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日柳 燕石 の 『 春 暁 』

日本の絶句
03 /26 2018
絶句編テキスト

2018年3月26日 絶句編 74ページ  

   春 暁      日柳 燕石 
 花気 山に 満ちて 濃やかなること 霧に 似たり
 嬌鴬 幾囀 処を 知らず
 吾が 楼 一刻 価 千金
 春宵に 在らず 春曙に 在り
   
 しゅんぎょう    くさなぎ えんせき
かき やまに みちて こまやかなること きりに にたり
きょうおう いくてん ところを しらず
わが ろう いっこく あたい せんきん
しゅんしょうに あらず しゅんしょに あり


テキストの通釈によると、
花の気は山に満ち、いっぱいに
霧がたちこめているかのよう。
鴬の声が美しくなまめかしく聞こえてくるが、
どこで鳴いているのかわからない。
自分の住むこの楼上からの眺めは
「一刻価千金」ともいうべきであるが、
それは春の宵のことではなく、春のあけぼのを
いうのではあるまいかと思われる
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
日柳 燕石(1817~1868)は、江戸時代末期の志士。
讃岐国の榎井(えない)村(現・香川県琴平町)の出身。
名は政章、燕石は号。父は加島屋惣兵衛で豪農。
13歳で琴平(松尾村)の医師・三井雪航に学んだ他、
経史・詩文、国学・歌学を学び、詩文、書画をよくした。

榎井村は幕府の天領で豪商・豪農が多く、文化度も高かった。
全国から金毘羅大権現 松尾寺に参詣客が訪れ、情報も集まり、
豪農で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、
14才頃までには「四書五経」を読破した。
21才で父母に死別し、家督を相続。

33才頃まで遊俠したことで、千人を超える徒の首領となり、
博徒の親分としても知られていた。また勤王の志士と交わり
私財を投げ出して尽力。幕吏に追われた志士を庇護した。
1865年、高杉晋作をかくまい、逃亡させたことから、
4年間、高松の獄に幽閉され、1868年正月20日に出獄。
赦免を受けて京都に上り、桂小五郎(木戸孝允)らと共に
朝廷のために仕事するが、会津征討の史官に任じられ
北陸に従軍。投獄がもとで同年、越後柏崎で病没した。
52才であった。墓は柏崎と、郷里榎井にある。

嬌 鴬 : 媚びるようになまめいた鴬の声。
幾 囀 : さえずり。小鳥などが細い声で鳴き続けること。
一 刻 : 15分。ほんの短い時間。
千 金 : 漢代に黄金一斤を一金といった。
   千金は非常に高価なことをいう。
春 曙 : 春のあけぼの。春暁に同じ。

★燕石は、蘇軾の『春夜』(春宵一刻価千金)をとらず、
 清少納言の『枕草子』(春はあけぼの)をとっている。
★ 燕石の≪楼≫は、二階で酒を呑むと、金毘羅宮がある
 象頭山が盃に映るため、“象頭山を呑む”意気を
 示す「呑象楼(どんぞうろう)」と名づけられていた
     ・・・ とのことです。



    【 日本の絶句 】
   釈 月性 の 『将に東遊せんとして壁に題す』






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釈 月性 の 『将に東遊せんとして壁に題す』

日本の絶句
03 /26 2018
絶句編テキスト

2018年3月26日 絶句編 73ページ  

   将に 東遊せんとして 壁に 題す      釈 月性 
 男児 志を 立てて 郷関を 出ず
 学 若し 成る 無くんば 復 還らず
 骨を 埋むる 何ぞ 期せん 墳墓の 地
 人間 到る 処 青山 有り
   
 まさに とうゆうせんとして へきに だいす   
                   しゃく げっしょう
だんじ こころざしを たてて きょうかんを いず
がく もし なる なくんば また かえらず
ほねを うずむる なんぞ きせん ふんぼの ち
じんかん いたる ところ せいざん あり


