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詩吟もえ子さんに改名♪

あれやこれ
03 /17 2017
萠洲流のお稽古に参加して4年目となりました。
こちら にも書きましたが、
初参加の日は『絶句編』の135ページ、中国の絶句、
元稹の《白楽天の江州司馬に左降せらるるを聞く》でした。

その次の『続絶句編』もだいぶ進んで、
残りは一年余で終わります。そのあとは
『律詩編』となり、3~4年?かかり、
その後は和歌とか百人一首になるとのこと。
それで、いちばんの元になる『絶句編』の
最初からのお稽古を、先生にお願いして、
今月からやっていただけることになりました。
萠洲流の特徴である一段ぶりのまわしが
どうしてもスムーズにできない私ですが、
この絶句編が終わるころには出来るように
なっているかな~と期待もしているところです。

また、これまで 『詩吟の一年生』名で書いてきましたが
『詩吟もえ子』に改名させていただくことにしました。
萠洲流の『萠』 は もえ で入力できますし、
詩吟に『燃え』ている? の もえ と です。



   【あれやこれ】
 阿倍仲麻呂の伝記(その2)











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阿倍仲麻呂の伝記 (その2)

あれやこれ
01 /05 2017
阿倍仲麻呂の伝記 からの 続きです。
8135.jpg

阿部仲麻呂が 遣唐留学生として 唐に渡ったのは、
養老元年【717年】、総勢557人だった。

唐に渡った仲麻呂は太学に学び、科挙に及第して校書となり、
崔日知の推挙により玄宗皇帝の側近の官となった。

   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

仲麻呂が唐に渡って16年が過ぎた 天平5年【733年】4月
天平の遣唐使ら総勢594名を乗せた4艘の船が
唐に向けて出航し、翌年4月に玄宗皇帝に土産物を献上した。

その年【734年】10月、日本に帰る4艘を暴風雨が襲った。
そのうちの一艘は崑崙国に漂着。 乗っていた115人は
捕虜となったり、殺されたり、熱病によって死亡したりして、
4名だけが生き残り、崑崙王に謁見。2年後、唐に戻れた。

その4名は阿倍仲麻呂のとりなしで、玄宗皇帝に
渤海国を経て日本に帰る許可と助力を願い出た。
仲麻呂は玄宗皇帝の側近の官となっていたため
4名の帰国のための援助を懇請できる立場にいた。

    ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

仲麻呂は、天平の遣唐使らと共に帰国したいと願ったと
思われるが、玄宗皇帝による帰国の許可が下りなかった。
その折に作った漢詩が 『無題』 である。

この詩には、玄宗皇帝の寵愛に対する感謝の念が述べられ、
皇帝への忠を全うすれば、父母の恩に報いることができない。
忠と恩とが相矛盾するなか、自分の帰国がいつになるか
わかないことへの不安を述べている。
4名の帰国に尽力した仲麻呂は、
どのような気持ちで4人を送り出したのであろうか。

  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

仲麻呂が唐に渡って36年、53才になっていた
天平勝宝5年(753年)の春、20年ぶりに遣唐使が派遣され、
玄宗皇帝から仲麻呂に帰国の許可が下りた。
仲麻呂は秘書監、衡尉卿も兼務、位は従三品と思われる。

仲麻呂の帰国に当たって送別の宴席で披露された詩には、
 長大な序文があり、仲麻呂への思いがあふれる 王維の詩
 仲麻呂が長く仕えた 玄宗皇帝の 日本の遣唐使を送る詩
 長安を辞去する 仲麻呂自身の思いを伝える詩
 帰国の途中に遭難した仲麻呂の死の報を受けた 李白の詩
   ・・・などがある。

李白と王維、仲麻呂の三人は同年生まれということになる。
(三人の生誕年については諸説あるが1~3年の誤差に留まる)
李白と仲麻呂が出会ったのは40代の前半とみられる。

    ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

多くの人に別れを惜しまれた阿部仲麻呂でしたが、
日本への帰国の途中、暴風雨に遭い、ベトナムに漂着し、
陸路、再び唐に戻った時の心境はどのようなものだったでしょう?

