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李 白 の 『清平調詞 その一』

中国の絶句
03 /31 2017
続絶句編 250  
 2017年3月31日 続絶句編 126ページ

  清平調詞 その一   李 白
 雲には 衣裳を 想い 花には 容を 想う 
 春風 檻を 払うて 露華 濃かなり 
 若し 群玉 山頭に 見るに 非ずんば
 会ず 瑶台 月下に 向って 逢わん

    せいへいちょうし そのいち    り はく
     くもには いしょうを おもい はなには かたちを おもう    
     しゅんぷう かんを はろうて ろか こまやかなり
     もし ぐんぎょく さんとうに みるに あらずんば
     かならず ようだい げっかに むかって あわん


テキストの通釈によると、
雲を見れば楊貴妃の美しい衣裳が目に浮かび、
牡丹の花を見れば貴妃の美貌が連想される。
春風は沈香亭の手すりを吹き抜け、
牡丹を濡らす美しい露はあでやかだ。
これほどの美人は、群玉山のあたりで
見かけるのでなければ、瑶台の月明かりの
もとでしか巡り合えないだろう。


先生のお話によると、
楽府には、清調・平調・瑟調の三つがあって、
清平調とは、この内の清調と平調を合わせたもの。
中国で花といえば牡丹の花のことで花王である。
群玉山とは、玉山ともいう。中国神話上での
女神である西王母(せいおうぼ)の住む山で、崑崙山など
中国の西の果てに仙人が住んでいるといわれている。
瑶台とは、仙人のいるところ。

政務が行われた興慶宮(こうけいきゅう)の中、南に庭園があり、
竜池の近くにあった沈香亭(ちんこうてい)でたびたび宴会を行った。
この頃になると玄宗皇帝は政治に身が入らなくなり、
安禄山の乱などがおこる。

李白は、25才で放浪。
35才で、再び放浪。
42才で、玄宗皇帝に呼ばれて仕えることになる。
翰林供奉(かんりんぐぶ・秘書官)という皇帝に申言できる
役ではあったが、実際には宴会の席で歌を作る役で
李白はばかばかしくなって酒びたりの生活をしていた。
ある時、酒を飲んでいると玄宗皇帝から沈香亭に呼ばれ
楊貴妃を讃える(持ち上げる)歌三題をたちまちに作った。
それが、清平調詞 その一、その2、その3である。




  【 中国の絶句 】
 李 華 の 『春行して興を寄す』 






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寂室元光 の 『寒夜の即事』

日本の絶句
03 /29 2017
絶句編テキスト

2017年3月29日 絶句編 26ページ  

   寒夜の即事    寂室元光
 
風は 寒林を 攪して 霜月 明らかなり
客 来って 清話し 三更を 過ぐ 
炉辺に 筋を 閣いて 芋を 煨くを 忘れ
靜かに 聴けば 窓を 敲く 葉雨の 声
   
       かんやのそくじ   じゃくしつげんこう
     かぜは かんりんを みだして そうげつ あきらかなり
     かく きたって せいわし さんこうを すぐ
     ろへんに はしを おいて いもを やくを わすれ 
     しずかに きけば まどを たたく よううの こえ


テキストの通釈によると、
時折、風がざわざわと冬枯れの林の枝を鳴らして過ぎ、
霜の白く降りた晩なので、ことに月の光は冴え冴えとしている。
このような山寺にも人の訪れることがあって、
浮世ばなれをした話に時の移るのを忘れ、
気がつけば、もうとうに夜半すぎ。
さすがに腹も空き、寒さも増してきた事ゆえ、
熱い焼き芋(里芋)でもと思ったが、
おやまた誰か来たらしく、戸をほとほとと叩く音。
今時分また誰が来たのだろうかといぶかり、
炉端に火箸を置いて、しばし耳を澄ませば、なんと、
それは雨の様に降り注ぐ落葉の音であった。


先生のお話によると、
寂室元光(1290~1367)は、鎌倉時代後期から
南北朝時代にかけての臨済宗の僧。
岡山県美作高田の出身。俗姓は藤原氏。
5才で経典を暗唱し、13才で出家。
1320年、31才で中国(元)に渡り、
37才で帰国し、諸国を説法しながら行脚したが、
1361年、72才で臨済宗永源寺(近江)開山。
78才で亡くなられた・・・とのことです。

            

こちら によると、中国の元で
天目山の中峰明本から寂室の道号を与えられ、
師・中峰の隠遁的な禅を受け継ぎ、
世俗から離れ、生涯黒衣の平僧として過ごした。
時の天皇や室町幕府から京都天龍寺・
鎌倉建長寺などへ拝請されたが、
受けることなく永源寺に隠棲した・・・ とのこと。

永源寺 について

寂室元光禅師について によると、
権門に属さず、天目山中深く隠棲して俗塵を遠ざけ、
ひたすら僧とはどうあるべきかを問い続けられる
中峰明本禅師の禅風は、寂室禅師に大きな影響を与えた
・・・72歳のとき、永源寺に入寺、開山されました。
永源寺の深山と幽渓がかつての天目山を思い起こさせ、
禅師にこの地に留まる決心をさせた・・・とのことです。