テキストの通釈によると、
ひとたび男子が志を立てて郷里を出た以上は、
学業が成るまでは死んでも再び戻らない決心である。
骨を埋めるのに、どうして故郷の墓所を期待しようか。
世間、どこへ行っても青々とした山の墓地があるのである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
釈 月性(1817~1858)は、幕末、尊皇攘夷の僧である。
周防国・遠崎村(現在の山口県柳井市)生まれ、
妙円寺(妙園寺)の住職。字は知円。号は清狂。

15才のとき豊前・肥前・安芸国で漢詩文・仏教を学ぶ。
そのあと、京阪・江戸・北越を回って遊学し名士と交流、
幕末の志士、吉田松陰、久坂玄瑞らとも交流した。
この詩は27才で、大阪の儒学者である篠崎小竹に
入門のため旅立つときに作られた。二首連作の
その1で、その2は親らのことを書いている。

40才のとき、西本願寺に招かれて上洛。
梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、
紀州藩へ出かけ、海防の説得にあたるなどしたため
海防僧とも呼ばれ、長州藩を攘夷に向かわせるのにも
努めた。1858年、42才で病死。

題 壁 : 壁上に詩文を書きつけることで、
   中国の文人の行う習慣に習っての表現。
   ここでは堅い決心を書き残したという意味である。
青 山 : 中国では墓の別名。
   樹々の茂った山から出た名称。
 何  : どうして・・・しようか(反語)
人 間 : 世の中。世間。

★安部老中が天皇の勅許を得ずに、下田・長崎・函館
 開港の条約を結んだことを、終生の恨みとしていた。
★ 鹿児島湾で西郷隆盛と入水した僧「月照」とは異なる
     ・・・ とのことです。



    【 日本の絶句 】
   梅田 雲浜 の 『 訣 別 』






梅田 雲浜 の 『 訣 別 』

日本の絶句
03 /18 2018
絶句編テキスト

2018年3月18日 絶句編 72ページ  

   訣 別      梅田 雲浜 
 妻は 病牀に 臥し 児は 飢えに 泣く
 挺身 直ちに 戎夷を 払わんと 欲す
 今朝 死別と 生別と
 唯 皇天 后土の 知る 有り
   
 けつべつ   うめだ うんぴん
つまは びょうしょうに ふし こは うえに なく
ていしん ただちに じゅういを はらわんと ほっす
こんちょう しべつと せいべつと
ただ こうてん こうどの しる あり


テキストの通釈によると、
妻は病の床についており、子どもたちは空腹に
耐えかねて泣き叫んでいる。 (妻子の明日からの
生活を考えれば、去ろうにも去れない気持であるが)
それをおいて自分は今一身を投げうって、かの暴慢
無礼な外敵を打ち払わんと出発するのである。
ああ今日のこの別れは、死別となるか性別となるか、
それはただ天地の神々のみが知り給うところであって
人の予期しうるところではない
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
梅田 雲浜(1815~1859)は幕末の志士で雲浜は号。
名は義質、定明。小浜藩士・矢部義比の次男で、
藩の儒学者・山口菅山から朱子学をび、祖父の家系
である梅田氏を継ぎ、大津に湖南塾を開いた。
29才で京都に行き、藩の塾である望楠軒の講師となる。

その後、 小浜藩主・酒井忠義に海防策を建言したところ、
藩政批判ととられ藩籍を剥奪され、浪人として各地をまわり、
尊王攘夷派の思想的指導者となっていく。
井伊直弼のやり方に強い危機感を持ち、井伊政権打倒を画策。
水戸藩に幕政改革を求める密勅を降下させたりしたことが
結果的に井伊直弼を硬直化させ、安政の大獄を引き起こさせ、
梅田雲浜も捕らえられたが、拷問に屈することなく45才で獄死。

訣 別 : ながのわかれ。永訣。
病 牀 : やまいのとこ。妻・信子は28才、
   雲浜が40才で出ていった翌年に没した。
児泣飢 : 長女・竹子は7才、長男・繁太郎は3才で病弱。
   翌々年に死亡した。
挺 身 : 身を抜き出す。真っ先に進む。
戎 夷 : 中国で東のえびすを『夷』、従って『東夷(とうい)』。
   西方を『戎』、従って『西戎(せいじゅう)』という。
   ここでは、露国を卑しめていう。中国では洛陽を中心にして、
   南は『南蛮(なんばん)』、北は『北狄(ほくてき)』と争っていた。
皇天后土 : 天地の神々。天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)

