軍事の職務などを経て、監察御史(役人の功罪を監視する役職)となった。
この詩は、19~20才の頃、試験を受けるため長安に来たが何度も不合格となり、長安の春景色を眺めながら自分の不運を嘆いて作った詩と言われるが、35~36才頃に作った詩とも言われている。

       ◆  ◆  ◆

詩の意味は、
春風が雨をもたらし、青い山なみを過ぎてゆく。
ふりかえって、たくさんの宮殿の門のある辺りを振り返れば、茂った春の若草の色はのどかである。

 東 風 = 春風。 
 千 門 = 宮城の多くの門

わが家のあるふるさと(蒲県・ほけん)はただ夢の中にあるだけで
いったいいつになったら帰れるだろうか。
春になって川のほとりにやって来てはみたが何人の人が
ふるさとに帰れたであろうか。
 
 
川ぞいの原野は長く長く、浮き雲の向こうにまで連なり、
宮殿の門は高く、低く不ぞろいで、夕陽に照らされている。
 
 繚 繞 = 繚・まとう 繞・めぐらすで、曲がりくねっている様子。
 宮 闕 = 宮殿     
 參 差 = 高く低くふぞろい
 落 照 = 夕陽の光

自分は思いもかけず儒者となって、乱れた世にめぐりあわせ、
ただ一人、薄く白々した髪となった身で、秦関(長安の辺り)を
さ迷い旅暮らしをしようとは、思いもしないことであった。
(自分の不遇を嘆いている)
 
 世 難 = 世の中の騒乱
 衰 鬢 = 薄くなった鬢の毛
 秦 關 = 関中、ここでは長安をさす 

安禄山の乱(755~763)の後も、長安は異民族に攻められたり、内紛などが続き、各地で反乱が起き、戦乱が勃発した。
盧綸は、役人としては恵まれなかったが詩人としては優れ、大暦の十才子(たいれきのじっさいし)の一人となっている。大暦とは中唐の初期、代宗の年号で766~779年。安禄山の乱後の動乱が収束しつつある時期で、白居易など中唐詩の形成される前の過渡期に当たる
    ・・・ とのことです。    (2021.8.1 記)






第51首 かくとだに えやはいぶきの さしも草

百人一首を詠う会
03 /24 2021
百人一首51、かくとだに

  かくとだに えやはいぶきの さしも草
      さしも知らじな 燃ゆる思ひを


作者 藤原実方朝臣(?~998)時の宮廷の花形の一人で、清少納言とも親しかった。正暦五年(995)には左近中将となったが、藤原行成(書道の名家で三蹟の一人)と歌のことで紛争があり、陸奥守に左遷され、任地で没した。
   
歌意 せめて、こんなに私が恋い慕っているとだけでもあなたに言いたいのですが、言うことが出来ません。伊吹山のさしも草が燃えるように激しく燃え上がる私の恋の思い火が、そんなにまで激しいものと、あなたにはお分かりにならないでしょうね。



こちら でも ご覧いただけます。


  【百人一首を詠う会】
第50首 君がため 押しからざりし







第52首 君がため 惜しからざりし 命さえ

百人一首を詠う会
03 /24 2021
百人一首50、君がため

  君がため 惜しからざりし 命さえ
       長くもがなと 思ひけるかな


作者 藤原義孝(954~974)第45首作者である謙徳公伊尹の三男。行成(書道の名家で三蹟の一人)の父。天然痘のため21才で死去(兄も同じ日に死去している)。
   
歌意 あなたに逢うためには、命を的にしても一向に惜しいとは思わなかったその命までも、あなたに逢うことが出来た今となってみれば、いついつまでも長からん事をと祈る気持ちでいっぱいなのです。


こちら でも ご覧いただけます。





夏目漱石 の 『 春日偶成 』

日本の絶句
02 /14 2020
絶句編テキスト

2020年2月14日 絶句編 97ページ  

   春日偶成    夏目漱石 
 道う 莫かれ 風塵に 老ゆと
 軒に 当れば 野趣 新たなり
 竹 深うして 鶯 乱れ 囀り
 清昼 臥して 春を 聴く
   
 しゅんじつぐうせい   なつめそうせき
いう なかれ ふうじんに おゆと
けんに あたれば やしゅ あらたなり
たけ ふこうして うぐいす みだれ さえずり
せいちゅう がして はるを きく


