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夏目漱石 の 『 春日偶成 』

日本の絶句
02 /14 2020
絶句編テキスト

2020年2月14日 絶句編 97ページ  

   春日偶成    夏目漱石 
 道う 莫かれ 風塵に 老ゆと
 軒に 当れば 野趣 新たなり
 竹 深うして 鶯 乱れ 囀り
 清昼 臥して 春を 聴く
   
 しゅんじつぐうせい   なつめそうせき
いう なかれ ふうじんに おゆと
けんに あたれば やしゅ あらたなり
たけ ふこうして うぐいす みだれ さえずり
せいちゅう がして はるを きく


テキストの通釈によると、
俗世間の煩雑さの中で、いたずらに老いてゆく
ことが嘆かれる、などと言ってはいけない。
胸中の閑日月を抱いて過ごしたまえ。
まあ我が家の縁側からの、この春の風情はどうであろう。
健康で素朴な自然の新鮮さがいっぱいに溢れているではないか。
さて、竹も勢いよく伸び、深々と茂り
 (ちょっと王維の詩の世界のようで)
おまけに鶯があちこち鳴くのが聞こえてくる。
どれ、ゴロリと横になって、この勿体ないほど閑雅な真昼間、
しみじみと鶯の声を聞きながら、春の情趣を味わおう。
 ( ※ 閑日月とは物事にこせこせしない余裕を持って)
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
夏目漱石(1867~1916)は、明治から大正にかけての英文学者。
本名は、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。江戸生まれ。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ。
帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)を
卒業後、松山の尋常中学校、熊本五校などで
英語を教え、その後、イギリスに留学。
帰国して一高(東京帝大)で教鞭をとりながら
1905年(明治38)『我輩は猫である』、その翌年
1906年『坊ちゃん』などを書き、評判となった。
その後、朝日新聞に入社し、『三四郎』『それから』
『門』『彼岸過ぎまで』『行人』『心』などを著した。

1910年(明治43)、『門』を執筆の途中で
胃潰瘍を患い入院。その後、伊豆の修善寺で
転地療養するが、そこで大吐血を起こし、危篤状態
となり生死をさ迷う(いわゆる「修善寺の大患」)。
その後も神経衰弱、胃潰瘍などに悩まされ続け、
『明暗』を未完のまま、大正5年、50才で死去した。

1889年(明治22)、正岡子規の漢詩や俳句などの
文集に漱石が批評を書いたことから友情が始まった。
漱石が漢文でしたためた房総半島の旅紀行を見て
子規は漱石の優れた漢文、漢詩に驚いたという。
子規との交流は漱石がイギリス留学中の
1902年〈明治35〉に子規が没するまで続いた。
「漱石」は、子規のペンネームの一つであったものを
漱石が子規から譲り受けたものである。

       ★ ★ ★

 道  : 云と同義。動詞。物を見る、言うと同じ。
風 塵 : 人の世。俗世間。
当 軒 : ちょうど手すりのところに出て眺めると。
   縁側の手すりにもたれて見渡すと。
   『軒』は、手すり。欄干。
   『当』は、ちょうどその所でする。
野 趣 : 素朴で健康な自然のおもむき。
清 昼 : 俗世間から超越した静かな真昼。
     ・・・ とのことです。

この詩は漱石が46才の時に作った漢詩10題のうちの第1首である。




    【 日本の絶句 】
   釈 月性 の 『将に東遊せんとして壁に題す』






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岩渓裳川 の 『 松島 』

日本の絶句
08 /25 2018
絶句編テキスト
2018年8月25日 絶句編 93ページ  

   松 島     岩渓裳川 
 水寺 茫々 日墓の 鐘
 驚濤 万丈 詩胸を 盪かす
 海竜 窟に 帰って 金燈 滅す
 雨は 余醒を 送って 乱松に 入る
   
  まつしま   いわたに しょうせん
すいじ ぼうぼう にちぼの かね
きょうとう ばんじょう しきょうを うごかす
かいりゅう いわやに かえって きんとう めっす
あめは よせいを おくって らんしょうに いる

テキストの通釈によると、
海辺の寺(瑞巌寺)の夕暮れの鐘が、
広々と果てしない海上に響き渡り、逆巻く
万丈の大波は、わが詩情を激しく揺り動かす。
 (詩を無性に作りたくなる)
海竜も岩穴に帰って(民間信仰があった)、
かがやく竜灯も消えてしまい、真っ暗な夕闇を
雨がなまぐさい竜の臭いの名残りを送って、
島々の入り乱れた松の木立に吹き込んでいる
     ・・・とのことです。

        ◆   ◆   ◆

先生のお話によると、
岩渓裳川(1852~1943)は明治・大正・昭和にかけての漢詩人。
兵庫但馬(福知山)の人。本名は晋(すすむ)幼時、父に素読を学ぶ。
明治6年に上京し、森春涛(しゅんとう)の門に入り、詩を学ぶ。

