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徳川 景山 の 『 水戸 八景 』

日本の律詩
01 /18 2019
 水戸 八景    徳川 景山

雪時 嘗て 賞す 仙湖の 景
雨の 夜 更に 遊ぶ 青柳の 頭
山寺の 晩鐘 幽壑に 響き
太田の 落雁 芳洲を 渡る
花香 爛漫たり 岩船の 夕べ
月色 玲瓏たり 広浦の 秋
遙かに 望む 村松 青嵐の 後
水門の 帰帆 高楼に 映ず


  みと はっけい    とくがわ けいざん
せつじ かつて しょうす せんこの けい
あめの よる さらに あそぶ あおやぎの ほとり
やまでらの ばんしょう ゆうがくに ひびき
おおたの らくがん ほうしゅうを わたる
かこう らんまんたり いわふねの ゆうべ
げっしょく れいろうたり ひろうらの あき
はるかに のぞむ むらまつ せいらんの あと
みなとの きはん こうろうに えいず


先生のお話によると、
徳川 景山(1800~1860)は、幕末の水戸藩9代の藩主・斉昭、
号は景山、烈公とも呼ばれる。水戸藩は代々の勤王家。
3代藩主は、徳川家康の孫で、いわゆる黄門さま。
徳川14代将軍をめぐって井伊直弼と対立し、蟄居を
命じられたこともあったが、14代将軍・家茂のあと
斉昭(景山)の息子である慶喜が15代将軍となる。
43才で、藩校・弘道館を設立して、文武両道を奨励した。
1860(万延元年)、61才にて歿。

       ◆  ◆  ◆

  詩の意味は、
私はかつて、千波湖の雪景色を心から楽しんだこともあり、
雨の夜、さらに那珂川の河畔にいくたびか遊んだこともある。
いずれも格別な情趣に心地良く浸ったこともあった。

 仙 湖 = 仙波湖のこと。 
 青柳の頭 = 青柳町、那珂川の河畔

山寺の晩鐘が、奥深い静かな谷あいに響き渡り、
太田にある池や沼に舞い降りた雁が、
芳しい花の咲いた中州を渡っていく。
 
 山 寺 = 常陸太田市にある久昌寺(きゅうしょうじ)
 太 田 = 常陸太田市にある池や沼 
 落 雁 = 空から舞い降りる雁

花の香りに満ち溢れている岩船の夕暮れや、
月が冴え、麗しく輝いている広浦・涸沼の秋の風情。
 
 岩 船 = 大洗町
 広 浦 = 東茨城・涸沼(ひぬま)     
 
はるかに望まれる村松には青葉に風が
吹き渡り、一服の涼が感じられて美しく、
那珂湊に帰って来る舟の白帆が高楼に映えて見える。
これらのすべてが美しく、水戸の八景である。
 
 村 松 = 東海村辺りの松の林
 青 嵐 = 青葉に吹き渡る風
 水 門 = 港、那珂湊

    ・・・ とのことです。    (2019.1.19 記)




     【日本の律詩】
   安積 艮斎 の 『 墨水 秋夕 』 









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安積 艮斎 の 『 墨水 秋夕 』

日本の律詩
12 /07 2018
 墨水 秋夕    安積 艮齋

霜 落ちて 滄江 秋水 清し
醉余 杖に 扶けられて 吟情を 寄す
黄蘆 半ば 老いて 風に 力 無く
白雁 高く 飛んで 月に 声 有り
松下の 燈光 孤廟 静かに
煙中の 人語 一船 行く
雲山 未だ 遂げず 平生の 志
此の処 聊か 応に 我が 纓を 濯うべし



  ぼくすい しゅうせき    あさか ごんさい

しも おちて そうこう しゅうすい きよし
すいよ つえに たすけられて ぎんじょうを よす
こうろ なかば おいて かぜに ちから なく
はくがん たかく とんで つきに こえ あり
しょうかの とうこう こびょう しずかに
えんちゅうの じんご いっせん ゆく
うんざん いまだ とげず へいぜいの こころざし
このところ いささか まさに わが えいを あろうべし


先生のお話によると、
江戸時代末期、二本松藩(現・郡山市)の儒学者。
『安積』は地名で、『艮斎』は号、本名は、安藤重信。
父は、二本松藩にある安積国造(あさかくにつこ)神社の
55代宮司・安藤親重の三男で、旧家の生まれである。

17才で江戸に出て佐藤一斎、林述斎らに学ぶ。
24才、神田駿河台に私塾
     ≪見山楼≫(富士山が見える熟)を開く。
53才、二本松藩校≪敬学館≫の教授になる。
60才、昌平黌教授となり、やむなく?江戸暮らしとなる。
  本当は地元でのんびり過ごしたかったのであろう。
  この詩にはその思いの一端がにじみ出ている。
70才、江戸にて亡くなる。

