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4回目の総会、正岡子規 『春日家に還る』

総会温習会
04 /29 2017
続絶句編 250  
 2017年4月29日 続絶句編 58ページ  総会温習会

平成29年4月29日、
総会と、総会温習会がありました。

平成29年度 総会温習会のプログラムは、
1、富士山
2、時に憩う
3、烏衣港
4、春日家に還る
5、熊本城
6、熊本城
7、花を惜しむ (休)
8、絶命の詞  (休)
9、太田道灌蓑を借るの図に題す
10、桜祠に遊ぶ
11、楠公を詠ず
12、長 城
13、常盤孤を抱くの図に題す
14、中 庸
15、河内路上
16、中秋の月
17、熊本城
18、九段の桜
19、嵐山に遊ぶ
20、花を惜しむ
21、事に感ず
22、感有り
23、春を探る
24、春夜洛城に笛を聞く

25、胡隠君を尋ぬ  松岡萠洲 先生 模範吟 


    ◆    ◆    ◆
  

私は3回目の総会温集会で、4番 『春日家に還る』でした。

  春日家に還る    正岡子規
車に 乗り 馬に 騎って 早く 帰り来る
一たび 双親に 謁すれば 喜び 自から 催す
処々 鶯 啼いて 春 海に 似たり
故園の 芳樹 吾を 待って 開く


    しゅんじつ いえに かえる   まさおか しき   
   くるまに のり うまに のって はやく かえりきたる
   ひとたび そうしんに えっすれば よろこび おのずから もよおす
   しょしょ うぐいす ないて はる うみに にたり
   こえんの ほうじゅ われを まって ひらく


 ◆テキストの通釈によると、
車に乗り、或いは馬に騎って、
急いで家に帰って来て、両親の顔を見ると、
自然と喜びが湧き上がってくる。
帰りの道々、また家の回りの到る処に鶯が啼いて、
目に映る春の様子は海にも似て爛漫である。
ふるさとのわが家の木々が、自分の帰郷を
待っていたかのように花を美しく付けている。

   ・・・とのことです。

 ◆先生のお話によると、
この詩は、正岡子規が12才の時に作った
課題作(題詠)であるため【双親】としているが、
子規は5才で父を亡くしている・・・とのことです。




   【総会温習会】
  3回目の総会、木下犀潭 『壇の浦夜泊』






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李 白 の 『 自ら遣る 』

中国の絶句
04 /28 2017
続絶句編 250  
 2017年4月28日 続絶句編 131ページ

  自ら 遣る   李 白
 酒に 対して 瞑を 覚えず 
 落花 我が 衣に 盈つ
 酔起して 渓月に 歩すれば
 鳥 還って 人も 亦 稀なり

    みずから やる    り はく
     さけに たいして めいを おぼえず
     らっか わが いに みつ
     すいきして けいげつに ほすれば
     とり かえって ひとも また まれなり


テキストの通釈によると、
酒と差し向かいで、ちびりちびりと飲んでいたら
時の経つのも忘れて、日の暮れたのにも気づかなかった。
花びらが風に吹かれて落ち、その花びらが、
私の衣いっぱいに盈ちていた。酔ったあと、
眠りから醒めて谷間の月とともに歩くと、
鳥はねぐらに還り、人影も稀であった。


先生のお話によると、
玄宗皇帝に追放された翌年、45才頃、山東省済州で作った。
伝え聞いて、杜甫や、高適、岑参などが慰めに来てくれ、
詩を作りあったり、酒を飲んだりした
     ・・・とのことです。

           
 
漢詩と中国文化 の 李白 によると、
◆傑作とされる李白の詩は四つの時期に分けられる。
 第一の時期は、李白が蜀を出て最初の放浪に出かける
            25才頃から42才頃まで。
 第二は、42才から44才頃まで、玄宗に仕えた長安の時代。
 第三は、長安を追われ再び放浪をした44才頃から56才頃まで。
 第四は、56才頃から62歳で死ぬまでの晩年の時期、とのこと。