詳細はよく分らないが、文部省の官吏をしていた時
永井荷風の父親と知り合い、荷風に『三体詩』の
講義をしたりしていたという。
詩は杜甫・白居易を尊び、著書に裳川自選稿5冊がある。
二松学舎の教授、芸文社の顧問となり、昭和18年、92才没。

国分青厓(昭和19年、88才没、大東文化学園教授)
と共に、詩壇の双璧と言われた。

          ★  ★  ★

松 島 : 宮城県にある仙台湾の支湾一帯の景勝地。
   260余の小島があり、日本三景の一つ。 
水 寺 : 水辺の寺。瑞巌寺(ずいがんじ)をいう。
   臨済宗・妙心寺派。仙台市内にも瑞巌寺があり、
   二寺とも、伊達家代々の菩提寺。
茫 々 : 広く遠いさま。
驚 濤 : 逆巻く大波。怒濤。
金 燈 : 金色に輝く灯。海中の鬼火で、竜が捧げるという。 
余 醒 : あとに残るなまぐさい臭気。竜の体臭のなごり。
   竜宮城で竜が灯を燈しているといわれる。
乱 松 : 入り交じっている松。秩序なく生えている松。
   松島の一帯に松が植えられている。

★ この詩は、昼間とは違ったものすごさのある夜の風景を詠っている。
★ 日本三景 : 天の橋立、安芸の宮島、仙台の松島
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   乃木希典 の 『 富嶽 』








乃木希典 の 『 富嶽 』

日本の絶句
08 /19 2018
絶句編テキスト
2018年8月19日 絶句編 92ページ  

   富 嶽     乃木希典 
 崚嶒たる 富嶽 千秋に 聳ゆ
 赫灼たる 朝暉 八洲を 照らす
 説くを 休めよ 区々 風物の 美
 地霊 人傑 是れ 神州
   
  ふがく   のぎまれすけ
りょうそうたる ふがく せんしゅうに そびゆ
かくしゃくたる ちょうき はっしゅうを てらす
とくを やめよ くく ふうぶつの び
ちれい じんけつ これ しんしゅう

テキストの通釈によると、
霊峰富士は、まことに気高く雄々しく、
千年万年の昔から今も変わらぬ姿で聳えている。
この峰から昇る朝日は、あかあかと国中をくまなく
照らしている。実にこの山は大日本国の象徴である。
あれこれと細かく、諸々の風景などを述べ立てることはいらない。
土地はあらたかで、傑出した人物に富む、
これこそ、わが国は神国たる所以である 
     ・・・とのことです。

        ◆   ◆   ◆

先生のお話によると、
乃木希典(1849~1912)は、長州藩の支藩である長府藩の
藩士の三男として、江戸の長府藩上屋敷に生まれた。
長兄、次兄は夭折していたため世嗣となる。10才まで
江戸で暮らしたのち、長府(現・山口県下関市)に転居。

11才で、漢学者の結城香崖に入門。弓術、西洋流砲術、
槍術および剣術なども学んだ。幼少より泣き虫で、妹に
いじめられて泣くこともあったという。

1864年16才、学者となることを志して父と対立し、出奔。
長府から70km以上離れた萩まで歩いて行き、親戚筋の
兵学者・玉木文之進への弟子入りを試みた。当初は、
弟子入りを拒絶されたが、玉木家に住むことを許され、
文之進の農作業を手伝いながら、学問を学び、のちには
萩藩・明倫館に通学する一方、一刀流剣術も学び始めた

翌年、第二次長州征討が開始されると、長府へ呼び戻され、
長府藩報国隊に属し、小倉口での戦闘(小倉戦争)に加わった。
このとき、奇兵隊の山縣有朋の下で戦い、小倉城一番乗りの
武功を挙げたのち、明倫館の文学寮に入学(復学)した。

明治4(1872)年、大日本帝国陸軍の少佐に任官され、
明治9年、福岡県秋月で起きた秋月の乱にて反乱軍を潰走させる。
その直後に起きた萩の乱では、弟の正誼は反乱軍に加わり戦死。
学問の師である玉木文之進は、門弟の多くが反乱軍に参加した
責任をとるため自刃。乃木は萩の乱では連隊を動かさなかった。

明治10年、西郷隆盛ら挙兵の動きが政府側にも伝わり、
政府軍の連隊長として従軍するが、薩摩軍に連隊旗を奪われ、
生涯の恥と自責の念を抱いて、いくども自殺を図ろうとした。
西南戦争時、中佐となり、翌年、東京の歩兵第一連隊長に
抜擢された。「静子」と結婚。

明治20年1月から翌年6月まで、ドイツ帝国へ留学。
明治25年、10か月休職して復職。東京の歩兵第1旅団長となり、
明治27年、日清戦争が始まると、出征。武功を挙げ、中将に昇進。
明治29年、台湾総督に任じられ、翌年、台湾総督を辞職。
明治31年、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職。
明治34年、休職を申し出て帰京し、栃木県那須野にて農耕。
明治37年、動員令が下り、留守近衛師団長として復職したのち
  第3軍の司令官となり、日本を発つ直前、長男・勝典が戦死。
  