※ 安積 艮斎(1791~1861)については、
  こちら でも ご覧いただけます。

       ◆  ◆  ◆

   詩の意味は、
秋が深まって霜が降り、青々とした隅田川の流れは清く澄んでいる。
ほろ酔い気分で、ひとり杖を手に出かけると、詩情がわいてきた。

 墨水秋夕 = 隅田川べりの晩秋の夕景を見て感じたこと。
 滄 江 = 青々とした広い川、ここでは隅田川のこと。 
 醉 余 = 酒に酔ったあと。
 吟 情 = 詩心・詩情にひたる。
         詩を作りたい気分になる。

芦(あし)の葉も黄ばんで、半ば枯れて、吹く風にもなんとなく力が無い。
折しも白い雁が空高く飛んでいき、鳴く声を見やれば
まるでその声が月の中から聞こえてくるようである。
 
 黄 蘆 = 枯れかけて黄色っぽくなった芦。
     ※ 黄蘆の黄 と 白雁の白 は 色の対句 

松林に囲まれ、ぽつんと立つた神社の祠には、
ほのかな灯火の光があり、静かなたたずまいを見せている。
うす靄の立ちこめる中には人の話し声が聞こえて
一隻の船が過ぎて行くのがわかる。
 
 孤 廟 = ぽつんと立つ廟。ここでは、墨田区向島にある
     白鬚(しらひげ)神社(七福神のひとり、寿老神を祀っている)
     のことであろうと言われている。      
 
早く故郷に帰って、のんびり清廉に生きたいという思いは
未だに遂げられず、あくせくして過ごしている日々である。
せめて、この隅田川の清流で、汚れてしまっている冠の紐でも
洗い垢でも落として、心をも清め、のんびりすることにしよう。
 
 雲 山 = ここでが宮仕いを離れて、のんびり
     静かに生きたいという思いをあらわしている。
  聊  =  ちょっぴり
  応  =  まさに・・・べし、ここでは「せめて・・・したい」

    ・・・ とのことです。 


    


     【日本の律詩】
   広瀬 淡窓 の 『 筑前城下の作 』












広瀬 淡窓 の 『筑前城下の作』

日本の律詩
11 /23 2018
  筑前城下の作    広瀬 淡窓

 伏敵門頭 浪 天を 拍つ
 当時の 築石 自ら 依然たり
 元兵 海に 沒す 蹤 猶 在り
 神后 韓を 征する 事 久しく 伝う
 城郭 影は 浮かぶ 春浦の 月
 絃歌 声は 隱る 暮洲の 煙
 昇平 象 有り 君 看取せよ
 処々の 垂楊に 賈船を 繋ぐ



  ちくぜんじょうかのさく    ひろせたんそう
ふくてき もんとう なみ てんを うつ
とうじの ちくせき おのずから いぜんたり
げんぺい うみに ぼっす あと なお あり
じんこう かんを せいする こと ひさしく つとう
じょうかく かげは うかぶ しゅんぽの つき
げんか こえは かくる ぼしゅうの けむり
しょうへい しょう あり きみ かんしゅせよ
しょしょの すいように こせんを つなぐ


先生のお話によると、
広瀬 淡窓(1782~1856)については、
こちらこちら でも ご覧いただけますが、
豊後国日田郡豆田町に生まれ、少年の頃より聡明であった。
16才の頃に筑前国の亀井塾に遊学したが、大病を患い
19才で帰郷。病気がちであることを理由に家業を弟に任せる。
26才の頃に豆田町にある長福寺の一角を借りて塾を開き、
   桂林荘・咸宜園へと発展させた。
咸宜園は弟の広瀬旭荘や10代の塾主によって
明治30年(1897年)まで続き、塾生は延べ4,000人を超えた。
淡窓は、毎夜、塾生を集めて茶話会を開き、
漢詩を吟じていたが、その声が外まで聞こえ、
吟詠家の第一号と言われ、75才で亡くなっている。

       ◆  ◆  ◆

この詩は、淡窓が筑前城(福岡城、別名 舞鶴城)下の
箱崎・筥崎八幡宮に行き、元寇の役を偲んで作った。

詩の意味は、
亀山上皇が敵の降伏を願って書かれた『敵国降伏』の
四文字を掲げた筥崎八幡宮の門頭は、永年の
波浪に洗われながらも、今もその姿をとどめている。
文永の役後に築かれた石垣もなお昔の姿そのままにある。

 筑 前 = 現在の福岡市博多地区
 伏敵門 = 筥崎(はこざき)八幡宮の門に亀山上皇の直筆
   (宸筆・しんぴつ)で「敵國降伏」の四文字が掲げられているが
   元寇に際して降伏を勧めたいとの朝廷の願望の現れである。
 築 石 = 城の周りに、敵の侵入を防ぐため築いた石垣
   文永の役ではまだなかったが、7年後の弘安の役には
   石垣を築いて備えていた。

元軍十万余の兵士たちが海に没した跡も今もなお残り、
さらに遡って、神功皇后の御世に三韓出兵された折にも
この地から船が出て行ったことも久しく伝えられている。
 
 元 兵 = 元寇・文永の役では2万7千人、
   弘安の役では14万人が4千4百隻で襲来した。
 神 后 = 神功(じんぐう)皇后のことで、4世紀後半の
   飛鳥時代には、朝鮮半島が高句麗、百済、新羅に
   別れていて、百済が日本に助けを求めてきたため出兵した。  

