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王 昌齢 の 『 出塞行 』

中国の絶句
01 /26 2020
絶句編テキスト
2020年1月26日 絶句編 115ページ  

   出塞行       王 昌齢 
 
 白草 原頭 京師を 望めば
 黄河 水 流れて 尽くる 時 無し
 秋天 曠野 行人 絶ゆ
 馬首 東来 知んぬ 是 誰ぞ

   
 しゅっさいこう   おう しょうれい
はくそう げんとう けいしを のぞめば
こうが みず ながれて つくる とき なし
しゅうてん こうや こうじん たゆ
ばしゅ とうらい しんぬ これ たれぞ

テキストの通釈によると、
白草の生い茂る原野に立ち、
なつかしい都の方を望み見る。
だが、都は見えるはずもなく、ただ黄河の水が
西から東へ流れ去って尽きる時もない。
秋空のもと果てしなく広がる原野には、
往き来する人影も絶えた。と折しも、
馬首を東に向け都の方へ行く者が見えた。
いったいあれは誰であろうか
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王 昌齢(698~755)は、727年に進士となり、秘書省の校書郎から
汜水の県尉(警察官)となったが、奔放な生活ぶりで
江寧(こうねい:現在の南京)の丞から竜標の尉に左遷された。
その後、安禄山の乱の時に官を辞して故郷(長安)に帰るが、
58才位で、長安の刺史の閭丘暁(りょきゅうぎょう)に憎まれて殺された。

出塞行 : 楽府題。辺塞守備兵の辛苦を述べる。
   辺塞は、辺境の地にあるとりで。
白草原頭 : 白草の生い茂っている原野の辺り。
   所在ははっきりしない。砂漠には白い草が見られる。
京 師 : 都。長安をさす。
曠 野 : 何もない広々した野原。
行 人 : 旅ゆく人。
馬首東来 : 馬の首を東に向ける。『来』は助字で
   「来る」という意味ではなく東に向けるの意。
知是誰 : 誰であるかわからない。『知』は、
   疑問詞(誰)の上につくと「不知」(知らず)の意となる。
    
     ★  ★  ★

★楽府題には、○○行、○○詞、○○歌・・などがある
     ・・・ とのことです。



 王昌齢 の 『 西宮秋怨 』
   
 王昌齢 の 『芙蓉楼にて辛漸を送る』

 王昌齢 の 『 従軍行 』


   

    【 中国の絶句 】
   王昌齢 の 『 従軍行 』










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王 昌齢 の 『 従軍行 』

中国の絶句
12 /21 2019
絶句編テキスト
2019年12月21日 絶句編 114ページ  

   従軍行       王 昌齢 
 
 秦時の 明月 漢時の 関
 万里 長征して 人 未だ 還らず
 但 竜城の 飛将をして 在らしめば
 胡馬をして 陰山を 度らしめず

   
 じゅうぐんこうおう しょうれい
しんじの めいげつ かんじの かん
ばんり ちょうせいして ひと いまだ かえらず
ただ りゅうじょうの ひしょうをして あらしめば
こばをして いんざんを わたらしめず

テキストの通釈によると、
秦のころにも照っていた明月、漢の時代から
置かれていた関所、今も昔と変りがない。
万里も遠く長征してまだ帰れない。ただ竜城の
飛将軍とうたわれた、かの李将軍がいたならば、
胡(えびす:異民族)の馬に陰山を
渡らせるような事はさせないものを
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王 昌齢(698~755)は、727年に進士となり、秘書省の校書郎から
汜水の県尉(警察官)となったが、奔放な生活ぶりで
江寧(こうそしょう:現在の江蘇省)の丞から竜標の尉に左遷された。
その後、安禄山の乱の時に官を辞して故郷(南京)に帰るが、
58才位で閭丘暁(りょきゅうぎょう)に憎まれて殺された。