続きは また 後ほど・・・



  【あれやこれ】 
  阿倍仲麻呂の伝記








阿倍仲麻呂の伝記

あれやこれ
01 /01 2017
≪阿倍仲麻呂の伝記≫で検索し、購入した本のご紹介です。

8135.jpg

私には難し過ぎて、分るところだけの飛ばし読みで、
まだ3分の1しか進んでいませんが、
なるほどと思ったことをメモしてみました。

仲麻呂の生年については二説がある。
 ・遣唐留学生に任命された年(716年)16才・・・日本の古書に記載
 ・仲麻呂が没したとされる年(770年)73才・・・唐の古書に記載
 どちらの記載に基づくかによって、唐に渡ったのが
 17才(任命の翌年)説か、20才説かになる。

仲麻呂の生家は中流の貴族であった。
 遣唐使となって勉学に励み、飛躍しようとしたのは、
 中流と下流の貴族出身者か、地方豪族出身者たちであった。
 上流貴族の子弟たちは危険を冒してまで遣唐使となることはしなかった。

17才で唐に渡った説をとると、18才以降で大学に入学し、
 21~27才(727年)の間に大学を修了。 
 在学中に蓄えた学力で 科挙の試験に臨んだとみられるが、
 仲麻呂が科挙の試験を受けたこと、合格したという記録も残っていない。
 仲麻呂の任官歴が、科挙及第者の任官コースに準じているため、
 多くの研究者が科挙に及第したと推定している。

李白(701~762年)と杜甫(712~770年)は、
 宮廷内の人的ネットワークがなく、努力をしたが、
 望むような官位を得ることができなかった。
 
仲麻呂が記録上、最初についた官職は【校書】と考えられる。
 書物の管理や高官の文筆を助ける係りであった。
 仲麻呂の唐名は朝衡で、友人とみられる人物の詩に、
 仲麻呂の容姿が美しく、皇太子宮に出入りしていると述べられている。
 宮廷社会においては、その容姿と立ち居振る舞いが重要視された。
 
仲麻呂も王維も、京兆府試験合格者であったが、王維は首席であり、
 10代で宮廷内の人的ネットワークを築くことができ、官位の上昇も
 早かったとみられるが、王維も美貌を誇る少年であった。

崔日知(さいじつち)という人物が仲麻呂を玄宗皇帝に推薦し、
 【左補闕】という官位につく。皇帝に近侍する側近で、
 高い見識が求められる官職であった。
 仲麻呂はその後一貫して、玄宗皇帝に近侍する官職を歴任し、
 安史の乱(755~763年)まで地方勤務がなく、
 玄宗皇帝の下を離れていない。
 科挙に及第して宮廷社会に入った文人官僚は、
 権力闘争が起きた場合、左遷や失脚することが多いが、
 仲麻呂の官位は上昇しつづけている。

玄宗皇帝の信任が篤く、学問に一定の評価がされていた
 ために就任したとみられる仲麻呂の官職は、
 【儀王友】 玄宗皇帝の第十二子儀王の家庭教師・教育係
 【衡尉少卿】えいいしょうきょう 衡尉卿の副官
 【衡尉卿】えいいきょう  『器械文物』の管理部門の統括者  
         武器庫、武器、守官の三部門も統括下となる。
 【秘書監】 秘書省の長官であり、定員一名、秘書省のトップである。

以上に続いて他の役職にも就いていくのですが、
この続きは、また後ほどに・・・

         ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

萠洲流の毎週のお稽古が、『続絶句編』の中国編に入って
盧僎『南楼の望』張敬忠『辺詞』 の2回が終ったところ。
中国の歴史についてほとんど知らなかった私にとっては
興味深い本にめぐりあえたと喜んでいるところです。
 

阿部仲麻呂の 和歌『天の原』絶句『無題』





  【あれやこれ】 
和歌を教えていただきました







和歌を教えていただきました

あれやこれ
08 /22 2016

これまでずっと漢詩(絶句)でしたが、
初めて、和歌を教えていただきました。

  天の原 ふりさけ見れば 春日なる
        三笠の山に いでし月かも


子どもの頃、百人一首でいちばんに覚えた句です。
作者の安倍仲磨(698~770)は、遣唐留学生として唐に渡り、
帰国できないまま唐で亡くなりました。
玄宗皇帝に仕え、李白・王維らとも親交があったとのことです。

いただいた資料によると、歌の意味は、
『広々として果てしなき大空をふり仰いで見ると、
 月が美しく昇っている。 ああ、あの月は、
 私が、故国 日本で見た 春日の三笠の山に
 出た月と同じものなのだなァ~』





 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?