第3軍は旅順攻撃を開始したが、十分な補給が行われず、
大本営と満州軍司令部との異なる指示による混乱もあったが、
明治38年1月、旅順要塞は陥落させることができた。
その後も第3軍の奮戦によって、奉天会戦に勝利し、帰国。

明治40年、明治天皇の勅命により、学習院院長に就任。
明治41年、裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると
   勤勉と質素を教え、裕仁親王人格形成に影響を与えた。
大正元年、明治天皇の大喪の礼が行われた日の夜、
   妻・静子とともに自刃して亡くなる。享年64(満62才)没。

          ★  ★  ★

富 嶽 : 富士山(芙蓉に例えられる)。 
 崚  : 嶺が重なって高く聳えるさま。
赫 灼 : あかあかと照り輝くさま。
朝 暉 : 朝日の光。
八 洲 : 大八洲国(おおやしまぐに)。わが日本のこと。
   古事記に出てくる。本州、四国、九州、淡路島(兵庫)、
   隠岐・対馬(長崎)、隠岐島(島根)、佐渡島(新潟)
   北海道は蝦夷地で日本ではなかった。
   日本人が渡って行ったのは室町時代以降で
   江戸時代になって松前藩が設けられた。
区 々 : こまかいさま。
地 霊 : 土地があらたかな意。
人 傑 : 人物が秀でている。
神 州 : 神国。古来わが国は神ながらの国と称した。
    『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』(北畠親房)に
   「わが国は神国なり」とある。

★ この詩は、乃木希典 晩年の作である
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   乃木希典 の 『金州城下の作』








乃木希典 の 『金州城下の作』

日本の絶句
08 /19 2018
絶句編テキスト
2018年8月19日 絶句編 91ページ  

   金州城下の作     乃木希典 
 山川 草木 転た 荒涼
 十里 風 腥し 新戦場 
 征馬 前まず 人 語らず
 金州城外 斜陽に 立つ
   
  きんしゅうじょうかのさく   のぎまれすけ
さんせん そうもく うたた こうりょう
じゅうり かぜ なまぐさし しんせんじょう
せいば すすまず ひと かたらず
きんしゅうじょうがい しゃように たつ

テキストの通釈によると、
山川草木(すべて弾丸のあとも生々しく)あたり一面、
見れば見るほど荒れ果てて、凄まじいありさまである。
十里四方の間を血なまぐさい風が吹いて、この戦争直後の
戦場は実に痛ましい限りである。我が乗る馬は
進もうとせず、だれもかれもみんな黙って口もきかない。
自分は今、赤々とした夕日に照らされて、金州の町外れで
無限の感慨に堪えながら馬をとどめているのである。 
     ・・・とのことです。

        ◆   ◆   ◆

先生のお話によると、
乃木希典(1849~1912)は、長州藩の支藩である長府藩の
藩士の三男として、江戸の長府藩上屋敷に生まれた。
長兄、次兄は夭折していたため世嗣となる。10才まで
江戸で生活したのち、長府(現・山口県下関市)に転居。

11才で、漢学者の結城香崖に入門。弓術、西洋流砲術、
槍術および剣術なども学んだ。幼少より泣き虫で、妹に
いじめられて泣くこともあったという。

1864年16才、学者となることを志して父と対立し、出奔。
長府から70km以上離れた萩まで歩いて行き、親戚筋の
兵学者・玉木文之進への弟子入りを試みた。当初は、
弟子入りを拒絶されたが、玉木家に住むことを許され、
文之進の農作業を手伝いながら、学問を学び、のちには
萩藩・明倫館に通学する一方、一刀流剣術も学び始めた

翌年、第二次長州征討が開始されると、長府へ呼び戻され、
長府藩報国隊に属し、小倉口での戦闘(小倉戦争)に加わった。
このとき、奇兵隊の山縣有朋の下で戦い、小倉城一番乗りの
武功を挙げたのち、明倫館の文学寮に入学(復学)した。

明治4(1872)年、大日本帝国陸軍の少佐に任官され、
明治9年、福岡県秋月で起きた秋月の乱にて反乱軍を潰走させる。
その直後に起きた萩の乱では、弟の正誼は反乱軍に加わり戦死。
学問の師である玉木文之進は、門弟の多くが反乱軍に参加した
責任をとるため自刃。乃木は萩の乱では連隊を動かさなかった。

明治10年、西郷隆盛ら挙兵の動きが政府側にも伝わり、
政府軍の連隊長として従軍するが、薩摩軍に連隊旗を奪われ、
生涯の恥と自責の念を抱いて、いくども自殺を図ろうとした。
西南戦争時、中佐となり、翌年、東京の歩兵第一連隊長に
抜擢された。「静子」と結婚。