竜 城 : モンゴル地方を中心にしていた匈奴の地名。
   ゴビ砂漠と万里の長城との間にある陰山山脈の
   向こうにあり、塔未爾(タミール)河のほとりにある。
   地名のいわれは、竜神を信じる匈奴たちが
   五月に大集会をする地だからだという。
   今は、内蒙古自治区に属する地。
飛 将 : 前漢の李広将軍のこと。騎射の名手だったので、
   匈奴にこう呼ばれた。『史記』の李将軍列伝に
   「広、右北平に居る。匈奴之を聞き、号して飛将軍と日(い)い、
   之を避く、数歳敢て右北平に入らず」と匈奴に恐れられた名将。
陰 山 : 山西省の北方から内蒙古に広がる山脈。
   万里の長城とゴビ砂漠にはさまれた位置にある。
   漢と匈奴の国境の役割をした。
 
     ★  ★  ★

★秦は20年ほど、漢は400年ほど続いた。
★王 昌齢は、役人としては出世しなかったが、
 宮詩、辺塞詩、送別詩などに優れていた。
★この詩は、出征兵士の苦しみを詠った楽府題である。
 王 昌齢には戦争の経験はないが、『従軍行』は
 7首あって、この詩はその4である。
★漢の武帝の時代に始まった楽府題は、唐の時代になると
 新楽府題と言われ、やや趣を変えてきている
     ・・・ とのことです。



 王昌齢 の 『 西宮秋怨 』
   
 王昌齢 の 『芙蓉楼にて辛漸を送る』


   

    【 中国の絶句 】
   王昌齢 の 『芙蓉楼にて辛漸を送る』










王 昌齢 の 『芙蓉楼にて辛漸を送る』

中国の絶句
11 /23 2019
絶句編テキスト
2019年11月23日 絶句編 113ページ  

   芙蓉楼にて辛漸を送る       王 昌齢 
 
 寒雨 江に 連なって 夜 呉に 入る
 平明 客を 送れば 楚山 孤なり
 洛陽の 親友 如し 相 問わば
 一片の 氷心 玉壺に 在り

   
 ふようろうにて しんぜんをおくるおう しょうれい
かんう こうに つらなって よる ごに いる
へいめい かくを おくれば そざん こなり
らくようの しんゆう もし あい とわば
いっぺんの ひょうしん ぎょくこに あり

テキストの通釈によると、
寒々とした雨が長江(揚子江)にふりそそぐ中を、
夜になってから呉の地にやって来た。
明け方に友人を見送ると、夜来の雨もやんで、
朝もやの晴れゆく中にポツンと楚の山が見える。
洛陽の友人がもし、王 昌齢はどうしているかと尋ねたら、
彼の心は一片のすみきった氷が玉壺の中にあるようだ
(決して彼はくさってないよ)と言ってくれ
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王 昌齢(698~755)は、727年に進士となり、秘書省の校書郎から
汜水の県尉(警察官)となったが、奔放な生活ぶりで
江寧(こうそしょう:現在の江蘇省)の丞から竜標の尉に左遷された。
その後、安禄山の乱の時に官を辞して故郷(南京)に帰るが、
58才位で閭丘暁(りょきゅうぎょう)に憎まれて殺された。

芙蓉楼 : 潤州(じゅんしゅう:江蘇省の鎮江)の西北隅にあって
   北に長江を望む。揚州の向かいになる。
辛 漸 : 王 昌齢の友人であるが、事績ははっきりしない。
寒雨連江 : 寒々とした雲がたちこめ、雨が降りそそいで、
   天と水の区別がつかないさま。
平 明 : 明け方。ものの弁別ができる時間。
楚山孤 : 楚の山がポツンと見える。
一片氷心 : 一片の透き通った氷のような心。
玉 壺 : 白玉で作った壺。
   「清らかさ」という抽象的な概念を「玉壺の氷」という
   具体的なもので表わした→心境の清澄さに用いた。

     ★  ★  ★

★王 昌齢は、役人としては出世しなかったが、
 宮詩、辺塞詩、送別詩などに優れていた。
★この詩は、左遷されて、実際には都へ帰りたいけどと
 強がりを言っている作者の気持ちが感じられる
     ・・・ とのことです。



 王昌齢 の 『 西宮秋怨 』
   



   