けれども、今はそういう戦跡とは様子が変わっていて、
城の囲いや石垣は、春の海べりの月光に照らされ
水面に浮かびあがり、弦の音や歌声が、夕暮れの
霧の中にどこからともなく、ただよい聞こえてくる。
 
 城 郭 = 城の囲いと周辺の石垣  
 弦 歌 = 管弦の音と歌声

世の中が平和に治まっている今の様子、
太平の世の姿を、君たちは良く看たまえ。
あちらこちらのしだれ柳には商いの舟が繋がれているのを。
太平の世を築いてくれた祖先に感謝するべきではないだろうか。
 
 昇 平 = 太平、世の中が平和で穏やかに治まっていること
  象  =  姿
 賈 船 = 商売の船。賈は売ったり買ったり。
       ・・・ とのことです。
         



     【日本の律詩】

   頼 山陽 の 『 静 御 前 』







頼 山陽 の 『 静 御 前 』

日本の律詩
09 /07 2018
  静 御 前     頼 山陽

 工藤の 銅拍 秩父の 皷
 幕中 酒を 挙げて 汝の 舞を 観る
   しづやしづ 賎の苧環 くり返し
     昔を今に なすよしもがな

 一尺の 布 猶 縫うべし
 況んや 此の 繰車 百尺の 縷をや
   吉野山 峰の白雪 ふみわけて
     入りにし人の 跡ぞ恋しき

 回波 回さず 阿哥の 心
 南山の 雪 終古に 深し



  しずかごぜん      らい さんよう
くどうの どうひょう ちちぶの つづみ
ばくちゅう さけを あげて なんじの まいを みる
  しづやしづ しづのおだまき くりかえし
     むかしをいまに なすよしもがな

いっしゃくの ぬの なお ぬうべし
いわんや この そうしゃ ひゃくしゃくの いとをや
  よしのやま みねのしらゆき ふみわけて
     いりにしひとの あとぞこいしき

かいは かえさず あかの こころ
なんざんの ゆき とこしなえに ふかし


※ 青字の和歌は、静御前が頼朝の前で舞うときに
 詠った和歌で、頼 山陽の漢詩に加えてあります



先生のお話によると、
頼 山陽(1781~1832))については、
こちら でも ご覧いただけますが、
江戸時代後期の儒学者。大坂生まれだが、
父の転居により広島で育つ。その後、父・春水が
江戸に出たため、叔父の頼杏坪に学び、
17才で江戸に遊学、昌平黌で学ぶ。
20~24才までの4年間、自宅にて歴史と読書に専念、
著述に明け暮れ、『日本外史』の基礎を確立した。

31才、父の友人であった儒学者・菅茶山の廉塾の塾頭になる。
32才、京都に出て塾を開き、二度目の結婚(梨影)をする。
      (男子二人、頼 鴨厓、頼 三樹三郎)
46才、武家の時代史とも言える『日本外史』を完成させる。
51才ごろから健康を害し、容態が悪化する中でも著作に専念。
1832年、53才で死去した。

詩の意味は、
工藤祐経(すけつね)の銅拍と、秩父重忠(しげただ)の
皷に合わせて舞う 汝(静御前)の舞姿を、
幔幕(まんまく)の中で(頼朝が)酒を酌みながら観ている。

 静御前 = 義経の愛妾。京都の白拍子で、
   北条政子のたっての希望で舞うことになった
   義経は、頼朝に無断で天皇からの任官を受けたり
   したため、頼朝から追われる身となり、
   静御前も捕えられ、鎌倉に送られた
 工 藤 = 頼朝の家臣で工藤祐経
   後に、曽我兄弟のあだ討ちによって亡くなる
 銅 拍 = シンバルのような楽器、チャッパともいう
 秩 父 = 頼朝の家臣で畠山重忠のこと
   秩父出身だったので秩父重忠とも呼ばれた
   後に、北条の初代執権となる 時政に妬まれ、
   2代目執権 義時に殺された
  皷 = 当時は、銅拍と皷の伴奏で踊るのが普通だった
 幕 中 = 周りを幔幕で囲った中
  挙 = 傾けつつ
  観 = とくと観賞する

『しづや、しづ』と くり返し呼びながら別れた あの方。
(義経さまが栄えていた頃の)昔を、今に戻す方法が
 あったらいいのにな~!(でも、それも今は 叶わない)

 し づ = 静(自分)、賎しい(へり下っている)、
   倭文(神代の時代の織物、倭は古代の日本)をかけている
 苧 環 = 糸をつむぐ道具。中が空洞でそこから糸が出てくる
 な す = 生す、成す、為す
 よ し = 手段をあらわす助詞
 もがな = 願望の終助詞

一尺の布しかないとしても、なお衣に縫うことができるのに。
ましてや、あなた(頼朝)という 繰車(糸を繰り出す糸車)は
百尺もの縷をもお持ちなのに、なぜ義経をかばってくれないのか。
   (義経が一尺の布しか持っていないとしたら、
    頼朝は百尺もの布を持っているではないか)
 