李白が 『自ら遣る』を作ったのは、
第三期の初めということになります。

★また、こちら によると、
744年、長安を追われた李白は黄河を下って魯(山東)へと
向かった。その途中洛陽で杜甫と出会い、?州で高適と出会う。
意気投合した三人は共に河南に遊んだ。
そして翌年の春、李白は魯の石門で杜甫と別れ、
東魯の沙丘というところで結婚して家を持った。
これは李白の三度目の結婚であり、妻との間に
二人の子を設けている。後に「東魯の二稚子に寄す」
という詩の中で歌っている子どもたちは、
この結婚で生まれた子であると考えられる。
746年頃、李白は結婚生活もそこそこに、再び
放浪を始める
・・・ とのことで、李白は
定住の暮らしができない人だったのでしょうね。




  【 中国の絶句 】
 李 白 の 『独り敬亭山に坐す』 







武田 信玄 の 『 新正口号 』

日本の絶句
04 /24 2017
絶句編テキスト

2017年4月24日 絶句編 30ページ  

   新正口号    武田 信玄
 
淑気 未だ 融せず 春 尚お 遅し
霜辛 雪苦 豈 詩を 言わんや 
此の 情 愧ずらくは 東風に 咲われんことを
吟断す 江南の 梅 一枝 
   
      しんせい こうごう   たけだ しんげん
     しゅくき いまだ ゆうせず はる なお おそし
     そうしん せっく あに しを いわんや
     この じょう はずらくは とうふうに わらわれんことを
     ぎんだんす こうなんの うめ いっし


テキストの通釈によると、
新年に入っても依然として冬の気配が濃く、
なごやかな動きは現れない。
まだまだ春は遠いといった感じである。
霜や雪に痛めつけられた名残の風景の中では、
とても詩を作る心境などにはなれない。
さりとて、こんな無風流な気持を、吹きそめる
春風に笑われるのも気恥ずかしいから、
まず、あの陸凱の故事にならって
江南一枝の梅の詩でも作ることにしよう。


先生のお話によると、
新正 とは、新年のこと。
口号 とは、文字に書かず、心に浮かぶままに吟詠すること。
淑気 とは、春のなごやかな気配。
霜辛雪苦 は、四字熟語で、霜や雪にひどく苦しめられること。
豈・・・否定の言葉 で、決して・・・しないの意、反語。
吟断 とは、吟ずる。断は強意の助字。ここでは作る意。
江南梅一枝 とは、呉の陸凱(りくがい)が江南から一枝の
  梅花に添えて、詩を長安の范曄(はんよう)に
  贈った故事 を用いている。
    梅を折りて 駅使(飛脚)に逢い
    寄与す 隴頭(隴山のほとり)の人
    江南 有る処なし
    聊か 贈る 一枝の春


武田 信玄(1521~1573) は、戦国時代の武将で
信玄は法名で、本名は武田晴信。
12代将軍である足利義晴の一字をもらった。
甲斐の守護大名を務めていた18代・武田信虎の嫡男。
1541年、晴信は重臣らと 父・信虎を駿河に追放し、
武田家の第19代目の家督を相続した。
1568年、上洛を果たした織田信長と足利義昭が対立。
義昭は、信玄やその他の大名に信長討伐の旨を発送。
1571年、信玄は信長の盟友である徳川家康を討つべく
遠江・三河侵攻を行うが、1573年、たびたび喀血し、
甲斐に引き返す途中で死去する。 享年53才。

室町時代に京都と鎌倉に五山が出来ると、
宋からの帰化僧や、中国へ留学してきた僧などによって
漢詩が復活されることになり、武田信玄や上杉謙信など
これを学ぶ戦国武将らによって作詩されたり、
吟詠されたりするようになった ・・・ とのことです。

            

武田信玄の漢詩
古寺看花 古寺に花を看る
旅館聴鵑 旅館に鵑を聴く
薔薇 其二 薔薇 其の二
薔薇 其一 薔薇 其の一
新正口號  新正口号

惜落花  落花を惜しむ
偶 作   偶 作
新 緑   新 緑

◆多摩川の源流近くに、おいらん淵 というのがあって
 以前、そこに立ち寄ってみたことがあります。
 武田信玄が黒川金山の秘密を守るために
 おいらん55名を淵の上に吊った宴台で舞わせ、
 その最中に蔓を切って55名を殺したとのことでした。

けれども、こちら によると、
武田勝頼の死後、黒川金山の秘密が漏れることを
危惧した金山奉行・依田の主導で、鉱山労働者の
相手をするため遊廓にいた55人の遊女と、金山に
従事した配下の武士を皆殺しにすることを決めた
・・・とのことで、武田信玄も、勝頼も、このことに
関わっていなかったと知り、少しほっとしました。