    【 中国の絶句 】
   王 維 の 『 竹里館 』










王 維 の 『 竹里館 』

中国の絶句
10 /20 2019
絶句編テキスト
2019年10月20日 絶句編 112ページ  

   竹里館       王 維 
 
 独り 坐す 幽篁の 裏
 弾琴 復 長嘯
 深林 人 知らず
 明月 来って 相 照らす

   
 ちくりかん   おう い
ひとり ざす ゆうこうの うち
だんきん また ちょうしょう
しんりん ひと しらず
めいげつ きたって あい てらす

テキストの通釈によると、
奥深く物静かな竹薮の中に、私はただひとり坐して、
琴を弾いたり、また声を長く引いて詩をうたったりしている。
深い林のこととて、だれも知らないが(他に人は入って来ない)
天上の明月だけは、この林の奥まで月光をさしこんで、
私を照らしてくれている
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王維 は、699年、または701年に生まれ、61才で没。
701年生まれとすると21才で進士に合格。
故郷は山西省太原(たいげん)である。
王維は31才で妻を亡くし、初唐の宗之問から買い取った
広大な敷地の別荘・輞川荘で、隠棲していた時期があり、 
裴迪と唱和して『輞川20景』の詩を作っている

盛唐を代表する三大詩人のうち、
李白が詩仙、杜甫が詩聖、王維が詩仏と言われるが、
王維のお母さんが熱心な仏教徒で、その影響を受けている。  
また、王維は南画の祖でもあり、後に北宗の蘇東坡(蘇軾)が
王維のことを、詩中に画あり、画中に詩あり と 評している。   
 
竹里館 : 竹林の中にある離れ座敷の名。
   王維の所有する輞川(もうせん)の別荘の中にある。
幽篁裏 : 奥深く静かな竹薮の中。裏は中の意味。
   篁は竹薮を表わす。
長 嘯 : 嘯はうそぶくと言い、口をすぼめて声を出すこと
   であるが、ここでは口をすぼめて声を長く引いて  
   詩をうたうこと。長吟と同意。
弾 琴 : 琴を弾く。
相 照 : 相はお互いにの意味ではなく、一つの動作が
   他に及ぶとき使われる軽い意味の接頭語である。

     ★  ★  ★

★輞川荘は、長安の近く終南山のふもとにある別荘。
 この詩は輞川20景の一句である。
 裴迪(はいてき)が唱和して輞川40景となる。
★この詩は、三国時代の『竹林の七賢』に通じるところがある。
 竹林七賢は、俗世間から離れて、郊外の竹林で酒を飲み、
 琴を弾いて清遊した
     ・・・ とのことです。


王 維 の 『元二の安西に使するを送る』
王 維 の 『九月九日山東の兄弟を憶う』  
王 維 の 『 雑 詩 』  
王 維 の 『 鹿 柴 』  
   



   

    【 中国の絶句 】
   王 維 の 『元二の安西に使するを送る』










王 維 の 『元二の安西に使するを送る』

中国の絶句
09 /07 2019
絶句編テキスト
2019年9月7日 絶句編 111ページ  

   元二の安西に使するを送る      王 維 
 
 渭城の 朝雨 軽塵を 浥す
 客舎 青々 柳色 新たなり
 君に 勧む 更に 尽せ 一杯の 酒を
 西のかた 陽関を 出ずれば 故人 無からん

   
 げんじのあんせいにつかいするをおくる   おう い
いじょうの ちょうう けいじんを うるおす
かくしゃ せいせい りゅうしょく あらたなり
きみに すすむ さらに つくせ いっぱいの さけを
にしのかた ようかんを いずれば こじん なからん

テキストの通釈によると、
渭城の町には朝の雨が降って、軽い塵ぼこりを
しっとりと濡らしている。旅館の前の柳は
洗われて、青々とした葉の色を見せている。
さあ、君、ここでもう一杯酒を飲みたまえ。
西の方、あの陽関を出てしまえば、もう共に
酒を酌みかわす友もいないだろうから
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王維 は、699年、または701年に生まれ、61才で没。
701年生まれとすると21才で進士に合格。
故郷は山西省太原(たいげん)である。
王維は31才で妻を亡くし、初唐の宗之問から買い取った
広大な敷地の別荘・輞川荘で、隠棲していた時期があり、 
裴迪と唱和して『輞川20景』の詩を作っている