テキストの通釈によると、
俗世間の煩雑さの中で、いたずらに老いてゆく
ことが嘆かれる、などと言ってはいけない。
胸中の閑日月を抱いて過ごしたまえ。
まあ我が家の縁側からの、この春の風情はどうであろう。
健康で素朴な自然の新鮮さがいっぱいに溢れているではないか。
さて、竹も勢いよく伸び、深々と茂り
 (ちょっと王維の詩の世界のようで)
おまけに鶯があちこち鳴くのが聞こえてくる。
どれ、ゴロリと横になって、この勿体ないほど閑雅な真昼間、
しみじみと鶯の声を聞きながら、春の情趣を味わおう。
 ( ※ 閑日月とは物事にこせこせしない余裕を持って)
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
夏目漱石(1867~1916)は、明治から大正にかけての英文学者。
本名は、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸生まれ。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ。
帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)を
卒業後、松山の尋常中学校、熊本五校などで
英語を教え、その後、イギリスに留学。
帰国して一高(東京帝大)で教鞭をとりながら
1905年(明治38)『我輩は猫である』、その翌年
1906年『坊ちゃん』などを書き、評判となった。
その後、朝日新聞に入社し、『三四郎』『それから』
『門』『彼岸過ぎまで』『行人』『心』などを著した。

1910年(明治43)、『門』を執筆の途中で
胃潰瘍を患い入院。その後、伊豆の修善寺で
転地療養するが、そこで大吐血を起こし、危篤状態
となり生死をさ迷う(いわゆる「修善寺の大患」)。
その後も神経衰弱、胃潰瘍などに悩まされ続け、
『明暗』を未完のまま、大正5年、50才で死去した。

1889年(明治22)、正岡子規の漢詩や俳句などの
文集に漱石が批評を書いたことから友情が始まった。
漱石が漢文でしたためた房総半島の旅紀行を見て
子規は漱石の優れた漢文、漢詩に驚いたという。
子規との交流は漱石がイギリス留学中の
1902年〈明治35〉に子規が没するまで続いた。
「漱石」は、子規のペンネームの一つであったものを
漱石が子規から譲り受けたものである。

       ★ ★ ★

 道  : 云と同義。動詞。物を見る、言うと同じ。
風 塵 : 人の世。俗世間。
当 軒 : ちょうど手すりのところに出て眺めると。
   縁側の手すりにもたれて見渡すと。
   『軒』は、手すり。欄干。
   『当』は、ちょうどその所でする。
野 趣 : 素朴で健康な自然のおもむき。
清 昼 : 俗世間から超越した静かな真昼。
     ・・・ とのことです。

この詩は漱石が46才の時に作った漢詩10題のうちの第1首である。




    【 日本の絶句 】
   釈 月性 の 『将に東遊せんとして壁に題す』






王 昌齢 の 『 出塞行 』

中国の絶句
01 /26 2020
絶句編テキスト
2020年1月26日 絶句編 115ページ  

   出塞行       王 昌齢 
 
 白草 原頭 京師を 望めば
 黄河 水 流れて 尽くる 時 無し
 秋天 曠野 行人 絶ゆ
 馬首 東来 知んぬ 是 誰ぞ

   
 しゅっさいこう   おう しょうれい
はくそう げんとう けいしを のぞめば
こうが みず ながれて つくる とき なし
しゅうてん こうや こうじん たゆ
ばしゅ とうらい しんぬ これ たれぞ

テキストの通釈によると、
白草の生い茂る原野に立ち、
なつかしい都の方を望み見る。
だが、都は見えるはずもなく、ただ黄河の水が
西から東へ流れ去って尽きる時もない。
秋空のもと果てしなく広がる原野には、
往き来する人影も絶えた。と折しも、
馬首を東に向け都の方へ行く者が見えた。
いったいあれは誰であろうか
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王 昌齢(698~755)は、727年に進士となり、秘書省の校書郎から
汜水の県尉(警察官)となったが、奔放な生活ぶりで
江寧(こうねい:現在の南京)の丞から竜標の尉に左遷された。
その後、安禄山の乱の時に官を辞して故郷(長安)に帰るが、
58才位で、長安の刺史の閭丘暁(りょきゅうぎょう)に憎まれて殺された。