★ この詩は、大阪湾にロシアの船が入港した折
  雲浜が、家族との永久の別れをも決意して
  40才で家を出ていく時に作った詩である
     ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   佐久間 象山 の 『 漫 述 』






佐久間 象山 の 『 漫 述 』

日本の絶句
03 /18 2018
絶句編テキスト

2018年3月18日 絶句編 71ページ  

   漫 述      佐久間 象山 
 謗る 者は 汝の 謗るに 任せ
 嗤う 者は 汝の 嗤うに 任せん
 天公 本 我を 知る
 他人の 知るを 覓めず
   
 まんじゅつ   さくま ぞうざん
そしる ものは なんじの そしるに まかせ
わろう ものは なんじの わろうに まかせん
てんこう もと われを しる
たにんの しるを もとめず


テキストの通釈によると、
(世情騒然たる際においては、将来のことは見通しがたく、人はそれぞれ意見を同じくするものと党を組み、わが論のみを正しいものとし、他人の説を一概に非なりとして退ける。この間にあって百万人たりと言えども、われ行かんの気概をもって、ただひとり開国進取を主張する)
この自分に対し、謗るものは気のむくまで
謗るがよいし、嘲笑するものもまた、心ゆくまで
嘲笑するがよい。天の神だけは、もちろん私の
正しさを理解していて下さるに違いないのだから、
あえて他人に知られることを求める必要はない
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
佐久間 象山(1811~1864)は、本名は啓(ひらき)、衝樹(ひらき)
江戸時代末期の松代藩士で、洋学者(オランダ語)
儒学者であり、兵学者・思想家でもある。
信州松代にある山・象山の麓で生まれ、号とした。

15才頃、佐藤一斎の門下生であった鎌原桐山に入門し
経書を学んだ。他でも、和算や水練などを学んだ。
23才で江戸に出て、当時の儒学の第一人者であった
佐藤一斎について詩文・朱子学を学んだ。
  ※ 佐藤一斎は『佳賓好主』の作者で、
     当時、昌平黌の総長であった。
31才の頃、松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛となり
象山は顧問に抜擢され、アヘン戦争などの海外情勢を研究。
オランダの自然科学書、医書、兵書などの精通に努めた。

41才、江戸・木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教え、
勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らが入門してきた。
この頃、ペリーが開港を迫っていて、吉田松陰が密航しようと
して捕えられた。これに象山が連座し、松代で9年間の蟄居。
この間に西洋の学問を勉強し、開国論者となった。

1864年、53才、象山は一橋慶喜に招かれて上洛。
慶喜に公武合体論と開国論を説いた。当時の京都は
尊皇攘夷派の拠点となっており、象山には危険な行動で
三条木屋町で尊皇攘夷派に暗殺された。享年54才。
現在、暗殺現場には遭難之碑が建てられている。

漫 述 : なんとはなしに自分の心持ちを言い表す。
   『漫』はそぞろに。考えもなく。
 謗  : 悪口をいう。
 嗤  : あざ笑う。
天 公 : 天の神。天帝。
 覓  : さがし求める。

★ この詩は、開国論者になってから作られたものである。
★ 横井小楠、藤田東湖、佐久間象山とで幕末の三傑 と言われる
     ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   村上 仏山 の 『壇の浦を過ぐ』






村上 仏山 の 『壇の浦を過ぐ』

日本の絶句
02 /26 2018
絶句編テキスト

2018年2月26日 絶句編 70ページ  

   壇の浦を過ぐ    村上 仏山 
 魚荘 蟹舎 雨 煙と 為る
 蓑笠 独り 過ぐ 壇の浦の 辺
 千載の 帝魂 呼べども 返らず
 春風 腸は 断つ 御裳川
   
 だんのうらを すぐ   むらかみ ぶつざん
ぎょそう かいしゃ あめ けむりと なる
さりゅう ひとり すぐ だんのうらの ほとり
せんざいの ていこん よべども かえらず
しゅんぷう はらわたは たつ みもすそがわ


