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松平春嶽 の 『 偶 成 』

日本の絶句
09 /18 2015
     続絶句編 250

     2015年9月18日 続絶句編 67ページ

   偶 成  松平 春嶽

 眼に 見る 年々 開化の 新たなるを
 才を 研き 智を 磨き 競うて 身を 謀る 
 翻って 愁う 習俗の 浮薄に 流るるを
 能 忠誠を 守るは 幾人か 有る

   めに みる ねんねん かいかの あらたなるを
     さいを みがき ちを みがき きそうて みを はかる
     ひるがえって うりょう しゅうぞくの ふはくに ながるるを
     よく ちゅうせいを まもるは いくにんか ある



テキストの通釈によると、
 ≪世の中は、年を追って 開化と称する欧化が進んでいる。
 人々は競って、西欧流の技術や知識を学んで身につけ、
 立身出世を図っている。 
 往時、天下のために学んだ人と比較して、
 今の学問をする人の 風気の軽薄さは、真に愁うべきである。
 こうした時に、天下国家のために学ぶ志を忘れずに
 守っている者は どれほどいるだろうか。 
 寥々たるものであろう。≫

こちら に よると、 
 松平春嶽(しゅんがく)は、8代将軍・徳川吉宗が創設した
 御三卿の1つである 田安徳川家に1828年に生まれた。
 吉宗の玄孫(やしゃご=孫の孫)に当たる。
 幼少期には、勉学や稽古など、厳しくしつけられて育った。

 1838年、福井藩主の急死によって養子となり、
 11歳で当主の座に就き、藩政改革を断行していく。

 主な改革を挙げると、、、
  ・「藩札」発行 
  ・藩校「明道館」開設
  ・身分を問わない人材登用 →橋本左内などの改革派を登用
  ・洋式大砲の製造開始 
  ・全藩士の給料3年間半減&自身の経費5年間削減 など。

 1853年)のペリー来航があり、開国か攘夷かという問題、
 その外にも、幕府は、将軍継嗣問題をかかえていた。
 13代将軍・徳川家定の跡取りを誰にするかで、
 一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推す「一橋派」と、
 徳川慶福(後の徳川家茂)を推す「南紀派」で大きく対立。

 一橋派であった春嶽は、南紀派の井伊直弼が大老に就任し、
 隠居謹慎処分となり、ほぼ軟禁状態となってしまった。
 井伊直弼が 「桜田門外の変」 で暗殺され、
 春嶽がこの罪を許されたのは、4年後の1862年。
 
 公武合体を唱えていた春嶽は、明治維新後の新政府で、
 内国事務総督、議定、民部卿、大蔵卿などを歴任、
 徳川宗家を存続させるために赦免活動に努めた。

 中国の「易経」の中の「“明”に嚮(むか)いて“治”む」という言葉から
 “明治”の元号を、春嶽が明治天皇に提案したものだと言われている。

 明治政府のやり方に当初から不満を抱いていた春嶽は、
 明治3年(1870年)に全ての官職を辞して政界を引退し、
 明治23年に亡くなるまでの20年間を執筆活動に専念した

 ・・・とのことです。

松平春嶽 (1828~1890年)
橋本左内 (1834~1859年)

 11才で福井藩主となり、藩政の改革を行なった春嶽は
 1857年29才の時、24才だった橋本左内を
 春嶽の侍読(じどく≒教授)・御内用掛(ごないようがかり)という
 超側近として抜擢し、将軍継嗣問題の担当に指名した。
 このことで、結果的に左内が囚われ、斬首となりましたが、
 春嶽がどのように思っていたのか、何かの記述が
 残っているのであれば知りたいな~と思います。

 多くの若者たちが命を落として迎えた 『明治』 という時代が
 意に反した方向に向かっていくことへの嘆きの中に
 左内たちへの思いがこめられているように思います。

 

      【 絶 句 】

  橋本左内 の 『獄中の作』










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