明治20年1月から峪年6月まで、ドイツ帝国へ留学。
明治25年、10か月の休職して復職。東京の歩兵第1旅団長となり、
明治27年、日清戦争が始まると、出征。武功を挙げ、中将に昇進。
明治29年、台湾総督に任じられ、翌年、台湾総督を辞職。
明治31年、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職。
明治34年、休職を申し出て帰京し、栃木県那須野にて農耕。
明治37年、動員令が下り、留守近衛師団長として復職したのち
  第3軍の司令官となり、日本を発つ直前の長男・勝典が戦死。
  
第3軍は旅順攻撃を開始したが、十分な補給が行われず、
大本営と満州軍司令部との異なる指示による混乱もあったが、
明治38年1月、旅順要塞は陥落させることができた。
その後も第3軍の奮戦によって、奉天会戦に勝利し、帰国。

明治40年、明治天皇の勅命により、学習院院長に就任。
明治41年、裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると
   勤勉と質素を教え、裕仁親王人格形成に影響を与えた。
大正元年、明治天皇の大喪の礼が行われた日の夜、
   妻・静子とともに自刃して亡くなる。享年64(満62才)没。

          ★  ★  ★

金州城 : 満州(中華人民共和国東三省)遼東半島の南端、
   旅順港の背後の要地。南山の激戦地で、日本軍は
   ここから南下して旅順を攻撃した。乃木将軍の長子
   陸軍歩兵中尉 乃木勝典の戦死したところである。
   第二軍がこの地の強敵を撃退して占領したのは、
   明治37年5月26日であった。
     城 = 町のこと
 転  : いよいよ。ますます。
荒 涼 : 荒れ果てて凄まじいさま。
新戦場 : 「新」には戦争が終わった直後の意が込められている。
   長男がここで戦死している。
征 馬 : 軍馬。もとは旅行用の馬を言ったが、のちに
   戦争に用いる馬の意にも使われるようになった。
不 前 : 「前」は「進」と同意。
立斜陽 : 夕日を受けながら馬をとどめる。

★ この詩は、戦いが終わって10日後位に行って作られた
     ・・・ とのことです。


  乃木希典 『 富嶽 』




     【 日本の絶句 】
   新島 襄 の 『 寒 梅 』








新島 襄 の 『 寒 梅 』

日本の絶句
08 /08 2018
絶句編テキスト
2018年8月8日 絶句編 90ページ  

   寒 梅     新島 襄 
 庭上の 一寒梅
 笑って 風雪を 侵して 開く
 争わず 又 力めず
 自ら 百花の 魁を 占む
   
  かんばいく   にいじま じょう
ていじょうの いちかんばい 
わらって ふうせつを おかして ひらく
あらそわず また つとめず 
おのずから ひゃっかの さきがけを しむ

テキストの通釈によると、
庭さきの一本の早咲きの梅が、平気で風や雪にも
めげずに咲いたことだ。まるで微笑むかのようである。
一番咲きを競おうとしたのでもなく、無理に努力したのでもない。
自然にあらゆる花の魁となってしまったのである。
(まことに謙虚な姿である。人もこうありたいものだ)

  ★ 自然に : 決して無理をしないで。力まず先覚的な
    人物や指導者を、寒梅に例えて讃えている。 
     ・・・とのことです。

        ◆   ◆   ◆

先生のお話によると、
新島 襄(1843~1890)は、キリスト教の教育者である。
江戸の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で生まれる。
幼名は七五三太(しめた)。のちに敬幹(けいかん)と改名。

1864年21才の時、函館港から密出国。上海で乗り換えた
船の船長から「ジョー」と呼ばれていたことから
帰国後は、「譲」のちに「襄」と名乗った。

1872(明治5)年、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会い、
翌年1月にかけて、木戸孝允の通訳として使節団に参加。
ニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、
ロシアを訪ね、ベルリンにて約7か月間滞在。

10年間の海外留学を経て、帰国し、故郷の上州安中にて
三週間滞在。この間にキリスト教について講演、30人ほどの
求道者があり、その後、安中教会の設立へとなる。

その後、京都にて親交のあった公家の屋敷(高松家別邸)を
借り、山本覚馬らの賛同を得て、同志社英学校を開校した。
当初、教員は2人、生徒は8人であったが、熊本の青年達
(熊本バンド)が入学してきた。この中に徳富蘆花などが居た。
翌年、山本覚馬の妹・八重と結婚。
同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立。

明治17(1884)年4月、2度目の海外渡航に出発する。
ドイツでは訪問先の家で幼少の息子ヘルマン・ヘッセと会っている。
同年8月、スイスのサンゴタール峠で心臓発作を起こして倒れ、
翌年12月に帰国した。

明治22(1889)年11月、同志社英学校を大学にするために
奔走していたが、心臓疾患のため群馬県の前橋で倒れ、
大磯にて療養するが回復せず、翌年1月、徳富蘇峰らに
遺言を託して、48才にて死去する。死因は急性腹膜炎。
最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
墓碑銘は、徳富蘇峰の依頼により勝海舟の筆による。
  