テキストの通釈によると、
見渡せば、漁師の小屋が点々と折からの雨に
霞んでいる。ここ壇の浦の辺りを自分は
ただひとり蓑笠をつけて通っているのである。
あの幼い安徳天皇が御入水遊ばされてから早千年、
いくらお呼びしても御魂はお帰りにならないのである。
いま春風そよぐ御裳川のほとりにたたずめば、
当時のことがしのばれて腸はちぎれるばかりである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
村上 仏山(1810~1879) 江戸後期から明治にかけての漢詩人。
豊前(福岡県東部~大分県)稗田村、
名は剛(つよし)。代々大庄屋だったが、
筑前(福岡県北西部)で亀井明陽に儒学を学んだ。
26才で脚気を患い帰郷し、私塾水哉園を開いた。
温厚であったため1500名の塾生がいた。
その後、生涯に渡って稗田村から外に出ることなく
70才で歿。,田園詩人として知られ、
白楽天や蘇東坡に傾倒した。

壇の浦 : 山口県の下関市の東端にある。
   平家滅亡の地として知られる古戦場で、
   その際、御年八歳の安徳天皇が入水された。
魚 荘 : 漁夫の家。「荘」は田舎の家を意味する。
蟹 舎 : 魚荘と同じ。
蓑 笠 : みのとかさ。これを着けて雨や雪を防ぐ。
   今で言うレインコート。
千 載 : 「載」は年の意。千年。長い年月。
   およそ700年前。
帝 魂 : 安徳天皇(81代)の御魂。
御裳川 : 壇の浦に注ぐ小川の名。

★ 平清盛の妻 時子は、清盛亡き後は、実子の宗盛や建礼門院徳子の母として、平家の家長たる存在となった。壇ノ浦の戦いでは、徳子が生んだ幼い安徳天皇を抱いて「浪の下にも都の候ぞ」(『平家物語』)と言い聞かせて海中に身を投じたと言われている
     ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   藤井 竹外 の 『花朝 澱江を 下る』






藤井 竹外 の 『花朝 澱江を下る』

日本の絶句
02 /26 2018
絶句編テキスト

2018年2月24日 絶句編 69ページ  

   花朝 澱江を 下る    藤井 竹外 
 桃花 水 暖かにして 軽舟を 送る
 背指す 孤鴻 没せんと 欲するの 頭
 雪は 白し 比良山の 一角
 春風 猶 未だ 江州に 到らず
   
 かちょう でんこうを くだる   ふじい ちくがい
とうか みず あたたかにして けいしゅうを おくる
はいしす ここう ぼっせんと ほっするの ほとり
ゆきは しろし ひらさんの いっかく
しゅんぷう なお いまだ ごうしゅうに いたらず


テキストの通釈によると、
桃の花が咲き、水も温(ぬる)む淀の川中を、
わが乗る小舟が流されてゆく。
ふと川上の方をふり返ったとき、一羽の雁が遠い空の
彼方に消え入ろうとしているのが目に入った。
雁のゆくてに高くそびえる比良の山、
その一角にはまだ残雪が白々と輝いている。
すると、春風はまだ江州には訪れてはいないらしい。
ここののどかな時候からは、ちょっと意外に思われる

 ・・・とのことです。

先生のお話によると、  
花 朝 : 一般には陰暦2月15日のこと。花神の生まれた日
   といい、また百花の生まれる日という。
澱 江 : 淀川のこと。淀川は、源を琵琶湖に発し、
   瀬田川、宇治川、淀川となり、木津川、桂川、
   加茂川を合せて大阪湾に注ぐ。 
   長さ約80㎞で、畿内第一の大河。  
背 指 : 後方の空を望む。
孤 鴻 : 一羽の雁。雁の大きいのを鴻という。
比良山 : 滋賀県滋賀郡にあり、琵琶湖の西岸にそびえる
   近江第一の高山。『比良の暮雪』は近江八景の一つ。
江 州 : 近江の国(滋賀県)。

