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王維 の 『鹿柴』

中国の絶句
02 /24 2017
続絶句編 250  
 2017年2月17日 続絶句編 122ページ

   鹿 柴    王 維
 空山 人を 見ず
 但 人語の 響きを 聞く 
 返景 深林に 入り 
 復 青苔の 上を 照らす

    ろくさい    おう い
     くうざん ひとを みず    
     ただ じんごの ひびきを きく
     へんけい しんりんに いり
     また せいたいの うえを てらす


テキストの通釈によると、
  シーンと静まりかえった山には、人影一つ見えない。
  だが、どこからともなく人の話し声が聞えてくる。
  夕日の光が、深い林の中に差し込んで来て、
  木の根元の青い苔を照らしている。


先生のお話によると、
  王維 は、31才で宗之問の別荘を購入。
  輞川荘と呼ばれたこの別荘は広大な敷地を有していた。
  鹿柴とは、鹿の角のように竹や木を組み、鹿を飼うための柵。
  
  王維は、裴迪と唱和して 『輞川20景』を作詩した。
  『鹿柴』は、20景のうちの《その5》である。
  ちなみに《絶句編》112ページの『竹里館』は《その17》である。
  裴迪(はいてき) は、716年生まれで、没年は不明。
  王維より10何才か年下であったが、無二の親友であった。

  王維の『鹿柴』に唱和した 裴迪の詩は次のようである。
     日夕 寒山を 見る
     便ち 独往の 客と 為る
     松林の 事を 知らず
     但だ 麏麚の 跡 有り
       にっせき かんざんを みる
           すなわち どくおうの かくと なる
           しょうりんのことを しらず
           ただ きんかの あと あり


    ・・・とのことです。

 ※ 上記、裴迪の詩については こちら でも ご覧いただけます。
  
 ※ 酒を酌んで裴迪に与う   王維 作
    こちらこちらこちら で ご覧いただけます。    


  【 中国の絶句 】
 王維 の 『雑 詩』 






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王維 の 『雑 詩』

中国の絶句
02 /23 2017
続絶句編 250  
 2017年2月3日 続絶句編 121ページ

   雑 詩    王 維
 客 故郷より 来る
 応に 故郷の 事を 知るべし 
 来るの 日 綺窓の 前 
 寒梅 花を 著けしや 未だしや

    ざっし    おう い
     かく こきょうより きたる    
     まさに こきょうの ことを しるべし
     きたるの ひ きそうの まえ
     かんばい はなを つけしや いまだしや


テキストの通釈によると、
  あなたは、わたしの故郷からやって来られた。
  きっと、故郷の様子を知っているに違いない。
  あなたが故郷を立ったその時、わたしの妻の飾り窓の側の、
  寒梅は、もう花を付けていましたか、それともまだでしたか。


先生のお話によると、
  王維 の故郷は、山西省 太原(たいげん)である。
  この句は、三首連作の《その2》であり、
  《その1》と《その3》は、女性からの句という形をとっている。
  綺窓とは、綾絹などで飾ってある窓、妻の部屋を意味する。
  応(まさに) ○○ べし とは、当然 ○○ のはずだ という意味。

  王維は31才で妻を亡くし、初唐の宗之問から買い取った
  別荘・輞川荘で、隠棲していた時期があり、
  裴迪と唱和して『輞川20景』の詩を作っている
  ・・・とのことです。
  
★ 多方面での才能、容姿風貌、地位にも恵まれ、
足りないものは何もないと思われた 王維 ですが、
31才で妻を亡くし、61才で没するまで再婚はしなかった。
この句は、妻が亡くなる前の作でしょうか? それとも
亡くなったあと、仮想上に詠まれた句なのでしょうか?

恵まれた王維は幸せな生涯を送ったのかと思いましたが、
愛する妻を早くに亡くし、それからの30年余を
寂しさや、悲しみを抱きながら生きていたのでしょうか? 
そうだとすると、すべてに恵まれている人は、ごくごく
少数なのかもしれない・・・と考えてしまいました。



  【 中国の絶句 】
 王維 の 『九月九日山東の兄弟を憶う』 






王維 の 『九月九日山東の兄弟を憶う』

中国の絶句
02 /21 2017
続絶句編 250  
 2017年1月27日 続絶句編 120ページ

   九月九日山東の兄弟を憶う    王 維
 独り 異郷に 在って 異客と 為り
 佳節に 逢う 毎に 倍 親を 思う 
 遥かに 知る 兄弟 高きに 登る 処 
 遍く 茱萸を 挿して 一人を 少くを

    くがつここのか さんとうの けいていを おもう    おう い
     ひとり いきょうに あって いかくと なり    
     かせつに あう ごとに ますます しんを おもう
     はるかに しる けいてい たかきに のぼる ところ
     あまねく しゅを さして いちにんを かくを


テキストの通釈によると、
  自分はたった一人で故郷を離れ、見知らぬ他郷で旅人となっている。
  めでたい節句に出会うと、ますます故郷にいる親兄弟のことが偲ばれる。
  私は想像する、兄弟たちが高いところに登って、
  みんな、かわはじかみ を 髪に挿している中に、ただ一人が欠けているのを。


先生のお話によると、
  王維 は、699年、または701年に生まれ、61才で没。
  701年生まれとすると21才で進士に合格。
  この詩は17才のときに作られている。
  王維の故郷は山西省太原で、山東という言い方として
  山東省、太行山の東、函谷関の東の三通りがあるが、
  この題名の山東は、函谷関以東を指している。 