寒 梅 : 寒中に咲く梅。早咲きの梅。
庭 上 : 庭さき。
風 雪 : 森厳(きびしく、おごそか)なものとしてあげた。
 侵  : 忍びがたきを忍ぶ。
 力  : 力を尽くして行う。
 百  : あらゆる花。
 魁  : まっさき。
     ・・・ とのことです。


          ★  ★  ★


こちら に よると、
 妻の八重とは互いに尊重し合い、夫婦仲がとても良かった。男性と対等に生きられる自立した女性との結婚を望んでいた襄は、山本覚馬の家を訪ねたとき、井戸の上に渡した板の上で裁縫をする八重の姿を見て、その常識に拘らない姿勢が気に入って結婚を決意したという。八重は、その男勝りの性格で度々周囲と確執を生むが、襄はそれを優しく諌めながら見守っていた。アメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と綴っている・・・

 明治13年(1880年)4月13日、朝礼の際、自分の掌を杖で打ち、自らを罰して生徒に訓した。これは「自責の杖」事件と呼ばれる。徳富蘇峰は、この事件の責任を感じ卒業目前で同志社を中退したが、新島に対する敬愛の念は生涯変わらず、同志社大学設立運動の中心的な役割を果たした。
襄の臨終に八重とともに立ち会った徳富蘇峰は八重に「今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て私につきあつて下さい。」と述べ、貴族院議員の歳費は封を切らずに八重に贈り、八重が亡くなるまでその生活を支えた。

     ・・・とのことです。


★ また、こちら によると、
  未完に終わった新島の遺志は、教え子たちなどによって引き継がれ
 死後22年にしてようやく同志社大学が実現した・・・とのことです。






     【 日本の絶句 】
   高杉晋作 の 『 獄中の作 』








高杉晋作 の 『 獄中の作 』

日本の絶句
08 /08 2018
絶句編テキスト
2018年8月8日 絶句編 89ページ  

   獄中の作     高杉晋作 
 夜 深く 人 定まって 四隣 閑なり
 短燭 光は 寒し 破壁の 間
 無限の 愁情 無限の 恨
 君を 思い 父を 思うて 涙 潸々
   
  ごくちゅうのさく   たかすぎ しんさく
よる ふかく ひと さだまって しりん しずかなり
たんしょく ひかりは さむし はへきの かん
むげんの しゅうじょう むげんの うらみ
きみを おもい ちちを おもうて なみだ さんさん

テキストの通釈によると、
夜はしんしんと更けわたり、人はとうに寝静まって、
辺りは全くひっそりしている。
ひとり起きている私の、この獄の室内の壁は破れ損じ、
それをまた淡々と丈低い燭台の灯火が照らしている。
(時まさに物情騒然、しかも歴史は今、音を立てて動いて
 いる。それなのに讒人ばらの訴えるところとなり)
こうして獄舎に幽閉されていることは無限の愁いであり、
恨んでも余りあることである。
(しかも、わが御主君自身勅勘をこうむる身、わが父とて
藩のために、どれ程か心労して居られるであろうに)
御主君のこと、父上のこと、あれこれ思えば涙が
止めどなく溢れ流れてやまないのである。
 讒人(ざんにん)=讒言する人、他人をあしざまに訴える人
 勅勘(ちょっかん)=天子から受けるとがめ。勅命による勘当
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
高杉 晋作(1839~1867)は、幕末に活躍した長州藩士。
本名は春風、号・東行。
奇兵隊などを創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。

長州藩の上級武士の家に生まれ、生家は萩城下の菊屋横丁と
呼ばれる所にあり、近くには桂小五郎(木戸孝允)の屋敷もあった。
14才で、藩校・明倫館に入ったが、決まりきった授業に
魅力を感じなかった高杉は、落第を繰り返したという。

19才で、吉田松陰の私塾、「松下村塾」へ入ったのを機に
思想だけでなく、実行を重んじる松陰に、惹かれ勉学に励み
久坂玄瑞と共に塾生の「双璧」と呼ばれるほどに成長した。

20才の時、江戸へ遊学に行き、安政の大獄で捕らえられた
松陰を伝馬町獄に見舞って、師の世話をするが、松陰とは
手紙でやり取りしており、松陰から
 「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
 生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」という
松陰の死生観に、晋作は大きな影響を受けたと言われる。
その松陰は晋作が藩命により萩に戻る途中、処刑された。

萩に戻った晋作は両親の勧めもあり、結婚。
24才で、藩の代表として海外視察を命じられ、中国・上海で
西洋人にこき使われる中国人を見て、晋作は衝撃を受ける。

長州藩は、関門海峡にて外国船の砲撃を行ったが、
逆に米仏の報復に逢い惨敗(下関戦争)した。
さらに、幕府による第一次長州出兵、欧米列強の艦隊に
より下関の砲台が占領されるなど数々の危機に当たって
晋作は、奇兵隊による攻防、外国との交渉に臨んだ。