 一尺布 = 中国・漢の3代目の皇帝・文帝(劉恒)は、
    弟の淮南王(劉安)が謀反を起こしたとして殺した。
    この時、兄弟の愛憎を風刺して、
      一尺の布でも縫うことができるのに・・・
      一碗の粟でも搗くことができるのに・・・
      それなのに兄弟二人が許し合えぬとは・・・
    という歌が流行った。この故事を引用している。  

吉野山の峰に降り積もった白雪を踏み分けて、どこまでも
奥深くに 入り行った あの人の跡がたまらなく恋しい。
いつまでも忘れることは出来ません。

 吉野山 = 女人禁制の山。義経がかくまわれていた
    吉野山から京都に下りてくる途中で
    静御前は、頼朝の追っ手に捕えられた

寄せてはまた返す波のようには、阿哥(頼朝)の心は
ついに返してくれず、南山の雪はますます深く降り積もり
(静御前)の義経を慕う気持ちは永遠に消えることはない。
 
 南 山 = 吉野山。京都から見ると南にある  
 阿 哥 = 阿は、阿兄、阿母など親しみをこめて呼ぶ
       哥は、訓読みで≪あに・うた≫となる
        
         ◆  ◆  ◆

ここで詠われている和歌は、静御前の作と言われているが、
伊勢物語に出てくる『いにしえの・・・』の本歌取りである
   ・・・ とのことです。


◆ 頼 山陽 の 絶句
   不識庵機山を撃つの図に題す
   楠公子に訣るるの図に題す    
   舟大垣を発し桑名に赴く   



     【日本の律詩】

   頼 山陽 の 『 述 懐 』






頼 山陽 の 『 述 懐 』 

日本の律詩
08 /24 2018
  述 懐     頼 山陽

 十有 三 春秋
 逝く 者は 已に 水の 如し
 天地 始終 無く
 人生 生死 有り
 安んぞ 古人に 類して
 千載 青史に 列するを 得ん


  じゅっかい       らい さんよう
じゅうゆう さん しゅんじゅう
ゆくものは すでに みずの ごとし
てんち ししゅう なく
じんせい せいし あり
いずくんぞ こじんに るいして
せんざい せいしに れっするを えん


先生のお話によると、
頼 山陽(1781~1832))は、江戸時代後期の儒学者。
大坂生まれだが、父が広島に転居したため広島で育つ。

父・春水が江戸に出たため、叔父の頼杏坪に学び、
17才で江戸に遊学、昌平黌で学ぶ。帰郷後、
20才で結婚(妻・淳子)、男子一人(頼 聿庵)生まれるが、
脱藩を企て上洛した。叔父・杏坪によって京都で発見され、
広島へ連れ戻され、廃嫡の上、20~24才までの4年間
自宅に幽閉される。この間に、山陽は歴史と読書に専念し
著述に明け暮れ、『日本外史』の基礎を確立した。

31才、父の友人であった儒学者・菅茶山の廉塾の塾頭になる。
32才、京都に出て塾を開き、二度目の結婚(梨影)をする。
      (男子二人、頼 鴨厓、頼 三樹三郎)
46才、武家の時代史とも言える『日本外史』を完成させる。
51才ごろから健康を害し、容態が悪化する中でも著作に専念。
1832年、53才で死去した。

詩の意味は、
10年と3年、年月(春秋)がたちまちのうちに
過ぎ去ってしまった13年間・・・ 今、14才になって
振り返ってみると、歳月は川の水のように流れ去り、
二度と戻っては来ない。

 春 秋 = 年 月
 
天地の歴史が、これまで どれ位の長きに渡って
続いているのかは、誰も知ることはできないが、
人は生まれたら、必ず、死ななければならない。
これが約束ごとであり、人の運命でもある。

 始 終 = 始まりと終わり
 
そうであるならば、昔の文人・偉人たちのように、
精進を重ねて、何とか、1000年後の歴史にも
自分の名を残せるようにしたいものだ。
(これが、これから自分が生きていく目標である)
 
 古 人 = 昔の文人・偉人たち
 青 史 = 歴史書
 安 得 = 何とかして○○ したい
        
         ◆  ◆  ◆

これは、頼 山陽が14才のときに作った詩で、
父・春水が感心して、知人らに見せた。
寛政異学の禁の中心となった柴野栗山からも高く評価され、
山陽が世に出る登竜門にもなった詩である
   ・・・ とのことです。


◆ 頼 山陽 の 絶句
   不識庵機山を撃つの図に題す
   楠公子に訣るるの図に題す    
   舟大垣を発し桑名に赴く   




     【日本の律詩】

   蒲生 君平 の 『 述 懐 』







蒲生 君平 の 『 述 懐 』

日本の律詩
08 /17 2018
 述 懐     蒲生 君平

 丈夫 生まれて 四方の 志 有り
 千里 剣書 何れの 処にか 尋ねん
 身は 転蓬に 任せて 遠近 無く
 思いは 流水に 随って 幾たびか 浮沈す
 笑って 樽酒を 看て 狂 先ず 発し
 泣いて 離騒を 読んで 酔後に 吟ず
 唯 太平 恩沢の 渥きに 頼って
 自ら 章句を 将って 青衿に 託す