★ 藤井竹外(1807~1866年)については こちら を ご覧下さい。
★ 花朝月夕(かちょうげっせき)
   花のあしたと月のゆうべ。
   春の朝と秋の夜の楽しいひと時を言う。
    「月夕」は8月15日(中秋の名月)     
            ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   藤井 竹外 の 『 芳野懐古 』





藤井 竹外 の 『 芳野懐古 』

日本の絶句
02 /24 2018
絶句編テキスト

2018年2月24日 絶句編 68ページ  

   芳野 懐古    藤井 竹外 
 古陵の 松柏 天飈に 吼ゆ
 山寺 春を 尋ぬれば 春 寂廖
 眉雪の 老僧 時に 帚くことを 輟め
 落花 深き 処 南朝を 説く
   
 よしの かいこ   ふじい ちくがい
こりょうの しょうはく てんぴょうに ほゆ
さんじ はるを たずぬれば はる せきりょう
びせつの ろうそう ときに はくことを やめ
らっか ふかき ところ なんちょうを とく


テキストの通釈によると、
芳野山の如意輪寺に桜の花見に来たのであるが、
寺内の古い後醍醐天皇の陵のほとりには、松と
柏が高々とそびえ、空吹く風に唸り声を立てている。
花見る人の影もなく、ひっそりとしてものさびしい。
ただ眉毛まで雪のように白い老僧があたりを掃いて
いたが、わが姿をみとめ箒の手をとどめて、落花が
深く散り敷いているところに自分をひきとめ、
昔の南朝の話をいろいろ物語ってくれた

 ・・・とのことです。

先生のお話 によると、

藤井竹外は1807年生まれ、明治維新を見ずに
1866年7月 60歳で亡くなった。
本名 「啓」 で、高槻藩の中堅家臣、家禄50石。
代々知行地をうける権利をもつ家格で、
時には政務の中枢を担いうる身分でもあったが、
竹外はいつのころからか詩作に傾倒し、酒に浸り、
勤番をきらって病気だといっては家にこもり、
療養だといっては旅に出る毎日だった。

頼 山陽 に教えを受け、梁川星巌、広瀬淡窓らと
親交があり、晩年は京都で詩を作り、酒を愛し、
悠々自適の生活を送った。

古 陵 : 後醍醐天皇の塔ノ尾陵。延元陵ともいう。
松 柏 : 中国では古来、松柏を墓陵・廟所に植える。
   わが国では、必ずしもそういった風はないが、
   漢詩のことであるので中国風にいったもの。
   柏は、松科の常緑樹である。
天 飈 : 天空に吹き荒ぶ風。はやて。つむじ風。
山 寺 : 如意輪寺(にょいりんじ)。
尋 春 : 春景色をさぐる。
眉 雪 : 眉が雪のように白いこと。
南 朝 : 後醍醐・後村上・長慶・後亀山の4代の天皇が
   57年に亘って吉野山に朝廷を開く(南北朝時代)

★ 芳野三絶
   梁川 星巌 『芳野懐古』
   河野 鉄兜 『 芳 野 』 
   藤井 竹外 『 芳野懐古 』
            ・・・ とのことです。




    【 日本の絶句 】
   広瀬 旭荘 の 『 桜祠に遊ぶ 』






広瀬 旭荘 の 『 桜祠に遊ぶ 』

日本の絶句
02 /24 2018
絶句編テキスト

2018年2月24日 絶句編 67ページ  

   桜祠に 遊ぶ    広瀬 旭荘 
 花 開けば 万人 集まり
 花 尽くれば 一人 無し
 但 見る 双 黄鳥
 緑陰 深き 処に 呼ぶを
   
 おうしに あそぶ   ひろせ きょくそう
はな ひらけば ばんにん あつまり
はな つくれば いちにん なし
ただ みる そう こうちょう
りょくいん ふかき ところに よぶを


テキストの通釈によると、
桜の花が咲くと、何万とも知れぬ人たちが
花見に集まってくるが、さて、いったん花が散ってしまうと、
だれ一人やってこなくなる。ただ、
一つがいの雌雄の鴬だけが、緑濃い
葉桜の木陰で呼び交わしているのである。
(このように人は権勢利欲に憧れ、招かないでも
 大勢のものが近寄ってくるが、その人が、地位・
 財産を失ったとなると、だれ一人として寄り付かなくなる。
 そうした折り、旧に変わらない交情を示すものこそ
 真の人間である)
 ・・・とのことです。

