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平成29(2017)年、3回目の初吟会

初吟会
01 /13 2017
1月7日、午前10時半より、練馬にあるホテルで
吟詠萠洲流豊城会の初吟会と新年会がありました。

初吟会看板2

プログラムは、
第一部 初吟会
 開会のことば
 会詩合吟
 宗家あいさつ
 会員吟詠

    1、富士山  石川丈山
    2、烏衣巷  劉 兔 錫
    3、海を望む  藤井竹外
    4、熊本城  原 雨城
    5、熊本城  原 雨城
    6、熊本城  原 雨城
    7、事に感ず  于 潰
    8、壇の浦夜泊  木下犀潭
    9、事に感ず  于 潰
   10、江南の春  杜 牧
   11、豊公の旧宅に寄題す  荻生徂徠
   12、海を望む  藤井竹外
   13、清平調詞 その三   李 白
   14、熊本城  原 雨城
   15、事に感ず  于 潰
   16、弘道館に梅花を賞す  徳川景山
   17、逸 題   山内容堂
   18、嵐山に遊ぶ  頼 山陽
   19、事に感ず  于 潰
   20、清平調詞 その三   李 白
   21、冬夜書を読む  菅 茶山
   22、冬夜書を読む  菅 茶山 (休み)
   23、事に感ず  于 潰
宗家講評と模範吟 松岡萠洲先生 
    春日偶成   夏目漱石
 
第二部 新年会
 乾杯・宴会
 舞・祝い酒
 舞・黒田節
 閉会の言葉・手締め

3月に地域のコンクールがありますので、初吟会では
コンクールに参加する人は同じ吟題になります。

私にとっては3回目の初吟会でした。
1回目は、花を惜しむ  福沢諭吉 
2回目は、山房春事   岑 参
 今年は、海を望む   藤井竹外  でした。

今年の初吟会では、32~33才の頃に友だちの結婚式で
着た着物を、その時以来、初めて着てみました。
もう着ることもないだろうと思っていた着物を
また着ることができて楽しく、不思議な気分になれました。

初吟会着物




     【初吟会】
平成28(2016)年、2回目の初吟会




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賀 知章 の 『郷に回って偶書す』

中国の絶句
01 /11 2017
続絶句編 250  
 2017年1月6日 続絶句編 117ページ

   郷に回って 偶 書す       賀 知章
 少小 家を 離れ 老大にして 回る
 郷音 改まる 無きも 鬢毛 衰う 
 児童 相 見て 相 識らず 
 笑って 問う 客は 何れの 処より 来るかと

     きょうに かえって たまたま しょす       が ちしょう
     しょうしょう いえを はなれ ろうだいにして かえる    
     きょういん あらたまる なきも びんもう おとろう
     じどう あい みて あい しらず
     わらって とう きゃくは いずれの ところより きたるかと


テキストの通釈によると、
  若い時に故郷の家を離れ、年をとって帰って来た。
  お国なまりは一向に直らないが、鬢のあたりの毛は
  白くなったり、薄くなったりしてしまった。
  子供たちは、私と顔を見合わせても、互いに知らない。
  笑いながら、「お客さまは、どちらからお出でになりましたか」
  と、尋ねるのだった。


先生のお話 に よると、
  賀 知章 は、盛唐の詩人で、
  則天武后の時代に37才で進士に合格。
  玄宗皇帝の信任も篤かった。
  礼部侍郎(れいぶじろう・侍郎は次官)などを経て
  82才で秘書監にて退任したが、そのあと
  故郷である浙江省に帰り、作った詩で、
  2首連作の1作目である。
  86才で没した。  
  賀 知章は、43年間 役人生活をしたが、
  杜甫の『飲中八仙歌』のトップに
  出てくるほどの大酒飲みでもあった 
  ・・・とのことです。

★年若くして故郷を離れ、皇帝の近くで役人として過ごし、
 82才で故郷に帰ると、一族の子供たちが笑顔で迎えてくれる。
 当時の中国の地方での暮らしぶりの一端が見えるようです。
 もしかしたら、賀 知章は一族のために時々、
 仕送りでもしていたのかな~などとも思える
 絆のようなものが感じられる心温まる詩だと思いました。
  


  【 中国の絶句 】
 張 敬忠  『 辺 詞 』 


     










少壮吟詠家審査、東日本地区大会

吟剣詩舞振興会
01 /09 2017
日本吟剣詩舞振興会 が主催する
第45回 全国少壮吟詠家審査コンクール東日本地区大会が
1月9日に、品川区スクエア荏原にて開催されました。