おいらん淵と黒川金山

また、こちら によると、
黒川金山は、武田信玄の時代に最盛期を迎え、
武田氏の滅亡後は、徳川家康が甲斐を確保。
幕府の天領となって、1583年には黒川金山衆には
武田氏時代の特権が認められ、黒川金山を含め
甲斐内で幕府直営鉱山での金産出量は、
佐渡金山の金産出量と匹敵するようになった
   ・・・とのことです。

武田信玄を支え続けた金山衆とは?
によると、金が、武田家の軍資金として利用されていた
だけでなく、金の採掘技術や土木の知識などが
城攻めなどにおいて有効な手段となっていたとのこと。




  【 日本の絶句 】
 釈 義堂 の 『花に対して旧を懐う 』







釈 義堂 の 『花に対して旧を懐う 』

日本の絶句
04 /24 2017
絶句編テキスト

2017年4月24日 絶句編 27ページ  

   花に対して旧を懐う    釈 義堂
 
粉々たる 世事 乱れて 麻の 如し
旧恨 新愁 只 自ら 嗟く 
春夢 醒め来って 人 見えず
暮檐 雨は 洒ぐ 紫荊の 花
   
     はなにたいしてきゅうをおもう   しゃく ぎどう
     ふんぷんたる せいじ みだれて あさの ごとし
     きゅうこん しんしゅう ただ みずから なげく
     しゅんむ さめきたって ひと みえず
     ぼえん あめは そそぐ しけいの はな


テキストの通釈によると、
世の中のことは実にわずらわしく、
まるで乱れた麻の糸の様である。
その間に多くの知人を失い、昔のことを恨み、
近頃のことを愁い、ただ自ら嘆くのみである。
春のうたた寝の夢から醒めてみれば、
夢に見たそれらの人達の姿はなく、
夕暮れの軒端の雨が、寂しく紫荊の花に
滴っているだけである。 (今は南北朝対立の
悲しい時世であるが、なんとか両朝の合一が
成って天下も穏やかになり、旧友たちの死も
空しくなかったことに成りたいものである)


先生のお話によると、
釈 義堂(1325~1405)は、釈 絶海とともに
五山文学の双璧とも言われる禅僧である。
道号は 義堂、名は 周信(しゅうしん)
花が好きで花をテーマにした詩が多く、絵も得意。
絶海と同郷の土佐の生まれで、14才で剃髪。
最澄の流れをくむ天台宗(台密)を学ぶ。
台密には13宗があった。
ちなみに空海の流れをくむ真言宗(密教)を東密という。

夢窓疎石の門弟ともなっていたが、36才の時
鎌倉公方 足利基氏に招かれ鎌倉に行き、
基氏の子・氏満の教育係も務めた。
鎌倉では55才まで過ごし、
建仁寺や、南禅寺などの住職も務め、64才で没。

南北朝時代60年ほど、朝廷が南北に別れて
世事・社会や政治面で混乱を続けてきたことを憂え、
南北統一に苦労してきたが、それが実現したのは
義堂が亡くなって4年後、足利義満の時代であった。

世事とは、世間のこと。社会の出来事。政治上の問題など。
  せじ → せいじ   例:詩歌 しか → しいか

旧恨新愁 は、四文字熟語で、以前または
近頃 亡くなった知人に対する恨みや愁い。

中国に、二十四孝 があり、そのひとつ。
漢の時代に3人の兄弟がいて、親が死に財産を
分けることになり、木も3人で分けることにした。
すると、前日まで青々と茂っていた木が枯れてしまった。
3人が反省して分けるのを止めたら、また青く茂った
これが 紫荊の花で、花蘇芳 のことでもある
  ・・・ とのことです。

            

こちら に よると、
この漢詩は、三首の七言絶句で構成された「三部作」であり
其の一「春月催泪」の後に、二首の続きがあります。
作者は、禅僧の義堂周信(ぎどうしゅうしん)で
鎌倉殿(=鎌倉公方)の足利基氏(※尊氏の実子で直義の養子)の願いを受けて
「基氏の叔父で養父の直義に捧げる為に詠まれた漢詩」
     ・・・ とのことです。