  じゅっかい       がもう くんぺい
じょうふ うまれて しほうの こころざし あり
せんり けんしょ いずれの ところにか たずねん
みは てんぽうに まかせて えんきん なく
おもいは りゅうすいに したがって いくたびか ふちんす
わらって そんしゅを みて きょう まず はっし
ないて りそうを よんで すいごに ぎんず
ただ たいへい おんたくの あつきに よって
みずから しょうくを もって せいきんに たくす


先生のお話によると、
蒲生 君平(1768~1813)は、江戸時代後期の漢詩人、著述人。
君平は字で、本名は秀実(ひでざね)。通称は伊三郎。
下野国宇都宮の灯油商の家に生まれた。
父の本名は福田正栄であったが、祖父から、祖先
が蒲生氏郷(うじさと・戦国時代~安土桃山時代
の武将)であると教えられ、17才で蒲生に改姓した。

6才の頃から近所の延命院で学び、15才の頃
鹿沼の儒学者・鈴木石橋の麗澤之舎に入塾。
毎日、三里の道を往復、塾では『太平記』を愛読した。
勤皇思想に傾斜し、水戸藩の勤王の志士、
藤田幽谷とも出会い、水戸学の影響を受けた。

32才の時、父の喪が明け、すべての天皇陵を調べあげようと
旅に出る。佐渡島の順徳天皇陵までの歴代天皇陵を旅する。
旅から帰り、江戸駒込に塾を開き、何人かの弟子に講義、
『山陵志』を完成させ、その中で前方後円墳の語ができた。

『山陵志』は、大和(奈良)、河内・和泉(大阪)、山城(京都)、
などの畿内を中心に、天皇の墓92陵を訪ね歩き、調査し、
自身の考えも加えて、二巻の書物にまとめた。
君平は、皇室の御陵の荒廃を悲しみ、幕府にも献上。
当時の天皇も読まれたとのこと。
この詩では、諸国を調査しながら歩いて感じたこと、苦労した
ことなど、心の中の思い(述懐)が、述べられている。


詩の意味は、
一人前の男子として生まれて、四方あちらこちら
(尊王の)理想を求めて諸国へと旅に出る。長い遍歴の行程を
刀剣と書物をたずさえ、いったい、どこを探したらよいか
あてどもなく多くの陵墓を尋ね歩いた。

 四 方 = あらゆる場所、あちらこちら
 剣 書 = 身を守るための刀剣と、筆記する用紙

わが身は風になびく枯れ蓬のように、遠く
また近くを放浪し、あてどのない調査遍歴を重ねてきた。
ひとすじの思いは、流れる水に任せて浮き沈みする
浮遊物のようになすがまま、なされるままに
心もとなく、苦難の旅であった。

 転 蓬 = 風雨によってどちらに倒れるか分らない蓬
 
しばしの休息で、樽酒を見ては喜びによって笑い、
安らぎと開放感が狂ったようにこみ上げてくる。
『離騒』を読んでは泣いて、酔ったあとには吟じたものだ。
 
離 騒= 憂いに遭うという意。離は遭う、遭遇する。騒は憂う。
    楚辞の中に出てくる憂国の士・屈原の詩を読み、
    感銘を受けて、節をつけて詠ったということ。

今は幸いにも治世が行き届いて、天下がもっぱら
きわめて平和である。これからは、自分の学んだこと、
やってきたこと、知りえたことを、若い学生たちに伝え、
自分の思いを、希望を、若者たちに託していきたい。

 章 句 = 一章一句にだけ、全体をつかみ得ない(学問)
    自分の学問を謙遜し、へりくだってる言い方
 青 衿 = 学生の着る服 → 学生
    
         ◆  ◆  ◆

同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に
「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)
   ・・・ とのことです。


蒲生君平については こちら でも ご覧になれます。
        



     【日本の律詩】

   大窪 詩仏 の 『 閑 遊 』







大窪 詩仏 の 『 閑 遊 』

日本の律詩
08 /10 2018
  閑 遊     大窪 詩仏

 淡靄 微風 雨後の 天
 閑遊 時に 復 江辺に 向う
 落花 我に 於いて 何ぞ 軽薄なる
 飛絮 人に 比すれば 尤も 放顚
 詩 漸く 平に 至るは 淡を 愛するに 因り
 酒 聊か 量を 減ずるは 是れ 年を 添うるなり
 近来 自ら 覚ゆ 春 味い 無きを
 一酔 昏々として 只 眠らんと 欲す


  かんゆう       おおくぼ しぶつ
たんあい びふう うごの てん
かんゆう ときに また こうへんに むこう
らっか われに おいて なんぞ けいはくなる
ひじょ ひとに ひすれば もっとも ほうてん
し ようやく へいに いたるは たんを あいするに より
さけ いささか りょうを げんずるは これ としを そうるなり
きんらい みずから おぼゆ はる あじわい なきを
いっすい こんこんとして ただ ねむらんと ほっす