  中国では、奇数が陽、偶数が陰で、
  九が一番大きい数字のため縁起が良いとされる。
  五節句とは、1月1日 人日(じんじつ)、
        3月3日 上巳
        5月5日 端午
        7月7日 七夕
        9月9日 重陽
  重陽の節句では、付近の小高い丘に登り、菊花を浮かべた酒を飲み
  かわはじかみ(ぐみ?)の小枝を髪に挿し、厄払いを払う習慣があった。

  盛唐を代表する三人の詩人のうち、
  李白が詩仙、杜甫が詩聖、王維が詩仏と言われるが、
  王維のお母さんが熱心な仏教徒で、その影響を受けている。
  
  また、王維は南画の祖でもあり、後に、北宗の蘇東坡(蘇軾)が
  王維のことを、詩中に画あり、画中に詩あり と 評している       
  ・・・とのことです。

こちら に よると、王維は、
  幼少から文名を挙げ・・・15歳のころから都に遊学・・・
  親孝行で兄弟とも親しみ・・・
とのこと。
15才のころ故郷を離れ、勉学に励んでいる二年余の日々、
自分は、遠く故郷の家族を想い、慕っているが、
故郷にいる家族みんなもまた同じように
自分のことを想い、案じてくれているだろうという
王維の気持ちがこもった詩だと思いました。



  【 中国の絶句 】
 崔 恵童 の 『同前に和し奉る』 






崔 恵童 の 『同前に和し奉る』

中国の絶句
02 /19 2017
続絶句編 250  
 2017年1月20日 続絶句編 119ページ

   同前に和し奉る       崔 恵童
 一月 主人 笑うこと 幾回ぞ
 相 逢い 相 値うて 且く 杯を 銜む 
 眼に 看る 春色 流水の 如し 
 今日の 残花 昨日 開く

     どうぜんに わし たてまつる       さい けいどう
     いちげつ しゅじん わろうこと いくかいぞ    
     あい あい あい おうて しばらく はいを ふくむ
     めに みる しゅんしょく りゅうすいの ごとし
     こんにちの ざんか さくじつ ひらく


テキストの通釈によると、
  この城東荘の主人は、1ヶ月に笑うことがいったい何回あるだろうか。
  だから、こうした出会いでは、しばらく酒を飲んで楽しもう。
  眼前にある春の景色は、流水のようにどんどん過ぎ去って行く。
  今日、枝に少し残っている花は、きのう開いたばかりの花なのだ。


先生のお話 に よると、
  崔 恵童 は、玄宗皇帝の娘 晋国公主 と結婚。
  城東の荘 玉山草堂 の主人であり、前ブログ
  『城東の荘に宴す』 の作者・崔 敏童 の 従兄弟または兄弟。
  《唐詩選》の中で、『同前に和し奉る』 は
  『城東の荘に宴す』 を受ける形で載っている和詩である。
  崔 恵童 は、崔 敏童 より年上であり、
  身内に 奉る とすることはないため、この題名は
  後世の人がつけたと思われる・・・とのことです。

★玄宗皇帝の娘と結婚し、別荘も持ち、恵まれていると
 思われる作者が、一ヶ月に笑うことが幾回かしかない
 というのは、不幸せな生活なのでしょうか? 
 それとも、幸せな暮らしぶりではあるけれど、
 『城東の荘に宴す』 で、美酒を買って飲むのに
 金が無いなどと言い訳しないでくれ・・・と
 詠んだお客さまへの配慮からなのでしょうか?
 
   

  【 中国の絶句 】
 崔 敏童 の 『城東の荘に宴す』 






崔 敏童 の 『城東の荘に宴す』

中国の絶句
02 /09 2017
続絶句編 250  
 2017年1月13日 続絶句編 118ページ

   城東の荘に宴す       崔 敏童
 一年 始めて 一年の 春 有り
 百歳 曽て 百歳の 人 無し 
 能く 花前に 向って 幾回か 酔わん 
 十千 酒を 沽うて 貧を 辞すること 莫かれ

     じょうとうの そうに えんす       さい びんどう
     いちねん はじめて いちねんの はる あり    
     ひゃくさい かつて ひゃくさいの ひと なし
     よく かぜんに むかって いくかいか よわん
     じっせん さけを こうて ひんを じすること なかれ


テキストの通釈によると、
  一年経てば、必ずその年の始めの春がやってくる。
  人の寿命は百歳というが、百歳生きるものは一人もいない。
  花に向かって、いったい一生に何度酔うことが出来るだろうか。
  今やその機会だ。一万銭を惜しまずに美酒を買って、快く飲もう。
  金が無いなどと言い訳するものではない。


先生のお話 に よると、
  崔 敏童 は、初唐から盛唐にかけての詩人で、
  生没年は不明で山東省出身ということが分っている。
  崔 敏童 の 従兄弟か兄弟にあたる 崔 恵童 が持つ別荘
  玉山草堂にて詠まれた詩である。
  城東荘の は町を意味し、この詩の場合、
  長安の町並の東にある別荘ということになる。
  玉山草堂と川をへだてて、王維の別荘・輞川荘があった。

  百歳 は、人の寿命の上限を言っているが、
  『文選』 古詩十九首の中にある
  生年百に満たざるに 常に千歳の憂いを懐く を もじっている。
  ・・・とのことです。

★十千、千銭の十倍である一万銭もの高額の美酒を買って飲もう
 金が無いなどと言い訳するものではない・・・などと、
 客である作者が言うのはどういうものかと思いましたが、
 この別荘の主である 崔 恵童 の、次回掲載作
『同前に和し奉る』 を見て、なるほど・・・と納得できました。
 
  

  【 中国の絶句 】
 賀 知章 の 『郷に回って偶書す』 






 詩吟もえ子

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