また、こちら には、釈 義堂が
影響を受けたと思われる 杜甫 の 詩が載っています。




  【 日本の絶句 】
 釈 絶海 の 『 雨後登楼 』







李 白 の 『独り敬亭山に坐す』

中国の絶句
04 /21 2017
続絶句編 250  
 2017年4月21日 続絶句編 130ページ

  独り敬亭山に坐す   李 白
 衆鳥 高く 飛び尽くし 
 弧雲 独り 去って 閑なり
 相看て 両つながら 厭わざるは
 只 敬亭山 有るのみ

    ひとり けいていざんに ざす    り はく
     しゅうちょう たかく とびつくし
     こうん ひとり さって かんなり
     あいみて ふたつながら いとわざるは
     ただ けいてんざん あるのみ


テキストの通釈によると、
たくさんの鳥が飛んでいたが、
残らず空高く飛び去ってしまった。
空に浮かんだ一ひらの雲も流れ去って、
私は一人心静かに座っている。
じっと見合って、互いに飽きないのは、
ただ、敬亭山だけだ。


先生のお話によると、
敬亭山は、安徽省宣城県の北にある山。
高さ約千メートルで、一名、
昭亭山とも 査山ともいう。
中国の南北朝(六朝)時代に、
宣城県の太守であった謝眺(しゃちょう)が
たびたび登った山でもある。
謝眺(464~499)は、李白より280年も前の
山水詩人で、李白が崇拝(尊敬)していた。
その謝眺が、よく敬亭山に登っていたため
同じように、李白も登ったと思われる。

玄宗皇帝に追放されて、山東省を旅したのち
敬亭山がある安徽省 宣城県にやって来ていた
李白が、53~54才の頃に この詩を作った。
当時、李白は 宣州 の長官 宇文(うぶん)の食客・
居候をしていて、755年に安録山の乱が
起きるまでここにいた。

この詩で用いられている 
などの言葉から、長安を追われて8年が過ぎても
なお、李白にとってはショックで 心淋しい気持ちが
あったのではないかと思われる
    ・・・とのことです。
 
★私は、李白が玄宗皇帝に追放されたことより、
 それからの8年間、充実して満足できるような
 時間をあまり過ごせなかったのかな~と思いました。
 『自分は何をしているんだろうか』 とか、焦りとか、
 不安とか・・・そんな気持ちを詩に託すことはしても
 それが即、どうなるということでもなかったでしょうし。
 食客とか、居候って、長期間になると、
 あまり居心地が良さそうではありませんものね。
 
  『鐘山即事』 で、一日中 山に向かい合っていた
  王 安石 は、結果はどうであれ、やれることは
 全力を尽くしてやってきたという自負の気持ちは
 あったとは思うのですが、李白の場合は、
 同じように、一日中 山に向かい合っていても、
 自分の持てる力を発揮できていないもどかしさの
 ようなものがあったのかも・・・?
 
★李白が崇拝していた謝朓って こちら に よると、

謝朓は若い頃から学問を好み、詩文に巧みで名声が高かった。・・・493年、武帝が死去し・・・明帝が即位すると、謝朓は明帝の封地であった宣城郡の太守に赴任するなど、明帝に大いに信任された。
498年、謝朓の妻の父である王敬則が反乱を・・・決断し、娘婿の謝朓に協力を呼びかけた・・・しかし謝朓は王敬則からの使者を捕らえ、逆に朝廷に王敬則の反乱を告発した。明帝は謝朓を賞賛・・・岳父を告発したという行為は、謝朓自身にもさすがに後ろめたいものであり、これによって世間の批判を受けたため、尚書吏部郎を拝命したのは再三の固辞の末のことであった。また彼の妻はこのことを恨み、懐に短剣を隠し持って謝朓に報復しようとしたため、謝朓は彼女に会うのを避けた。王敬則の敗死に臨んで、謝朓は「私は王公を殺したわけではないが、王公は私のせいで死んだのだ」と嘆いたという。
明帝の跡を継いだ東昏侯は暗君で失政が続いたため、499年、重臣である江祏・江祀兄弟は、これを廃して始安王蕭遙光を擁立しようと謀り、謝朓にもその謀議への参加を誘った。しかし謝朓は元々江祏を軽んじていたことから参加を拒否し、彼らの計画を他人に漏らしてしまった。このことを知った蕭遙光・江祏らは計画が露見する前に先手を打ち、逆に謝朓を捕らえ、朝政誹謗の罪で告発した。詔勅が下り謝朓は処刑された。享年36。


・・・とのことで、すさまじい経歴の人だと思いました。 
  



  【 中国の絶句 】
 李 白 の 『客中の作』 







 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?