盛唐を代表する三大詩人のうち、
李白が詩仙、杜甫が詩聖、王維が詩仏と言われるが、
王維のお母さんが熱心な仏教徒で、その影響を受けている。  
また、王維は南画の祖でもあり、後に北宗の蘇東坡(蘇軾)が
王維のことを、詩中に画あり、画中に詩あり と 評している。   
 
元 二 : 元は姓、二は排行(はいこう)。排行とは、同姓の
   一族の中で同じ世代に属する者(兄弟やいとこ)が、
   生年順につける番号。一番上は『大』といい、
   以下、二、三・・・・・とつけていく。
安 西 : 安西都護府(とごふ)。
   今の新疆(しんきょう)省・吐魯蕃(とるふぁん)にあった。
渭 城 : 長安の渭水をはさんだ対岸の町。
   咸陽(かんよう・秦の時代の都)の別名。長安から西へ行く
   街道の最初の宿場となる。当時の人々は、前の日に
   ここまで見送りに来て、夜、宴会を開き、翌朝
   旅だつ人を送るのが、習わしであった。
軽 塵 : 軽い塵ぼこり。この辺りは黄土地帯で
   きわめて細かい塵ぼこりが立つのである。
客 舎 : 旅館。
青 々 : 柳の葉の色が青いこと。
柳色新 : 中国では、別れに際して柳の枝を手折って、
   はなむけにする習わしが古くからある。柳→留の
   音通によって「ひきとめる」の意を表す、とか、
   枝を環にするところから、環→還の音通によって
   早く「おかえり」の意を表すとかの説がある。
   つまり、柳は別れの象徴である。
陽 関 : 甘粛省敦煌県の西南130里にある関所。
   玉門関の南にあった。
故 人 : 親友。古くからの友人。 

     ★  ★  ★

★結句の『陽関を出ずれば故人無からん』を、
 中国では、≪陽関三畳≫を三回繰り返して詠い
 別れの歌として、日本の≪蛍の光≫に相当する。
 この詩は、その意味でも有名である。
★詩吟で詠う場合は、全詩を詠ってから
『無からん無からん、故人無からん、西のかた
 陽関を出ずらば故人無からん』と繰り返すようである
    ・・・ とのことです。


王 維 の 『 竹 里 館 』
王 維 の 『元二の安西に使するを送る』
王 維 の 『九月九日山東の兄弟を憶う』  
王 維 の 『 雑 詩 』  
王 維 の 『 鹿 柴 』  

 


   

    【 中国の絶句 】
   孟 浩然 の 『 春 暁 』










孟 浩然 の 『 春 暁 』

中国の絶句
08 /17 2019
絶句編テキスト
2019年8月17日 絶句編 110ページ  

   春 暁      孟 浩然 
 春眠 暁を 覚えず
 処処 啼鳥を 聞く
 夜来 風雨の 声
 花 落つること 知んぬ 多少ぞ

   
 しゅんぎょう   もう こうねん
しゅんみん あかつきを おぼえず
しょしょ ていちょうを きく
やらい ふううの こえ
はな おつること しんぬ たしょうぞ

テキストの通釈によると、
春の眠りは心地良く、うつらうつらと
夜の明けたのも気づかずに寝ている。
外ではあちこちに鳥の鳴く声が聞こえる。
夕べは風雨の音がしていたが、
庭の花はどれほど散ったことやら
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
孟 浩然(689‐740)は、盛唐の詩人。
湖北省襄陽(じょうよう)の鹿門山(ろくもんざん)に隠棲。
各地を放浪したこともあった。40才頃、長安に出て、
仕官しようとしたが、科挙の試験に合格していないため
上級官僚にはなれず、下級の役職に就いたが長続きせず、
江南地区を放浪し、また鹿門山に戻り、隠棲する。

孟 浩然の詩には、山水・田園風景を詠ったものが多く
自然詩人して広く知られ、特に五言絶句が得意であった。
王維・李白・張九齢らとも親しく交流があり、李白の詩に
『黄鶴樓にて孟浩然の広陵に之を送る』という作品がある。