さらに幕府は、第二次長州征伐を発令し。
長州藩は、留学しようとしていた晋作を呼び戻し、
幕府軍に奇襲をかけて、幕府軍に勝利を収めた。
この勝利のあとにも長州軍は幕府軍を次々を打ち破って、
幕府打倒が実現する直前、晋作は肺結核に倒れ、
明治維新を目前にして病死。29(満27)才であった。

★ 1863年、高杉晋作は脱藩して京都で潜伏した後、
 帰郷したが、脱藩の罪で野山獄に投獄された。
 この詩はその時のものである。

★ 長州藩13代藩主・毛利敬親は、有能な家臣や若い才能を伸ばし活躍させることで窮乏していた長州藩を豊かにした。1863年、長州藩は京を追われ、翌年には池田屋事件で多くの長州藩士らが殺害・捕縛された。長州藩は京に出兵し、禁門の変を引き起こしたが、これに対して、朝廷は幕府に長州征討を命じ、敬親の官位を剥奪した。この第一次長州征伐が開始されると、敬親は3家老を切腹させ、自ら萩に謹慎した。

   ◆   ◆   ◆

四 隣 : 近隣の意もあるが、ここでは四辺の意。
短 燭 : 丈の低い燭台。
潸 々 : 涙のしたたるさま
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   佐野竹之助 の 『 出郷の作 』








佐野竹之助 の 『 出郷の作 』

日本の絶句
07 /21 2018
絶句編テキスト
2018年7月21日 絶句編 88ページ  

   出郷の作     佐野竹之助 
 決然 国を 去って 天涯に 向う
 生別 又 兼ぬ 死別の 時
 弟妹は 知らず 阿兄の 志
 慇懃 袖を 牽いて 帰期を 問う
   
  しゅっきょうのさく   さの たけのすけ
けつぜん くにを さって てんがいに むこう
せいべつ また かぬ しべつの とき
ていまいは しらず あけいの こころざし
いんぎん そでを ひいて ききを とう

テキストの通釈によると、
(国家百年の計を誤る姦賊・井伊大老の暗殺を決行しようと)
断固心を決めて水戸の国を立ち去り、
遠い天の果ての江戸に向う。
(この度の企ては万が一成功しても生還は期しがたい)
今日、家族の者と生きながら別れるが、これがまた
死の別れを兼ね、今生の暇乞いとなるのである。
幼い弟や妹は、それとも知らず、ねんごろに袖を
ひっぱり「お兄さん、お帰りはいつですか」という
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
佐野 竹之助(1839~1860)は、幕末の水戸藩士。
水戸9代藩主・徳川斉昭の近侍。
名は光明。竹之助は通称。

1860(万延元)年、脱藩して桜田門外の変で
井伊直弼の襲撃に携わった桜田十八士の一人。
(薩摩藩士が一人居たので総勢十九名)
当日3月3日は雪が積もった。竹之助は重傷を負い、
老中・脇坂安宅の屋敷に自首し、血判を提出、
その日に死去した。享年22才。

この詩は、家族との生別が、そのまま
死別となるという断腸の思いを詠っている。

★ 安政5(1858)~安政6(1859)年にかけて行われた
大老井伊直弼らによる安政の大獄では100人以上もの
尊王攘夷の志士や一橋派の大名・公卿らが粛清された。

   ◆   ◆   ◆

決 然 : 断固心を決して。
天 涯 : はるかな彼方。天の果て。
   この詩では、死の世界、死を覚悟して。
阿 兄 : 兄さん。
   「阿」は相手を親しんでいう時の助辞。
慇 懃 : ねんごろに。
帰 期 : 帰る日の時期
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   吉村寅太郎 の 『舟由良港に到る』








吉村寅太郎 の 『舟由良港に到る』

日本の絶句
07 /21 2018
絶句編テキスト
2018年7月21日 絶句編 87ページ  

   舟由良港に到る      吉村寅太郎 
 首を 回らせば 蒼茫たり 浪速の 城
 蓬窓 又 聴く 杜鵑の 声
 丹心 一片 人 知るや 否や
 家郷を 夢みず 帝京を 夢む
   
  ふねゆらこうにいたる    よしむら とらたろう
こうべを めぐらせば そうぼうたり なにわの しろ
ほうそう また きく とけんの こえ
たんしん いっぺん ひと しるや いなや
かきょうを ゆめみず ていきょうを ゆめむ