先生のお話と こちらによると、
広瀬 旭荘(18071863)は江戸時代末期の漢詩人。
豊後国、現在の大分県日田市で生まれた。
兄・広瀬淡窓より26才下の8人兄弟の末っ子。

1817年 10才  長兄淡窓の桂林荘に入門。
1823年 16才  父の勧めにより淡窓の養子となり勉学に専念。
            筑前の亀井塾に入門。都講に任ぜられる。
1825年 18才  亀井塾を退き、日田に戻る。
      病床の兄・淡窓に代わって咸宜園の塾政となる。
1828年 21才  豊前浮殿(宇佐と豊後高田の境)に塾を開く。
1830年 23才  咸宜園を継ぐ。
1831年 24才  日田郡代の干渉があり、塾生数の減少。
1834年 27才  父死去。
1836年 29才  大坂に出て、塾を開く。
1843年 36才  大坂の塾を閉じ、江戸にて開塾。
  塾は盛大であったが、大病を患い、29歳の妻も死去。
  金品の盗難等などで、600両の借金ができた。
1846年 40才  大坂に戻り塾を開く。
1851年 45才  借金を完済。
1863年  57才  池田郷にて(現池田市綾羽)永眠。

★ この詩は、全句が比喩の形をとっている。

  
桜 祠 : 今の桜の宮(大阪市都島区)にある神社(桜の宮神社)で、
   天照大神と、応神(15代)・仁徳(16代)天皇をまつる。
   古来、花見の地として知られている。
     祠=神社
双黄鳥 : 一つがいの雌雄の鴬。 黄鳥=鴬
            ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   藤田 東湖 の 『 夜 坐 』






藤田 東湖 の 『 夜 坐 』

日本の絶句
01 /23 2018
絶句編テキスト

2018年1月23日 絶句編 66ページ  

   夜 坐    藤田 東湖 
 金風 颯々 群陰を 醸し
 玉露 溥々 万林に 滴る
 独坐 三更 天地 静かなり
 一輪の 明月 丹心を 照らす
   
 や ざ   ふじた とうこ
きんぷう さっさつ ぐんいんを かもし
ぎょくろ たんたん ばんりんに したたる
どくざ さんこう てんち しずかなり
いちりんの めいげつ たんしんを てらす


テキストの通釈によると、
秋風が辺りをざわめかして通り過ぎると、
そのたびに、昼のような明るい地上に、黒い葉影が
重なり揺れ、いっぱいに置いている玉をもあざむく
白露がぽたぽたと、辺り一面の木立からしたたり落ちる。
夜はいよいよ更け、いよいよ静かである。ただ月のみが、
この幽居に独り坐している私を訪れ、一点の曇りのない
この真心を照らし、慰めてくれることである
    ・・・とのことです。

先生のお話によると、
藤田 東湖(1806~1855)は、斉昭が藩主となった後
35才で側用人として藩政改革にあたっていたが、
39才の時、斉昭が蟄居謹慎処分を受け、
東湖も小石川藩邸(上屋敷)に幽閉された。
翌年2月、幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。
この幽閉中に、『志を言う』、『夜坐』は作られた。

金 風 : 秋風に同じ。秋は五行説で金にあたることから、
   秋風の意とする。 秋風=西風
颯 々 : 風の吹く音。または、そのさま。
醸群陰 : 多くの暗い影をつくりだす。
玉露溥々 : 玉のような白露をいっぱいに置いている。     
三 更 : 真夜中。夜の12時の前後2時間ほど。
丹 心 : 赤心。まごころ。
   丹は、赤土。硫黄と水銀が化合したもの。

★ この詩で東湖は、自分は今、謹慎の身になっているが、
  一点の曇りのない心からで、悪いことをした覚えはない
  恥じることもないという自身の潔白さを述べている   
          ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   藤田 東湖 の 『 志を 言う 』