出塞行 : 楽府題。辺塞守備兵の辛苦を述べる。
   辺塞は、辺境の地にあるとりで。
白草原頭 : 白草の生い茂っている原野の辺り。
   所在ははっきりしない。砂漠には白い草が見られる。
京 師 : 都。長安をさす。
曠 野 : 何もない広々した野原。
行 人 : 旅ゆく人。
馬首東来 : 馬の首を東に向ける。『来』は助字で
   「来る」という意味ではなく東に向けるの意。
知是誰 : 誰であるかわからない。『知』は、
   疑問詞(誰)の上につくと「不知」(知らず)の意となる。
    
     ★  ★  ★

★楽府題には、○○行、○○詞、○○歌・・などがある
     ・・・ とのことです。



 王昌齢 の 『 西宮秋怨 』
   
 王昌齢 の 『芙蓉楼にて辛漸を送る』

 王昌齢 の 『 従軍行 』


   

    【 中国の絶句 】
   王昌齢 の 『 従軍行 』










令和2(2020)年、6回目の初吟会

初吟会
01 /13 2020
1月13日、午前10時半より、練馬のホテルで
吟詠萠洲流豊城会の初吟会と新年会がありました。

初吟会看板2

プログラムは、
第一部 初吟会
 開会のことば
 会詩合吟
 会長あいさつ
 宗家あいさつ
 会員吟詠

    1、絶句一題     
    2、半 夜    良 寛
    3、武野の晴月   林 羅山
    4、月夜三叉口に舟を浮ぶ   高野 蘭亭
    5、弘道館に梅花を賞す   徳川 景山 (吟休み)
    6、廬山の瀑布を望む     李 白
    7、楓橋夜泊    張 継
    8、寒夜の即事    寂室 元光
    9、山 行     杜 牧
   10、立山を望む    国分 青厓
   11、桶狭間を過ぐ    大田 錦城
   12、立山を望む    国分 青厓 
   13、河内路上    菊池 渓琴
   14、山 行     杜 牧 (お休み)
   15、山 行     杜 牧  
   16、夜墨水を下る    服部 南郭
   17、八幡公     頼 山陽
   18、中 庸     元田 東野 (お休み)
   19、八幡公     頼 山陽 (お休み)
   20、廬山の瀑布を望む     李 白
   21、寒夜の即事    寂室 元光
   22、弘道館に梅花を賞す   徳川 景山 (お休み)
   23、赤馬が原舟中の作   伊形 霊雨 (吟休み)
   24、春を探る     戴 益
   25、寒夜の即事    寂室 元光
   26、楓橋夜泊     張 継
   
 宗家講評 と 模範吟 松岡萠洲 先生
     梅 花      王 安石
 
第二部 新年会
 乾杯・宴会
 南京玉すだれ
 舞・祝賀の詞 (歌・テープ)
 閉会の言葉・手締め

2~3月に地域のコンクールがありますので、
コンクールに参加する人は同じ吟題になります。

私にとっては6回目の初吟会で、
1回目は、花を惜しむ  福沢諭吉 
2回目は、山房春事   岑 参
3回目は、海を望む   藤井竹外  
4回目は、折 楊 柳    楊 巨源
5回目は、暁に発す   月田 蒙斎
 今回は、山 行    杜 牧 でした。




   【初吟会】
 平成31(2019)年、5回目の初吟会





王 昌齢 の 『 従軍行 』

中国の絶句
12 /21 2019
絶句編テキスト
2019年12月21日 絶句編 114ページ  

   従軍行       王 昌齢 
 
 秦時の 明月 漢時の 関
 万里 長征して 人 未だ 還らず
 但 竜城の 飛将をして 在らしめば
 胡馬をして 陰山を 度らしめず

   
 じゅうぐんこうおう しょうれい
しんじの めいげつ かんじの かん
ばんり ちょうせいして ひと いまだ かえらず
ただ りゅうじょうの ひしょうをして あらしめば
こばをして いんざんを わたらしめず