上手な方たちの吟が聴きたくて、昨年に
続いて、今年も聴きに行ってきました。

出場者は、東京、群馬、神奈川、栃木、新潟、
千葉、福島、山梨、埼玉、茨城、宮城の各都県から
54名の予定でしたが7名が欠場され、47名でした。
このうち30名が入賞し、3月5日の第45回
全国少壮吟詠家審査コンクール決勝大会に出場されます。

指定吟題は、つぎの15句です。
 生田に宿す   菅 茶山
 時に憩う    良 寛
 楠公子に訣るるの図に題す   頼 山陽
 壇の浦を過ぐ   村上仏山
 涼州詞   王之渙
 山中幽人と対酌す   李 白
 秋 思   許 渾
 胡陰君を尋ぬ   高 啓
 偶 成   横井小楠
 礒浜望洋楼に登る   三島中洲
 奥羽道中   榎本武揚
 青葉の笛   松口月城
 西宮秋怨   王昌齢
 村 夜   白居易
 漢 江   杜 牧

最後の講評で、
発音では47名中、28名が満点だったとのこと。

調和では、出場の前に深呼吸を何回もして、
息を整えて詠いだし、目線を遠くにもっていき、
遠くに届くように声を出す。
全体的に練習量が足りないように思われた。
練習していく中で自分の吟声を作りだし、
呼気のコントロールをしていく。
伴奏との調和・強弱のリズムにのるように心がける。

総評では、全体的に感動が伝わってきにくかったり、
転句になると不安定になったりすることがあった。
十分に呼吸を整え、リズムにのり、
文節のつながりを大切にする。
マイクは身長に合せて調整しマイクに声をよく吸収させる。
番号札はまっすぐにつけ、指を動かしてリズムをとらない。
よく響く、歯切れの良い、芯のある声を出すよう心がける。

・・・というようなことでしたが、私なりのまとめのため、
聞き違いや、解釈違いなどがありましたら、ご容赦下さい。

わが師匠である松岡萠洲先生は、大会副会長、
審査委員、審査結果の発表をされていました。

≪第45回 全国吟詠家審査コンクール東日本地区大会≫で
インターネット検索をしてみましたら、
こちら が 出てきました。
22番で吟じられた 綾香さん、5番目での
入賞、おめでとうございました。



     日本吟剣詩舞振興会
   第48回全国吟剣詩舞道大会







阿倍仲麻呂の伝記 (その2)

あれやこれ
01 /05 2017
阿倍仲麻呂の伝記 からの 続きです。
8135.jpg

阿部仲麻呂が 遣唐留学生として 唐に渡ったのは、
養老元年【717年】、総勢557人だった。

唐に渡った仲麻呂は太学に学び、科挙に及第して校書となり、
崔日知の推挙により玄宗皇帝の側近の官となった。

   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

仲麻呂が唐に渡って16年が過ぎた 天平5年【733年】4月
天平の遣唐使ら総勢594名を乗せた4艘の船が
唐に向けて出航し、翌年4月に玄宗皇帝に土産物を献上した。

その年【734年】10月、日本に帰る4艘を暴風雨が襲った。
そのうちの一艘は崑崙国に漂着。 乗っていた115人は
捕虜となったり、殺されたり、熱病によって死亡したりして、
4名だけが生き残り、崑崙王に謁見。2年後、唐に戻れた。

その4名は阿倍仲麻呂のとりなしで、玄宗皇帝に
渤海国を経て日本に帰る許可と助力を願い出た。
仲麻呂は玄宗皇帝の側近の官となっていたため
4名の帰国のための援助を懇請できる立場にいた。

    ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

仲麻呂は、天平の遣唐使らと共に帰国したいと願ったと
思われるが、玄宗皇帝による帰国の許可が下りなかった。
その折に作った漢詩が 『無題』 である。

この詩には、玄宗皇帝の寵愛に対する感謝の念が述べられ、
皇帝への忠を全うすれば、父母の恩に報いることができない。
忠と恩とが相矛盾するなか、自分の帰国がいつになるか
わかないことへの不安を述べている。
4名の帰国に尽力した仲麻呂は、
どのような気持ちで4人を送り出したのであろうか。

  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

仲麻呂が唐に渡って36年、53才になっていた
天平勝宝5年(753年)の春、20年ぶりに遣唐使が派遣され、
玄宗皇帝から仲麻呂に帰国の許可が下りた。
仲麻呂は秘書監、衡尉卿も兼務、位は従三品と思われる。