春 眠 : 春の心地良い眠り。
不暁覚 : 朝になったのに気がつかない。
処処 : あちらこちら。いたるところ。
啼 鳥 : 鳥の啼く声。
夜 来 : 昨夜。「来」は助字で、この場合意味がない。
知多少 : どれほどか分らない。「多少」にはいろいろの意味があるが、
   ここでは疑問詞。多いか少ないか、どれほど?の意になる。
   「知」は疑問詞の上につくと「不知」(知らず)の意になる。

     ★  ★  ★

★ この詩は、作者の満ち足りたのどかな生活が感じられ、
  春を象徴したものとして広く知られている。
  また、起承転結の模範ともされる詩である。
   ・・・ とのことです。



   

    【 中国の絶句 】
   王 之渙 の 『涼州詞』










王 之渙 の 『 涼州詞 』

中国の絶句
07 /27 2019
絶句編テキスト
2019年7月27日 絶句編 109ページ  

   涼州詞      王 之渙 
 黄河 遠く 上る 白雲の 間
 一片の 孤城 万仭の 山
 羌笛 何ぞ 須いん 楊柳を 怨むを
 春光 度らず 玉門関

   
 りょうしゅうし   おう しかん
こうが とおく のぼる はくうんの かん
いっぺんの こじょう ばんじんの やま
きょうてき なんぞ もちいん ようりゅうを うらむを
しゅんこう わたらず ぎょくもんかん

テキストの通釈によると、
黄河をずっと遡って、はるか上流の
白雲のたなびく辺り、ぽつんと一つ、
砦が高い山の上に立っている。
折りから吹く羌族の笛の音は『折楊柳』の曲を
哀切に奏でているが、そんな笛は吹く必要はないぞ。
それを聞いても悲しくなんかない。なぜなら、
ここ玉門関までは春の光がやって来ないのだから。
(柳が芽吹くこともない。春の柳の芽吹くころの
 別れをうたう曲を吹いたって、こっちは関係ない)
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王 之渙(688‐742)は、盛唐の詩人。
若い頃から酒を好み、侠気にあふれていたが、いつの頃からか
読書、勉学に励み、10年位で文人として知られるようになった。
一時役人をしたこともあったが、在野の詩人として活躍した。
王昌齢、高適(こうせき)と親しく、辺塞詩人として有名である。

涼州詞 : 唐代にできた『楽府(がふ)』の題名。
遠 上 : 黄河は崑崙山脈に源を発する。黄河の上流を
   西方へ遡って行くにつれて、地勢が高くなる。 
一 片 : いかにも危なげな、心細げな砦一つの意。
万 仭 : 一仭は8尺(約2m)。
   万仭は実数ではなく、非常に高いこと。   
羌 笛 : 羌族の吹く笛。羌族は中国西北地方にいる部族で、
   チベット系の遊牧民である。
何 須 : どうして~の必要があろうか、いやない。(反語)
楊 柳 : 『折楊柳』という曲のこと。別離の際、
   柳の枝を手折って、はなむけにする習わしがあることから、
   それを主題とした曲。つまり別れの曲である。
   楊は葉が上向き、柳は葉が下向きにしだれている。
 怨  : 『折楊柳』の曲を哀切に吹き鳴らすこと。
   それは聞く者を悲しませることになる。 
春光度 : 度は渡と同じ。西北の地は寒いので、
   春の光はこの玉門関までやって来ない。
   このため楊柳も芽吹かないの意。
玉門関 : 甘粛省敦煌県の西にある。
   唐代における最も遠い辺境の関所。

     ★  ★  ★

★ 起句、承句とがそれぞれ対句になっている。
    黄⇔白  一⇔万
  
★ 『楽府題』については こちら でも ご覧いただけますが、
  前漢7代の武帝は詩を愛して、各地の民謡を集め、
  楽譜をつけ、楽体、楽題ごと、朝廷に保管(楽府)した
   ・・・ とのことです。



   