先生のお話によると、
大窪詩仏(1767~1837)は、江戸時代後期の漢詩人。
常陸国袋田村(現 茨城県大子町)に生まれた。
書画もたしなんだ。

中国唐の時代、詩仙・李白、
詩聖・杜甫、詩仏・王維と言われているが、
大窪詩仏は、尊敬し慕っていた杜甫の詩
『杜老詩中仏』から≪詩仏≫をとったと思われる。

医を生業としていたが、父が江戸にて小児科医を開業。
詩仏は15才頃、日本橋で開業する父の元に身を寄せて
医術を学んだ。21才頃より儒学も学び、詩作も始めた。
24才で父が亡くなると詩人として身を立てる決意をする。
25才の時、師事していた市河寛斎が富山藩に仕官したため
柏木如亭と二痩社を開き、100人を超える門人が集った。
一方で、詩集や啓蒙書なども刊行し、各地を旅もした。
39才の時、江戸の大火で家を焼失。復興の費用を
捻出するため遊歴。江戸に戻るとお玉ヶ池に家を新築
詩聖堂と名付け、杜甫の像も造り、頼山陽などとも交流した。

59才の時、詩仏は秋田藩に出仕する。江戸の藩校
日知館の教授として俸禄を支給され、生活は変らなかった。
『閑遊』は、この頃に作った詩である。

63才になる頃、江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂が全焼。
秋田藩邸に仮住まいをした後、小宅を構えることは出来たが
詩聖堂を復興することは出来なかった。この冬、妻が先立つ。
65才で秋田に旅した帰路、脚気が悪化し迎えが必要となった。
1837年、自宅で71才にて没した。

詩の意味は、
うすもやが立ち込め、心地良いそよ風が吹く
雨上がりの空。のんびりと散歩を楽しもう。
時にはまた、川のほとりにも足を伸ばそう。

 淡 靄 = うすもやが立ち込める様子
 閑 遊 = のんびりと楽しむ

(私が堪能するのを待たずに)花が散ってしまうことは
私からみると、なんと浅はかで無風流なことであろうか。
綿のような柳の新芽は、私のような風騒な人間に比べれば
もっと自由奔放で、風狂とも言えるほどである。

 飛 絮 = 綿のように柔かい柳の芽
 放 顚 = 自由奔放、気違いじみている
 人に比すればの『人』は、風流人、風騒の人のこと。
   風騒とは、『詩経』の中の≪国
          『楚辞』の中の≪離≫より
      ①詩文を作ること
      ②詩文をもてあそぶ風流なわざ、遊び

このごろになって、自分の詩が少しずつ平明で
分りやすくなってきているのは、あまり
難しく考えないで淡白を愛するようになったから。
酒も、わずかばかりでも量を減らすようになったのは
これもまた年を重ね、老境に至ったということであろう。
 
 平 = 平明、分りやすい
 
近ごろは、自分でも春に面白みをあまり感じなくなって、
ひとたび酔うと、うとうと朦朧となって、ただただ
このまま眠ってしまいたくなってしまうことだ。

 一 酔 = ひとたび酔うと
     
         ◆  ◆  ◆

この詩は、前半で春の明るく賑やかな世界を詠い、
後半では、自分の老年に至った心境などを詠っている。

大窪詩仏は旅をしながら詩をたくさん作り、
『西遊諸草』『北遊諸草』などにもまとめている
   ・・・ とのことです。



        

     【日本の律詩】

   良 寛 の 『 意に 可なり 』






良 寛 の 『 意に 可なり 』

日本の律詩
08 /03 2018
意に 可なり     良 寛

 慾 無ければ 一切 足り
 求むる 有れば 万事 窮す
 淡菜 饑を 療すべく
 衲衣 聊か 躬に 纏う
 独り 往いて 糜鹿を 伴とし
 高歌して 村童に 和す
 耳を 洗う 巌下の 水
 意に 可なり 嶺上の 松


  こころに かなり     りょうかん
よく なければ いっさい たり
もとむる あれば ばんじ きゅうす
たんさい うえを いやすべく
のうい いささか みに まとう
ひとり ゆいて びろくを ともとし
こうかして そんどうに わす
みみを あろう がんかの みず
こころに かなり れいじょうの まつ


先生のお話によると、
良寛(1758~1831)は、江戸時代後期の曹洞宗の僧侶。
歌人、漢詩人、書家でもあった。
越後国出雲崎、名主の家に生まれた。
本名は山本栄蔵または文孝。四男三女の長子。

名主見習いを初めて2年目、良寛は18才で出家。
子どもの頃に学んだ曹洞宗光照寺にて修行をする。
22才、備中玉島(現・倉敷市)の円通寺の国仙和尚を
"生涯の師"として師事し、12年間の修業を重ねた。
国仙和尚から印可を賜った 翌年、良寛が34才の時
国仙和尚は良寛に「好きなように旅をするが良い」と
言い残して世を去り、良寛は諸国を巡る旅に出た。