テキストの通釈によると、
(今しも船は淡路の由良の港に着いた。)
首をめぐらして振返れば、船出したあの大阪の町も
遥かに遠く、ぼんやりと霞んではっきり見えない。
(思えば、事は志と違い、無念にも故郷へ護送される身となった。)
とま舟の窓で血を吐くようなほととぎすの声を聞く私の心は重く苦しい。
一体、今の世に誰がこの胸中の一片のまごころを知ってくれようか。
今夜もこの船中で見る夢は故郷のことなどではなくて、
天皇の居られる京の都のことである。
(こうした気持は分かるものではない)
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
吉村 虎太郎(1837~1863)は、幕末の土佐藩の志士。
本名・重郷(しげさと)、号・黄庵、寅太郎は通称である。
12才で父の跡を継いで、庄屋となった。

城下にて武市半平太に剣術を学び、尊攘思想に傾倒、
1861年、武市半平太が結成した土佐勤王党に加盟。
その後、脱藩して、京都にて、寺田屋事件で捕えられ、
身柄を土佐藩に引き渡されて、国元へ送還された。
この詩はその途中、由良港に立ち寄った折に書かれた。
土佐では、8か月間、投獄された後、釈放された。

1863年、藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。
尊皇攘夷運動が最高潮に達していた時期であった。

寅太郎らは、孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく、
公卿中山忠光を主将とし、自ら総裁となり天誅組を組織し
大和の国で挙兵。幕府五條代官所を襲撃したものの
直後に起こった京都での八月十八日の政変により、
逆賊とされ、吉野鷲家口で幕府軍による包囲に遭い
一斉射撃を浴びて、天誅組は壊滅。
虎太郎も、絶命した。享年27才であった。

虎太郎、辞世の句
  吉野山 風に乱るる もみじ葉(楓葉)は
        我が打つ太刀の 血煙と見よ


天誅組の挙兵は、短期間で失敗に終わったものの、
幕府の威光の失墜をも進行させることとなったと言える。
戊辰戦争はこの5年後となる。

その後、1877(明治10)年に、名誉の回復。
1891(明治24)年、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に
正四位が贈られ、後に「土佐四天王」と呼ばれることになった。

   ◆   ◆   ◆

由良港 : 淡路島の東岸にある港。
蒼 茫 : ぼんやりとして遥かなさま。
浪速城 : 大阪の町。
蓬 窓 : とまをかけた舟の窓。
杜 鵑 : ほととぎす (初夏の鳥)
帝 京 : 天子の都。京都
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   西 道僊 の 『 城山 』








西 道僊 の 『 城山 』

日本の絶句
06 /26 2018
絶句編テキスト

2018年6月26日 絶句編 86ページ  

    城山      西 道僊 
 孤軍 奮闘 囲を 破って 還る
 一百の 里程 塁壁の 間
 吾が 剣は 既に 摧れ 吾が 馬は 斃る 
 秋風 骨を 埋む 故郷の 山
   
  しろやま    にし どうせん
こぐん ふんとう かこみを やぶって かえる
いっぴゃくの りてい るいへきの かん
わが けんは すでに おれ わが うまは たおる
しゅうふう ほねを うずむ こきょうの やま

テキストの通釈によると、
孤立して援兵もない軍勢で、諸方の敵を破り、重囲を
脱して、やっと故郷の鹿児島に戻ってくることができた。
それは実に百里もあろうかと思われる遠い道程で、
その間至るところ敵のとりでがあった。
わが剣はすでにくだけ折れ、馬もたおれて死んだ。
もはやこれまでである。
今は吹きわたる秋風の中で、懐かしい
故郷の城山に、この骨を埋めるばかりである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
西 道僊 (1836-1913)は、熊本県天草郡の出身。
熊本の家業の漢方医を継ぎ、長崎で開業。
長崎区会議長・医師会副会長などを務め、
教育者でもあり、大正2年78才にて没した。

城山は、鹿児島市のほぼ中央にある107mの山。
鹿児島城跡でもあり、頂上より少し下った処の洞窟
「岩崎谷の洞」で、明治10年9月24日 (旧暦)、
西郷隆盛は、別府晋介の介錯で、自害した。

   ◆   ◆   ◆

孤 軍 : 援兵のない孤立した軍隊。
破囲還 : 田原坂の敗戦から、人吉・宮崎・高鍋・
   延岡・長井の各地を転戦し、8月17日から
   翌日にかけ、長井の西方「可愛(えの)岳」を登り
   払暁(ふつぎょう・夜明け)官軍の包囲網を突破し
   三田井を経て、鹿児島に入ったことを指す。
一百里程 : 長井から鹿児島まで30里の間、
   至るところの官軍の守兵を破っての帰還は、
   まさに百里の思いであったことだろう。
塁 壁 : 諸方に設けられたとりで
     ・・・ とのことです。


 こちら によると、
この詩は作者が西南の役が起こった時、深く共鳴していたが、隆盛が戦いに敗れ、城山で自刃したことを聞き嘆いて、弔う意をこめて作った詩と云われてます。「我が剣は既に折れ、吾が馬は斃る」は崇拝している西郷南洲になり変っての句である。