    【 中国の絶句 】
   王 之渙 の 『鸛鵲楼に登る』










王 之渙 の 『鸛鵲楼に登る』

中国の絶句
06 /22 2019
絶句編テキスト
2019年6月22日 絶句編 108ページ  

   鸛鵲楼に登る      王 之渙 
 白日 山に 依って 尽き
 黄河 海に 入って 流る
 千里の 目を 窮めんと 欲し
 更に 上る 一層の 楼

   
 かんじゃくろうに のぼる   おう しかん
はくじつ やまに よって つき
こうが うみに いって ながる
せんりの めを きわめんと ほっし
さらに のぼる いっそうの ろう

テキストの通釈によると、
この鸛鵲楼から眺めると、いましも日は赤々と
黒い山並みの向うに沈み、目の下には
滔々たる黄河の流れが、北からこの地で
東へと曲り、海に注ぐ勢いで流れている。
この雄大な眺望を、さらに遠く千里の向うまでも
極めようと、もう一層上に登った
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王 之渙(688‐742)は、盛唐の詩人。
若い頃から酒を好み、侠気にあふれていたが、いつの頃からか
読書、勉学に励み、10年位で文人として知られるようになった。
一時役人をしたこともあったが、在野の詩人として活躍した。
王昌齢、高適(こうせき)と親しく、辺塞詩人として有名である。

鸛鵲楼 : 山西省永済県の西南の城郭に立つ三層楼。
   鸛鵲(こうのとり)が、ここに巣を作ったことから
   名付けられたという。眼下に黄河を望む名勝で、
   詩人たちが多くここに遊んだ。
白日 : 太陽。 
依山尽 : 山並みに沿いながら沈んでゆく。
黄 河 : 長江(揚子江)と並ぶ中国の二大河川の一つ。
   上流の黄砂を含んで流れるので、黄河という。
   この楼のあたりで北から流れてきた黄河が、
   ほぼ直角に東に向きを変え、遠く渤海に注ぐ、   
入海流 : この楼から海が見える筈もないが、黄河の
   勢いの如何にも滔々たる様を形容したもの。
千里目 : 千里四方を見渡す眺望。
一層楼 : 楼の一階上。層は階のこと。 

     ★  ★  ★

★ 起句と承句との対句が一般的であるが、この詩は、
  転句、結句も対句となっている全対格である。
    白⇔黄  山⇔海  千⇔一
  
★ 中国の四大楼閣は
    鸛鵲楼(山西省永済県) 黄河のほとり
    岳陽楼(湖南省岳陽県) 洞庭湖のほとり
    黄鶴楼(湖北省武漢市) 長江のほとり
    膝王閣(とうおうかく)(江西省南昌) 鄱陽湖(はようこ)のほとり
   ・・・ とのことです。


  

   

    【 中国の絶句 】
   王 翰 の 『 涼州詞 』










王 翰 の 『 涼州詞 』

中国の絶句
05 /26 2019
絶句編テキスト
2019年1月19日 絶句編 107ページ  

   涼州詞      王 翰 
 葡萄の 美酒 夜光の 杯
 飲まんと 欲すれば 琵琶 馬上に 催す
 酔うて 沙場に 臥す 君 笑うこと 莫かれ
 古来 征戦 幾人か 回る

   
 りょうしゅうし   おう かん
ぶどうの びしゅ やこうの はい
のまんと ほっすれば びわ ばじょうに もよおす
ようて さじょうに ふす きみ わろうこと なかれ
こらい せいせん いくにんか かえる

テキストの通釈によると、
葡萄のうま酒を、夜光る白玉の杯に注いで、
飲もうとすると、誰か馬上で琵琶をかき鳴らす者がいる。
したたか飲んで酔いつぶれ、そのまま砂漠の上に
倒れ伏してしまったとしても、どうか笑わないでくれたまえ。
昔からこんな僻地に出征して何人が故郷に帰れたであろうか
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
王 翰(687‐726という説がある)は、初唐の詩人。
若い時から気性が激しく、自由奔放。
馬や美女を集めて、狩猟や宴会をしていた。