  【 日本の絶句 】
 菅原道真 『九月十日』


 








 

菅原道真 の 『九月十日』 

日本の絶句
03 /29 2017
絶句編テキスト

2017年3月29日 絶句編 25ページ  

   九月十日    菅原道真
 
去年の 今夜 清涼に 侍ず
秋思の 詩篇 独り 断腸
恩賜の 御衣 今 此に 在り
捧持して 毎日 余香を 拝す
   
       くがつ とおか   すがわらのみちざね
     きょねんの こんや せいりょうに じす
     しゅうしの しへん ひとり だんちょう
     おんしの ぎょい いま ここに あり 
     ほうじして まいにち よこうを はいす


テキストの通釈によると、
思い起こせば、ちょうど去年の今夜は清涼殿で御宴に
侍っており、他の臣たちとともに「秋思」の勅題を奉じて
詩を作ったが、その折り心に憤り悲しむ事があったせいか、
自分の詩だけが腸もちぎれんばかり悲しい思いに満ちていた。
その詩が思いがけなく陛下の御感にあずかり、
お召しの御衣を手ずから賜った。その御衣は
今ここにあり、日ごとに捧げたてまつって移り香を拝し、
ひたすら天恩の厚きに感じ入っているのである。


先生のお話によると、
菅原道真(845~903)は平安時代初期の
学者・詩人であり、政治家でもある。
讃岐守だった道真は、宇多天皇(59代)に
宮中に呼ばれ、抜擢された。
宇多天皇が醍醐天皇に譲位した折、
菅原道真が右大臣、藤原時平が左大臣となり
13才であった醍醐天皇(60代)の後見役となった。
菅原道真が55才、藤原時平が27才であった。

醍醐天皇の後見人・右大臣であった
昌泰3(900)年9月9日 重陽の節句の翌日
天皇の住まい清涼殿にて詩会があった。
王維の詩 に出てくる 重陽の節句
祝い方とは違うが、この日の詩会での
勅題は《秋思》で、道真の律詩が
天皇に認められ、御衣を賜った。
道真は天皇の後見人とはなっていたが、
自分を取り巻く不穏な動きを察知し、
孤立無縁、不安な気持ちを抱えていて、
寂しい心持ちが詩に反映されていたと思われる。

その後、道真の娘婿が醍醐天皇の弟で、
天皇の地位を狙っているとの讒言がなされ、
大宰府に左遷され、2年後、59才で亡くなった。

道真が亡くなった後、京都に雷が落ちて火災になったり、
地震などの災害が相次ぎ、道真の祟りであろうと考えられ
京都北野に霊を祀る祠が建てられ北野天満宮となった
   ・・・とのことです。

            

こちら に、道真が詩会で作った『愁思』が載っています。

こちらは大宰府天満宮のHPで『道真公のご生涯』が載っています。

こちらによると、
・・・大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の、荒れ放題で放置されていた廃屋(榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという。また、時平の差し向けた刺客が道真を狙って謫居周辺を絶えず徘徊していたという。
謫居には、左遷時に別れをあまりにも悲しみ慕われたため仕方なく連れてきた姉紅姫、弟隈麿幼い2人の子供がいた。『菅家後集』「慰少男女詩」で親子で励ましあって一緒に生活していたことが綴られている。・・・しかし、902年秋頃に弟の隈麿が他界、数か月後に左遷時に病床にあった妻も他界し、その10日後に道真も他界した。残された紅姫は、亡き父から託された密書を四国にいる長兄菅原高視に届けるために密かに大宰府をたった。藤原氏の追手が迫る中、若杉山麓に身を潜め、山上の若杉太祖神社に守護を祈願したが、いつしか刺客にみつかり、篠栗の地で非業の最期を遂げたという。現在は、紅姫稲荷神社に紅姫天王という稲荷神として祀られている・・・とのこと。

こちら には、菅原道真の《祟り》について詳しく載っています。

★私は、菅原道真のことをあまり知りませんでしたが、
大宰府に左遷されたということなので、
もう少し風流な暮らしをしていると思っていましたが、
衣食住にも困る生活で、刺客も送り込まれていたようで
ほとんど飢え死に近かったのかな~と思えてきました。
道真は政治から離れて学者として生きていきたいという
気持ちを、宇多天皇に伝えていたが許されなかったとの
記述もありました。もしかして、藤原氏を牽制するために
宇多天皇に利用された? そんな風にも思えてきます。
大宰府に左遷されるのを知って、醍醐天皇に会いに
行ったものの制せられて会えなかったとのこと。でも
上皇の立場としてなら大宰府での道真の暮らしを
少しは影で支えることも出来たのではないのかな~と
思ったりもしましたが無理なことだったのでしょうか。
1000年以上も前のことですから分りませんよね。