テキストの通釈によると、
秦のころにも照っていた明月、漢の時代から
置かれていた関所、今も昔と変りがない。
万里も遠く長征してまだ帰れない。ただ竜城の
飛将軍とうたわれた、かの李将軍がいたならば、
胡(えびす:異民族)の馬に陰山を
渡らせるような事はさせないものを
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王 昌齢(698~755)は、727年に進士となり、秘書省の校書郎から
汜水の県尉(警察官)となったが、奔放な生活ぶりで
江寧(こうそしょう:現在の江蘇省)の丞から竜標の尉に左遷された。
その後、安禄山の乱の時に官を辞して故郷(南京)に帰るが、
58才位で閭丘暁(りょきゅうぎょう)に憎まれて殺された。

竜 城 : モンゴル地方を中心にしていた匈奴の地名。
   ゴビ砂漠と万里の長城との間にある陰山山脈の
   向こうにあり、塔未爾(タミール)河のほとりにある。
   地名のいわれは、竜神を信じる匈奴たちが
   五月に大集会をする地だからだという。
   今は、内蒙古自治区に属する地。
飛 将 : 前漢の李広将軍のこと。騎射の名手だったので、
   匈奴にこう呼ばれた。『史記』の李将軍列伝に
   「広、右北平に居る。匈奴之を聞き、号して飛将軍と日(い)い、
   之を避く、数歳敢て右北平に入らず」と匈奴に恐れられた名将。
陰 山 : 山西省の北方から内蒙古に広がる山脈。
   万里の長城とゴビ砂漠にはさまれた位置にある。
   漢と匈奴の国境の役割をした。
 
     ★  ★  ★

★秦は20年ほど、漢は400年ほど続いた。
★王 昌齢は、役人としては出世しなかったが、
 宮詩、辺塞詩、送別詩などに優れていた。
★この詩は、出征兵士の苦しみを詠った楽府題である。
 王 昌齢には戦争の経験はないが、『従軍行』は
 7首あって、この詩はその4である。
★漢の武帝の時代に始まった楽府題は、唐の時代になると
 新楽府題と言われ、やや趣を変えてきている
     ・・・ とのことです。



 王昌齢 の 『 西宮秋怨 』
   
 王昌齢 の 『芙蓉楼にて辛漸を送る』


   

    【 中国の絶句 】
   王昌齢 の 『芙蓉楼にて辛漸を送る』










王 昌齢 の 『芙蓉楼にて辛漸を送る』

中国の絶句
11 /23 2019
絶句編テキスト
2019年11月23日 絶句編 113ページ  

   芙蓉楼にて辛漸を送る       王 昌齢 
 
 寒雨 江に 連なって 夜 呉に 入る
 平明 客を 送れば 楚山 孤なり
 洛陽の 親友 如し 相 問わば
 一片の 氷心 玉壺に 在り

   
 ふようろうにて しんぜんをおくるおう しょうれい
かんう こうに つらなって よる ごに いる
へいめい かくを おくれば そざん こなり
らくようの しんゆう もし あい とわば
いっぺんの ひょうしん ぎょくこに あり

テキストの通釈によると、
寒々とした雨が長江(揚子江)にふりそそぐ中を、
夜になってから呉の地にやって来た。
明け方に友人を見送ると、夜来の雨もやんで、
朝もやの晴れゆく中にポツンと楚の山が見える。
洛陽の友人がもし、王 昌齢はどうしているかと尋ねたら、
彼の心は一片のすみきった氷が玉壺の中にあるようだ
(決して彼はくさってないよ)と言ってくれ
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王 昌齢(698~755)は、727年に進士となり、秘書省の校書郎から
汜水の県尉(警察官)となったが、奔放な生活ぶりで
江寧(こうそしょう:現在の江蘇省)の丞から竜標の尉に左遷された。
その後、安禄山の乱の時に官を辞して故郷(南京)に帰るが、
58才位で閭丘暁(りょきゅうぎょう)に憎まれて殺された。