南洲は乱をなす気持ちは毛頭なかったし、その心情を一番よく理解せられていたのは明治天皇である。明治16年旨を吉井友実に伝えてその遺族の近情を問わせられ、22年2月11日の憲法発布にあたり、その罪を赦して正三位を追贈され35年6月3日嗣子寅太郎を華族に列し侯爵を授けられた。作者は一世の英傑維新第一の功臣たる南洲の悲惨な最期に満腔の感情をよせたものである
     ・・・とのことです。

 また、こちら では、
政府軍は軍服に靴履き、薩軍は和服の袴、草履履き、雨の浸み込んだ服は動きに不利であり、武器も旧式銃だったといいます。大砲も鹿児島からいくつもの峠を越え、熊本まで運ぶ事は大変で4日かかったといいますが、政府軍は電信網を巡らし早急に情報をつかみ、薩軍が熊本に着く2日前には待ち構えていたようです。田原坂と吉次峠に隊を分け、どちらも大変な激戦で、雨のように降り来る銃弾は、資料館のかち合い弾を見ても想像つきますね。攻防は17日間続いたようです
     ・・・とのことです。






     【 日本の絶句 】
   篠原国幹 の 『 逸題 』








篠原国幹 の 『 逸題 』

日本の絶句
06 /26 2018
絶句編テキスト

2018年6月26日 絶句編 85ページ  

    逸題      篠原国幹 
 馬を 緑江に 飲うは 果して 何れの 日ぞ
 一朝 事 去って 壮図 差う
 此の 間 誰か 解せん 英雄の 恨み
 手を 袖にして 春風 落花を 詠ず
   
  いつだい    しのはら くにもと
うまを りょくこうに みずこうは はたして いずれの ひぞ
いっちょう こと さって そうと たごう
この かん たれか かいせん えいゆうの うらみ
てを そでにして しゅんぷう らっかを えいず

テキストの通釈によると、
(虎の威を借る狐のごとく、大国 『清』を後ろ盾とした最近の朝鮮の無礼は日増しに増大、今にしてこれを打たずんば悔いを千歳に残すであろう。かの秀吉のように兵を繰り出して朝鮮を征伐し)
軍馬に鴨緑江の水を飲ませるのは、何時のことであろうか。

(さして遠い日ではあるまいと思い、日々軍令の下るのを待っていたが、なんと西郷先生以下の面々の「征韓論」は破れ)遠征の機会は去り、わが雄図もむなしく故郷に帰った。

この英雄失意の無限の痛恨を誰が理解し得ようか。

今はただ、春風に散る花を眺め、漫然と詩を作っている日々である。
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
篠原国幹(1837~1877)は薩摩藩士で、西郷隆盛ら
多くの英傑を出している下級藩士の住まいである
鹿児島城下加治屋町で生まれた。通称は篠原冬一郎。
西郷隆盛より、だいたい9才年下である。

寺田屋騒動のあと、鹿児島に戻って謹慎処分となった。
その後、薩英戦争では砲台での守備を担当、
戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いで官軍として活躍。
上野の彰義隊との戦いでは、正面の黒門口を攻撃。
奥羽白川の戦い、会津攻城戦でも軍功を挙げている。

その後、陸軍大佐を経て、陸軍少将になると
近衛長官として明治天皇の前で、軍事演習を披露し、
その指揮ぶりが称賛されたほどであった。
1873(明6)年、西郷隆盛が鹿児島に下野すると、
篠原も、天皇に説得されるも陸軍近衛長官を辞して
鹿児島に戻り、村田新八らと共に私学校を設立。

1877(明10)年、西南戦争となり熊本城への攻撃。
南下してきた官軍と、田原坂の戦いとなり、
3月4日の早朝、政府軍による奇襲攻撃。吉次峠の
攻防戦では銃弾を受け、命を落とした。享年41。

この戦いで、政府軍の江田少佐は陣頭に立って指揮する
赤裏外套姿の篠原を見つけ、射撃の名手に狙撃を命じた。
数発の銃弾を受けた篠原はその場に崩れ落ちたという。
その後、江田少佐も薩摩兵から狙撃されて命を落とした。

西南戦争における官軍の死者は6,922名、戦傷者9,252名
西郷軍の戦死者は、約5千名、戦傷者約1万名、
両軍の死傷者を合わせると3万数千名にものぼったという。

   ◆   ◆   ◆

逸 題 : 無題・漫述・偶成などの意。
緑 江 : 鴨緑江。朝鮮と旧満州(中国東北部)の
   境界を西に流れる大河。
事 去 : 征韓論に破れての下野をいう。
壮 図 : 盛んなる計りごと。ここでは征韓をさす。
英 雄 : すげれた大丈夫。ここでは自身をいう。
袖 手 : 手をこまぬく。何もしないこと。
一 朝 : 何か事があれば。いったんは。

★この詩は、篠原国幹が陸軍近衛長官を辞して
 薩摩に戻った後に胸の内を詠ったものである

     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   木戸孝允 の 『 偶 成 』








 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?