仲麻呂の帰国に当たって送別の宴席で披露された詩には、
 長大な序文があり、仲麻呂への思いがあふれる 王維の詩
 仲麻呂が長く仕えた 玄宗皇帝の 日本の遣唐使を送る詩
 長安を辞去する 仲麻呂自身の思いを伝える詩
 帰国の途中に遭難した仲麻呂の死の報を受けた 李白の詩
   ・・・などがある。

李白と王維、仲麻呂の三人は同年生まれということになる。
(三人の生誕年については諸説あるが1~3年の誤差に留まる)
李白と仲麻呂が出会ったのは40代の前半とみられる。

    ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

多くの人に別れを惜しまれた阿部仲麻呂でしたが、
日本への帰国の途中、暴風雨に遭い、ベトナムに漂着し、
陸路、再び唐に戻った時の心境はどのようなものだったでしょう?

続きは また 後ほど・・・



  【あれやこれ】 
  阿倍仲麻呂の伝記








阿倍仲麻呂の伝記

あれやこれ
01 /01 2017
≪阿倍仲麻呂の伝記≫で検索し、購入した本のご紹介です。

8135.jpg

私には難し過ぎて、分るところだけの飛ばし読みで、
まだ3分の1しか進んでいませんが、
なるほどと思ったことをメモしてみました。

仲麻呂の生年については二説がある。
 ・遣唐留学生に任命された年(716年)16才・・・日本の古書に記載
 ・仲麻呂が没したとされる年(770年)73才・・・唐の古書に記載
 どちらの記載に基づくかによって、唐に渡ったのが
 17才(任命の翌年)説か、20才説かになる。

仲麻呂の生家は中流の貴族であった。
 遣唐使となって勉学に励み、飛躍しようとしたのは、
 中流と下流の貴族出身者か、地方豪族出身者たちであった。
 上流貴族の子弟たちは危険を冒してまで遣唐使となることはしなかった。

17才で唐に渡った説をとると、18才以降で大学に入学し、
 21~27才(727年)の間に大学を修了。 
 在学中に蓄えた学力で 科挙の試験に臨んだとみられるが、
 仲麻呂が科挙の試験を受けたこと、合格したという記録も残っていない。
 仲麻呂の任官歴が、科挙及第者の任官コースに準じているため、
 多くの研究者が科挙に及第したと推定している。

李白(701~762年)と杜甫(712~770年)は、
 宮廷内の人的ネットワークがなく、努力をしたが、
 望むような官位を得ることができなかった。
 
仲麻呂が記録上、最初についた官職は【校書】と考えられる。
 書物の管理や高官の文筆を助ける係りであった。
 仲麻呂の唐名は朝衡で、友人とみられる人物の詩に、
 仲麻呂の容姿が美しく、皇太子宮に出入りしていると述べられている。
 宮廷社会においては、その容姿と立ち居振る舞いが重要視された。
 
仲麻呂も王維も、京兆府試験合格者であったが、王維は首席であり、
 10代で宮廷内の人的ネットワークを築くことができ、官位の上昇も
 早かったとみられるが、王維も美貌を誇る少年であった。

崔日知(さいじつち)という人物が仲麻呂を玄宗皇帝に推薦し、
 【左補闕】という官位につく。皇帝に近侍する側近で、
 高い見識が求められる官職であった。
 仲麻呂はその後一貫して、玄宗皇帝に近侍する官職を歴任し、
 安史の乱(755~763年)まで地方勤務がなく、
 玄宗皇帝の下を離れていない。
 科挙に及第して宮廷社会に入った文人官僚は、
 権力闘争が起きた場合、左遷や失脚することが多いが、
 仲麻呂の官位は上昇しつづけている。

玄宗皇帝の信任が篤く、学問に一定の評価がされていた
 ために就任したとみられる仲麻呂の官職は、
 【儀王友】 玄宗皇帝の第十二子儀王の家庭教師・教育係
 【衡尉少卿】えいいしょうきょう 衡尉卿の副官
 【衡尉卿】えいいきょう  『器械文物』の管理部門の統括者  
         武器庫、武器、守官の三部門も統括下となる。
 【秘書監】 秘書省の長官であり、定員一名、秘書省のトップである。

以上に続いて他の役職にも就いていくのですが、
この続きは、また後ほどに・・・

         ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

萠洲流の毎週のお稽古が、『続絶句編』の中国編に入って
盧僎『南楼の望』張敬忠『辺詞』 の2回が終ったところ。
中国の歴史についてほとんど知らなかった私にとっては
興味深い本にめぐりあえたと喜んでいるところです。
 

阿部仲麻呂の 和歌『天の原』絶句『無題』





  【あれやこれ】 
和歌を教えていただきました







 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?