芙蓉楼 : 潤州(じゅんしゅう:江蘇省の鎮江)の西北隅にあって
   北に長江を望む。揚州の向かいになる。
辛 漸 : 王 昌齢の友人であるが、事績ははっきりしない。
寒雨連江 : 寒々とした雲がたちこめ、雨が降りそそいで、
   天と水の区別がつかないさま。
平 明 : 明け方。ものの弁別ができる時間。
楚山孤 : 楚の山がポツンと見える。
一片氷心 : 一片の透き通った氷のような心。
玉 壺 : 白玉で作った壺。
   「清らかさ」という抽象的な概念を「玉壺の氷」という
   具体的なもので表わした→心境の清澄さに用いた。

     ★  ★  ★

★王 昌齢は、役人としては出世しなかったが、
 宮詩、辺塞詩、送別詩などに優れていた。
★この詩は、左遷されて、実際には都へ帰りたいけどと
 強がりを言っている作者の気持ちが感じられる
     ・・・ とのことです。



 王昌齢 の 『 西宮秋怨 』
   



   

    【 中国の絶句 】
   王 維 の 『 竹里館 』










王 維 の 『 竹里館 』

中国の絶句
10 /20 2019
絶句編テキスト
2019年10月20日 絶句編 112ページ  

   竹里館       王 維 
 
 独り 坐す 幽篁の 裏
 弾琴 復 長嘯
 深林 人 知らず
 明月 来って 相 照らす

   
 ちくりかん   おう い
ひとり ざす ゆうこうの うち
だんきん また ちょうしょう
しんりん ひと しらず
めいげつ きたって あい てらす

テキストの通釈によると、
奥深く物静かな竹薮の中に、私はただひとり坐して、
琴を弾いたり、また声を長く引いて詩をうたったりしている。
深い林のこととて、だれも知らないが(他に人は入って来ない)
天上の明月だけは、この林の奥まで月光をさしこんで、
私を照らしてくれている
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王維 は、699年、または701年に生まれ、61才で没。
701年生まれとすると21才で進士に合格。
故郷は山西省太原(たいげん)である。
王維は31才で妻を亡くし、初唐の宗之問から買い取った
広大な敷地の別荘・輞川荘で、隠棲していた時期があり、 
裴迪と唱和して『輞川20景』の詩を作っている

盛唐を代表する三大詩人のうち、
李白が詩仙、杜甫が詩聖、王維が詩仏と言われるが、
王維のお母さんが熱心な仏教徒で、その影響を受けている。  
また、王維は南画の祖でもあり、後に北宗の蘇東坡(蘇軾)が
王維のことを、詩中に画あり、画中に詩あり と 評している。   
 
竹里館 : 竹林の中にある離れ座敷の名。
   王維の所有する輞川(もうせん)の別荘の中にある。
幽篁裏 : 奥深く静かな竹薮の中。裏は中の意味。
   篁は竹薮を表わす。
長 嘯 : 嘯はうそぶくと言い、口をすぼめて声を出すこと
   であるが、ここでは口をすぼめて声を長く引いて  
   詩をうたうこと。長吟と同意。
弾 琴 : 琴を弾く。
相 照 : 相はお互いにの意味ではなく、一つの動作が
   他に及ぶとき使われる軽い意味の接頭語である。

     ★  ★  ★

★輞川荘は、長安の近く終南山のふもとにある別荘。
 この詩は輞川20景の一句である。
 裴迪(はいてき)が唱和して輞川40景となる。
★この詩は、三国時代の『竹林の七賢』に通じるところがある。
 竹林七賢は、俗世間から離れて、郊外の竹林で酒を飲み、
 琴を弾いて清遊した
     ・・・ とのことです。


王 維 の 『元二の安西に使するを送る』
王 維 の 『九月九日山東の兄弟を憶う』  
王 維 の 『 雑 詩 』  
王 維 の 『 鹿 柴 』  
   



   

    【 中国の絶句 】
   王 維 の 『元二の安西に使するを送る』










 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?