藤田 東湖 の 『 志を 言う 』

日本の絶句
01 /23 2018
絶句編テキスト

2018年1月23日 絶句編 65ページ  

   志を 言う    藤田 東湖 
 俯しては 郷国を 思い 仰いでは 君を 思う
 日夜 憂愁 南北に 分かる
 惟 喜ぶ 閑来 典籍に 耽るを
 錦衣 玉食 本 浮雲
   
 こころざしを いう   ふじた とうこ
ふしては きょうこくを おもい あおいでは きみを おもう
にちや ゆうしゅう なんぼくに わかる
ただ よろこぶ かんらい てんせきに ふけるを
きんい ぎょくしょく もと ふうん


テキストの通釈によると、
(自分は今、不自由な幽居の身である。こうした
境遇に置かれてこそ、人は一層、君国のことが案じられる)
あるときは主君のこと、あるときは故郷の同志のことが
思われる。自分と同じく、この江戸に幽閉の身の上の
御主君は、今、どのような御心境でおられるのであろうか。
北方の主の居ない水戸城下の人心は、今、いかがであろうか。

夜となく、昼となく、憂いは増し、心は傷む。
こんな焦燥と不安の中に過ごす日々にも一つの楽しみはある。
それは、多忙な政務と異なり、たっぷり時間があって
本を読めることである。

まことに、読書の楽しみは何物にも変え難く、
錦衣玉食のような物質上の贅沢や楽しみなどは
大空に浮かぶ雲のように取り止めがなく、何等、
心を動かすに足らないことを痛感するのである。
・・・とのことです。

先生のお話によると、
藤田 東湖(1806~1855)は、江戸末期の水戸藩の儒学者。
名は彪(たけき)、父・幽谷は水戸学者で彰考館総裁であった。
東湖の兄が早世していたため、東湖は嗣子として育てられた。
生家が千波湖を東に望む処にあったため≪東湖≫とした。

1827年、22才で家督を相続、200石となり、彰考館総裁。
1829年、斉昭が藩主となった後、郡奉行などとなり、
1840年、35才で側用人として藩政改革にあたった。
1844年5月、39才の時、斉昭が蟄居謹慎処分を受け、
東湖も小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、禄を剥奪される。
翌年2月、幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。
この幽閉中に『弘道館記述義』 『回天詩史』などの著作が
書かれ、幕末の志士たちに深い影響を与えることになった。
『志を言う』も、『夜坐』もこの蟄居中に作られた。

1847年、水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、
1852年に処分を解かれ、藩政に復帰した。
1853年、アメリカ合衆国のペリーが浦賀に来航し、
斉昭が海防参与として幕政に参画、東湖も江戸藩邸に移り
江戸幕府海岸防禦御用掛として斉昭を補佐することになり、
1854年に、側用人に復帰したが、
1855年の安政の大地震に遭い、江戸下屋敷にて
母を助けた後、梁の下敷きになって、50才で死去した。

言 志 : 自分の心のうちを述べること。
俯 仰 : 二語が対になっている。『地に俯し天を仰ぐ』のことを
  言うが、ここでは『あるときには・・・またあるときには・・・』の意。
郷 国 : ここでは水戸。
 君  : 斉昭公。水戸では主君が幕府により謹慎を
  命じられたことで、人心はきわめて不安な状態にあり、
  東湖は自分の置かれている境遇を忘れて、そのことを心配した。     
南北分 : 南は江戸の君主。北は水戸の同志。
閑 来 : 『来』は意味のない助詞。
  時間に余裕ができて、ひまの意。
典 籍 : 書物。
錦衣玉食 : 美麗な衣服と、贅沢な食べ物。
 本  : 本来、元来の意。
浮 雲 : 漠然として、まったく関心がないことを
  空に浮かぶ雲に喩えた。

東湖が亡くなって5年後の
   1860年3月3日、桜田門外の変となり、
   脱藩した水戸藩士たちが井伊直弼を殺した。
   井伊直弼は1858年、大老に就任。享年46才(満44才)  
          ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   作者不詳 の 『太田道灌蓑を借るの図に題す』






 詩吟もえ子

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