父の訃報を受けても放浪の旅を続け、48才の時、
越後国国上村(現・燕市)国上山(くがみやま)にある
国上寺(こくじょうじ)の五合庵にて書等を学んだ。
五合庵での階段の上り下りがきつくなり、
61才の時、乙子神社境内の草庵に移り住んだ。
70才の時、島崎村(現・長岡市)の
木村元右衛門邸内に居を移し、74才で没した。


詩の意味は、
欲がなければ、すべてが足り、満足できる。
求めようとするから、何ごとにも行き詰ってしまう。

 意 可 = 心にかなう、心地良い、心に満足する
   可 = 佳   許可 = 良いと認める

あっさりとした野菜があれば飢えはしのげるし、
そまつな僧衣があれば、身にまとって過ごすことができる。

 淡 菜 = 淡白な野菜、あっさりした野菜、わずかな野菜
 衲 衣 = お坊さんの着る衣、僧衣
 
ひとり野山を歩きまわって鹿たちと連れとなり、
声高らかに歌って、村の子どもたちと仲良くする。
 
 糜 鹿 = 『糜』は粥の意味があり、ここでは
       『麋』 大鹿ではないかと思われる
 
耳をきれいに洗うのに ほど良い水が岩の下に流れ、
嶺の上の松を吹き抜ける風の音が心地良く聞こえ、
自分は大いに満足することができている。

 洗 耳 = 中国・三皇五帝の時代の故事。五帝の時代の4代目帝尭が、帝の位を許由(きょうゆ)に譲ろうとしてその旨を話すと許由には断わられた。そして、許由は『穢れたことを聞いた』として川の水で耳を洗い、箕山(きざん)に隠れ棲んでしまったという故事。ここでは、俗事の汚れを洗うことができる水があるという意。
     
         ◆  ◆  ◆

この詩は、五合庵時代に作られたと思われる。
良寛の最期を看取った弟子の貞心尼が
良寛の和歌を集めてまとめた『蓮の露』がある
   ・・・ とのことです。



        

     【日本の律詩】

   室 鳩巣 の 『琵琶湖上の作』






菅 茶山 の 『 赤馬が関 懐古 』

日本の律詩
07 /27 2018
赤馬が関 懐古     菅 茶山

 蜑雨 茫々たり 海上の 村
 水浜 何れの 処か 英魂を 問わん
 秖 聞く 波底に 皇居 在るを
 誰か 信ぜん 人間に 老仏の 存するを
 鷁首 還らず 楚沢を 悲しみ
 鵬程 際なく 厓門に 接す
 腥風 吹断す 蓬窓の 夢
 島樹 汀雲 鬼気 昏し


  あかまがせき かいこ     かん ちゃざん
たんう ぼうぼうたり かいじょうの むら
すいひん いずれの ところか えいこんを とわん
ただ きく はていに こうきょ あるを
たれか しんぜん じんかんに ろうぶつの そんするを
げきしゅ かえらず そたくを かなしみ
ほうてい かぎりなく がいもんに せっす
せいふう すいだんす ほうそうの ゆめ
とうじゅ ていうん きき くらし


先生のお話によると、
菅 茶山(1748~1827)は江戸時代中~末期の漢詩人。
茶山は号で、本名は、晋帥(ときのり)。
備中(岡山県)、神辺町(現・広島県福山市)の出身。
山陽道の宿場町の農家に生まれる。
京都で学んで、31才の時、神辺に私塾・
黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開き、
誰でもが学べ、貧富による差別のない社会を望んだ。

福山藩の藩校は弘道館であったが、藩主に認められ
49才の時、私塾が福山藩の郷校として認められ、
廉塾(れんじゅく)と改称した。
頼 山陽 も ここで学んでいる。
茶山は、福山藩の儒官ともなって弘道館にも出講。
詩集『黄葉夕陽村舎詩』が刷られている。


 詩の意味は、
漁師の里に降る雨が、茫々と辺り一面
かつての古戦場・海上の村にも広がっている。
壇の浦の水辺、合戦で亡くなった英雄たちの魂を
いったい何処に尋ねたら良いだろうか?

 蜑 雨 = 蜑 は、中国の港、広東州・福建省辺りの漁師
     ここでは、漁師の里という意味に使われている。
 英 魂 = 壇の浦の合戦で亡くなった英雄たちの魂
    
ただ聞くことができるのは、海底に皇居があるということを。
そして、誰が信ずることができるであろうか、
明の建文帝が逃れて老仏と名を変えて、市井に隠れていた伝説と同じく、
安徳帝が人間に身を隠されたと言う故事は信ずる事は出来ない。
 
 皇 居 = 二位の尼(平清盛の妻・時子)が
    『海底にも都がある』と言って、幼い安徳天皇を
    抱いて入水したとと言われている。
 老 仏 = 老僧の尊称
    極貧の農民出の明の初代皇帝・朱元璋が亡くなり、
    朱元璋の孫の朱允炆(しゅいんぶん)=建文帝が
    16歳で即位したが、叔父の燕王に攻められ、南京が
    陥落した時、建文帝の遺体が見つからなかった。
    そのため、建文帝が僧侶に変装し、雲南・ベトナム
    方面に逃げたのではないかという説がある。 
    燕王・朱棣は、朱元璋の弟で、建文帝の叔父、
    明の三代目の皇帝・永楽帝となった。