睿宗(えいそう)の時代、711年、進士に合格。
宰相・張説(ちょう えつ)に認められて中央官僚に任ぜられたが、
張説の失脚とともに汝州(河南省)刺史として左遷され、
最終的には、道州(湖南省)に流されて死去した。
晩年は不遇な生活であったと思われる。

涼州詞 : 涼州は唐の西北の国境にあり、
   今の甘粛(かんしゅく)省武威(ぶい)県。
   酒泉・敦煌・陽関・玉門関の外は西域諸国、
   シルクロードの世界である。領土を拡張し
   要路を確保しようとする中国と、隙さえあれば本土に
   侵入しようと構える胡(異民族)との紛争は耐えない。
   『涼州詞』は、こうした辺境の厳しさや、遠征の苦しさを
   主題とする唐代にできた辺塞(僻地にある砦)詩である。
葡萄美酒 : 西域産の葡萄酒。葡萄はギリシャから
   西域に伝わり、漢の武帝のころ中国に入った。 
夜光杯 : 西域に産する白玉製の杯。夜光を発するところから
   この名を得た。また今のガラスのコップとも考えられる。
琵 琶 : 西域の楽器。馬上で弾ずるものであった。   
 催  : 急き立てられるように弾く。
沙 場 : 砂漠地帯。
 君  : 広く読者に向かっていう。 
征 戦 : 戦争に行くこと。

     ★  ★  ★

★ 詞、行、引、曲、吟などの付く詩は、楽府題である。
★ 楽府題の「府」は音楽を司る役所のこと。
 前漢7代の武帝は詩を愛して、各地に伝わる民謡を集め、
 楽譜をつけ、楽体・楽題として整理し、朝廷に保管した。
 『涼州詞』もそれらのうちのひとつである
   ・・・ とのことです。



   

    【 中国の絶句 】
   張 九齢 の 『鏡に照らして白髪を見る』










張 九齢 の 『鏡に照らして白髪を見る』

中国の絶句
05 /19 2019
絶句編テキスト
2019年5月19日 絶句編 106ページ  

   鏡に照らして白髪を見る      張 九齢 
 宿昔 青雲の 志
 蹉跎たり 白髪の 年
 誰か 知らん 明鏡の 裏
 形影 自ら 相 憫れまんとは

   
 かがみにてらして はくはつをみる   ちょう きゅうれい
しゅくせき せいうんの こころざし
さたたり はくはつの とし
たれか しらん めいきょうの うち
けいえい みずから あい あわれまんとは

テキストの通釈によると、
昔は功名をあげて出世する大志を抱いていたが、
失敗して空しく時は過ぎ、白髪の生える年に
なってしまった。今、この明るい鏡の中に、自分と
鏡に映るもう一人の自分が、お互いにその白髪を
憐れみ合おうとは、思いもかけないことであった
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
張 九齢(678‐740)は、初唐の詩人・政治家。
30歳で進士に及第。宰相の張説(ちょうえつ)に
引き立てられ、中書舎人(皇帝が出す詔勅の起草を
行う役職)となり、その後、地方官を歴任した。

62歳で中書令(宰相職)となり、張説の後を継いで
玄宗皇帝の治世を助けたが、玄宗皇帝に取り入った
門閥官僚の李林甫(りりんぽ)に中傷され、
地方官(湖北省江陵の長官)で終えた。
67才、地方官(湖北省の長官)で最後を終える。

宿 昔 : 昔。少壮の頃をさす。
青雲志 : 功名を立て、出世する志。 
蹉 跎 : 「つまずく」というのが原義で、それから転じて
   人生行路につまずく、失敗して志を得ない、
   空しく時を過ごすの意となる。          
誰 知 : 誰が知ろうか、思いもかけないことである。反語。   
形 影 : 『形』は自分自身、実像。
   『影』は鏡に映る自分、虚像。

     ★  ★  ★

★ 青雲、白髪 : 対句となっている。
★ この詩は、自分の体験に当てはめたのではなく、
 ごく世の中一般的に考えての詩と言える。
 李白 作 『秋浦の歌』(絶句編P.123)に似ている
   ・・・ とのことです。


   

    【 中国の絶句 】
   沈 佺期 の 『 邙 山 』





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