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橋本左内の 『獄中の作』

日本の絶句
10 /16 2015
     続絶句編 250

     2015年10月9日 続絶句編 69ページ

   獄中の作  橋本 左内

 二十六年 夢の 如く 過ぐ
 顧みて 平昔を 思えば 感 滋 多し
 天祥の 大節 嘗て 心折す
 土室 猶 吟ず 正気の 歌

   にじゅうろくねん ゆめのごとく すぐ
     かえりみて へいせきを おもえば かん ますます おおし
     てんしょうの たいせつ かつて しんせつす
     どしつ なお ぎんず せいきの うた



テキストの通釈によると、
≪二十六年の生涯は、まるで夢のように過ぎてしまった。
 過ぎ去った日々を振り返れば、感慨はいよいよ多い。
 かの 『文天祥』 の守り抜いた節義には常々感服していたが、
 今こうして 『文天祥』 と同じように土牢の中に囚われていると、
 土牢の中で悠然と 『生気歌』 を吟じていた人となりが、
 ますます慕わしく思われるのである。≫



★先生のお話と、ネット情報 に よると、
橋本左内は、1834年、越前国に生まれる。
16才で大坂に出て、適塾で医者の緒方洪庵に学ぶ。
21才で江戸に行き、英語、ドイツ語にも理解をもった。
福井藩士で医者でもあった父の死後、家督を継ぐ。
24才で江戸に呼ばれ、藩主・松平慶永(春嶽)の侍読(御用掛)となる。
江戸幕府14代将軍をめぐる将軍継嗣問題では、春嶽を助けて、
一橋慶喜 擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。

1859年(安政6年)、紀州 慶福(家茂)を推す 井伊直弼が
大老となり、安政の大獄が始まり、一橋派は敗北。
藩主である松平慶永(春嶽)は、隠居謹慎を命じられる。

橋本左内は、将軍継嗣問題に介入したことを問われて
頼三樹三郎と共に、伝馬町 牢屋敷で斬首となった。
享年26。 
左内の、松平慶永(春嶽)への誠忠の念は強く、
在獄中も、終始主家へ災いの及ぶことを恐れた。
墓は、福井市の善慶寺に隣接する左内公園と、
長州の吉田松陰などとともに南千住の回向院にもある。
本名は綱紀(つなのり)、号は景岳、黎園。 左内は通称。

・・・とのことです。




    【 絶 句 】

武市半平太 の 『獄中の作』




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武市半平太の 『獄中の作』

日本の絶句
10 /02 2015
     続絶句編 250

     2015年9月25日 続絶句編 68ページ

   獄中の作  武市半平太

 花は 清香に依って 愛せられ
 人は 仁義を以って 栄ゆ
 幽囚 何ぞ 恥ずべけんや
 只 赤心の 明らかなる 有り

   はなは せいこうによって あいせられ
     ひとは じんぎをもって さかゆ
     ゆうしゅう なんぞ はずべけんや
     ただ せきしんの あきらかなる あり



テキストの通釈によると、
『花は、その清らかな香りによって人に喜ばれ、
 人は、仁義によって、人の輝きを増して行くものである。
 今、私は獄に繋がれてはいるが、少しも恥とは思っていない。
 なんとなれば、私の行為は、偽りのない忠義の心だけから
 出たものであることが、はっきりとしているからである』 とのこと。


★私は、ふとしたことから詩吟を始めたものの、
 歴史や漢詩に興味があったわけではありません。

  『続絶句編』 に 入って、ちょうど一年が過ぎた頃、
 武市半平太と橋本左内の 『獄中の作』 が出てきました。
 二人とも、名前を聞いたことがある程度の人でしたが、
 獄中での胸のうちの一端に触れることができたようで感動!

 橋本左内の句は、その年のコンクール指定吟題だったため
 先に馴染みましたが、あとになって武市半平太のこの句が
 素直な心持ちが感じられていいな~と思うようになりました。 


今、改めて ネット検索をしてみましたら、
武市半平太が切腹した理由と方法とは!
よく まとめられていると思いました。

また、こちら に よると、

・・・「主君(山内容堂)に対する不敬行為」という罪目で、
半平太は切腹を命じられる。 
・・・半平太ら勤王党志士が一連の容疑を頑なに否認したことで、
死刑は盟主である半平太の切腹と岡田以蔵ら自白組4名の斬首
のみ等となり、獄外同志やその他協力者への連累は食い止められた。
即日刑が執行され、以蔵ら4名は獄舎で斬首。

切腹を命じられた半平太は体を清めて正装し・・・
未だ誰も為しえなかったとさえ言われてきた
三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、
前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に
心臓を突かせて絶命した。 享年37。 辞世の歌は、

   ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも
         今は惜しまぬ 身となりにけり

・・・半平太が投獄されて切腹するまでの1年9か月間、
妻・富子は夫と苦労を共にすべく、板の間で寝起きし、
夏は蚊帳を吊らず、冬は布団を使わずに過ごした。
また、毎日3食を欠かさず牢に差し入れ、夫を慰めるため
書籍や自作の押絵なども共に差し入れていた。
半平太が切腹の際に身につけていた衣装も、
富子が縫いあげて届けた死装束であった。

・・・生前から牢番の門谷貫助に対して、切腹の際は
腹を一度切り裂く通常の切腹法では無く、
十字に切り裂く切腹法と、三度切り裂く三文字割腹の法の
いずれかを用いる事を予告していたと伝えられる・・・

・・・藩との対立に敗れて切腹に追い込まれたにも拘わらず、
半平太の遺体が生家の吹井村に帰ってきた際は、
村人が沿道に列を作り、半平太を出迎えたという。 また、
翌日の葬儀では・・・3キロに渡る会葬者の列が出来たとされる。


   ・・・とのこと。 この詩のとおりの
   人だったのかな~と思われてきます。





    【 絶 句 】

李白らとも親交のあった阿部仲麻呂の 『無題』








 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
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