  【 日本の絶句 】
 嵯峨天皇の 『山の夜』


 








 

李 華 の 『春行して興を寄す』

中国の絶句
03 /24 2017
続絶句編 250  
 2017年3月24日 続絶句編 125ページ

  春行して興を寄す   李 華
 宜陽 城下 草 萋々 
 澗水 東に 流れて 復 西に 向う 
 芳樹 人 無く 花 自ら 落つ
 春山 一路 鳥 空しく 啼く

    しゅんこうして きょうを よす    り か
     ぎようじょうか くさ せいせい    
     かんすい ひがしに ながれて また にしに むこう
     ほうじゅ ひと なく はな おのずから おつ
     しゅんざん いちろ とり むなしく なく


テキストの通釈によると、
宜陽の町の郊外には、春の花が盛んに生い茂っている。
谷川の水は東に流れ、さらに西に向って流れている。
香しく咲いた花も、それを見る人はなく、
花はひとりでに散っていく。
春の山路には、鳥が空しくさえずっている。


先生のお話によると、
李華は、盛唐の詩人。 21才で進士に合格した。
剛直な人で、監察御史(役人を取り締まる官吏)となったが、
時の権力者・楊国忠に逆らったため右捕闕に左遷された。
(楊国忠は、楊貴妃の従兄弟に当たる)
安禄山の乱のとき、洛陽に住んでいた母を助けに行き
捕らえられたが、楊国忠に逆らった事が認められて、
安禄山により鳳閣舎人として取り立てられた。
このため中唐の時代になって、抗州に左遷された。
その後、節を全うする事が出来なかったのを恥じて
江南に引退し、農耕生活を送り、52才で没した。

宜陽城とは、洛陽(河南省)の西南、洛水のほとりにある。  
  城は、町のことを言う。

町は違って長安となるが、同じ時期に
安禄山の乱によって荒廃した春景色を
詠んだ漢詩に、杜甫の『春望』がある。
  ・・・とのことです。



  【 中国の絶句 】
 王 昌齢 の 『 閨 怨 』 








嵯峨天皇の 『山の夜』

日本の絶句
03 /18 2017
絶句編テキスト

2017年3月18日 絶句編 24ページ  

   山の夜    嵯峨天皇
 
居を 移して 今夜 薜蘿に 眠る
夢裏の 山鷄 暁天を 報ず
覚えず 雲 来って 衣 暗に 湿う
即ち 知る 家は 深渓の 辺に 近きを
   
       やまの よる   さがてんのう
     きょを うつして こんや へいらに ねむる
     むりの さんけい ぎょうてんを ほうず
     おぼえず くも きたって ころも あんに うるおう 
     すなわち しる いえは しんけいの ほとりに ちかきを


テキストの通釈によると、
今夜は久し振りに宮中から出て山中に宿る。
あたりは柾の葛や『さるおがせ』が垂れ下がった
木深いところ、心も落着き旅の疲れもあって、
ぐっすり眠ったことである。
夢がまだ覚めやらず、うとうとしている時に
山鳥のしきりと鳴く声が聞こえて、
はや夜明けとなったが、いつの間にか
曇り空となり、知らぬうちに衣も湿って、
まもなく、なるほどこの家は深い谷川の近くに
あるのだ、ということが分ったのである。


先生のお話によると、
嵯峨天皇(786~842)は52代天皇で、
桓武天皇(50代)の第二皇子。
24才で即位し、在位15年。
39才で譲位し、57才で崩御。
『山の夜』は、譲位してまもなくの頃、
天長(824~834)初め、40才頃の作である。

薜蘿へいらは、柾まさきの葛かずら(薜茘)と蔦葛つたかずら(女蘿)のこと。
薜茘へいれいは、常緑の潅木で、乾かして澱粉を採る。
女蘿にょらは、苔の一種で「さるおがせ」「さがりごけ」ともいう。
漢方では尿を通じ、痰を取る効があるとする。

嵯峨天皇は、空海、橘 逸勢とともに三筆のひとりで、
仏教文化の交流をはかり、90余の漢詩を遺し、
平安時代を代表する書家としても知られている
  ・・・とのことです。


★嵯峨天皇に位を譲った平城天皇は上皇となり、
 いったんは譲った権力を取り戻そうと、
 藤原薬子らと結んで乱を起こしたが失敗(薬子の乱)
 こちら に よると、このあと 嵯峨天皇は、
 乱などにすばやく対処できるよう
 検非違使を設けたり、大宝律令の手直しをした。
 朝廷の経費を節約するため、
 《皇族の多数に姓を賜り臣籍降下させた。
 嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものと
 その子孫を嵯峨源氏という》 また、
 《弘仁9年(818年)、弘仁格を発布して死刑を廃止した。
 中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで
 338年間続いた》 ・・・ とのことです。


  
  【 日本の絶句 】
 空海の『後夜仏法僧鳥を聞く』 


 








 

 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?