西周の昭王の鷁首の船の帰還しなかった楚の沼沢の故事も悲しい事であり、
懐いは遠く、南宋の幼帝・衛王が厓門で入水した伝説に馳せ、安徳帝の悲運が偲ばれる。
 
 鷁 首 = 天子が乗る りっぱな船。
    竜頭鷁首、鷺に似た鳥、竜の飾り物→船の守り神
    紀元前1050年、西周の4代・昭王が楚の国を
    攻める途中、鷁首の船が行方不明となった。
    楚の国の沼とか沢に沈んで亡くなったという説がある。
 鵬 程 = 鵬が飛ぶ里程、鵬の一飛びは九万里と言われる。 
 厓 門 = 南宗が元に亡ぼされた時、最後に陥落したのが厓門。
    南宗末期の重臣・文天祥、張世傑とともに三忠臣と言われた
    陸秀夫が、厓山の戦いでは、まだ8才だった衛王をかかえて
    入水したという故事がある。安徳帝の悲運とも重なる。
        
生臭い風で、船の中で見る夢も断ち切られてしまい、
われに返ってみると島の樹木も、汀にかかっている雲も
鬼気がただよっていて、昏く思われることだ。

 腥 風= 生臭い風。壇の浦の戦いで多くの死者が出ている。
 蓬 窓 = 苫を下ろした船の窓 
    ・・・ とのことです。

        ◆  ◆  ◆

◆ 菅 茶山 については、
   『生田に 宿す』
   『冬夜 書を 読む』   でも ご覧いただけます。





     【日本の律詩】

   柴野 栗山 の 『 富士山を 詠ず 』






柴野 栗山 の 『 富士山を 詠ず 』 

日本の律詩
07 /20 2018
 富士山を 詠ず     柴野 栗山

 誰か 東海の 水を 将って
 濯い 出す 玉芙蓉
 地に 蟠まって 三州 尽き
 天に 挿んで 八葉 重なる
 雲霞 大麓に 蒸し
 日月 中峰を 避く
 独立 原 競うこと 無く
 自ら 衆岳の 宗と 為る


  ふじさんを えいず     しばの りつざん
たれか とうかいの みずを もって
あらい いだす ぎょくふよう
ちに わだかまって さんしゅう つき
てんに さしはさんで はちよう かさなる
うんか たいろくに むし
じつげつ ちゅうほうを さく
どくりつ もと きそうこと なく
おのずから しゅうがくの そうと なる


先生のお話によると、
柴野 栗山(1736~1807)は、江戸時代の儒学者・文人。
讃岐国(現:香川県)で生まれた。家の近くにある
八栗山(やくりざん・307m)から号をつけた。
18才の頃、江戸に出て、湯島聖堂・昌平黌で学び、
32才の頃、徳島藩に儒学者として仕えるようになり、
徳島藩主・蜂須賀重喜と共に江戸に赴き、そのあと
京都にて学び、53才で昌平黌の教官となる。
50才を過ぎた頃、老中松平定信から呼び出され、
幕府に仕えるようになり、寛政の改革に伴って
『寛政異学の禁』では指導的立場となり、
朱子学以外を禁止する強い主張を通した。
湯島聖堂の最高責任者ともなり、74才にて没す。

詩の意味は、
いったい誰が、東海の水でもって、
玉の芙蓉のような富士山を洗い清めたのであろうか。
(天地万物を創造する神のなされたことのようだ)

 将って = 用いて
 芙 蓉 = 富士山の頂上には八つの峰があって
   八ひらの花びらをもつ蓮(=芙蓉)に例えている

大地に深くどっしりと広がり、三州(甲斐・相模・駿河)にまたがり、
その頂が天にまで高くそびえている様子は、まさに
芙蓉の八枚の花弁が重なり合っているかのように見える。

 蟠まる = 蛇がとぐろを巻く裾野がしっかり広がっているさま。
 三 州 = 甲斐(山梨)・相模(神奈川)・駿河(静岡)の三州
 插んで = 分け入って

雲や霞は、広大な裾野から湧き上がり、
日や月は、中央の峰(最高峰)を避けて通るかのようだ。
 
 蒸 し = 水蒸気などが湧き上がる
 中 峰 = 中央の高い峰 
        
すっくと聳える独立峰・富士山は、外に競うものも無く
自然と、多くの峰々の宗本山とも言える存在である。

  原 = そのさま
 衆 岳 = たくさんの山々、多くの峰々 
  
         ◆  ◆  ◆

『寛政異学の禁』で指導的立場となった 柴野 栗山は、
古学派など諸学派の反発がある中でも、その政策を
強く押し通した
   ・・・ とのことです。





     【日本の律詩】

   太宰 春台 の 『 寧楽 懐古 』






 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?