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山崎 闇斎 の 『 感 有り 』

日本の絶句
05 /30 2017
絶句編テキスト

2017年5月30日 絶句編 34ページ  

   感 有り    山崎 闇斎
 
坐に 憶う 天公の 世塵を 洗うを
雨 過ぎて 四望 更に 清新 
光風 霽月 今 猶お 在り
唯 缺く 胸中 酒落の 人 
   
         かん あり   やまざき あんさい
     そぞろに おもう てんこうの せじんを あろうを
     あめ すぎて しぼう さらに せいしん
     こうふう せいげつ いま なお あり
     ただ かく きょうちゅう しゃらくの ひと


テキストの通釈によると、
何とはなしにお天道さまが、人間の世の塵を
すっかり洗い清めて下さったかと思われるぐらい、
一雨過ぎたあとの、あたりの眺めというものは、
面目一新、なんと清らかで気持の良いことであろうか。
(かつて黄庭堅こうていけんが、周 濂渓しゅうれんけいを称して
『光風霽月のごとし』といったが、まさにそのとおり)
さて、光風霽月は今なお見られるが、
今の世には、それに比べられるような胸中の
さっぱりした人物が欠けている。
まことに残念なことである。


先生のお話によると、
山崎闇斎(1619~1682)は、江戸時代初期の儒学者・神道家。
生誕地は、京都、近江などの説がある。
幼い頃からわんぱくでお寺に入れられた。
比叡山・妙心寺に入り、僧の修業をし、土佐に移って、
土佐南学派の谷時中に朱子学を学ぶ。
25才で還俗し、儒学者となり、京都・上京区に家塾
(闇斎塾)を開き、公家から諸侯、平民まで幅広く教える。
朱子学の中で、崎門きもん学派の創始者で
6千人余の門人がいた。65才で亡くなった。

            

坐 憶 : 何となく考える。 『坐』は「そぞろ」と読む。

天 公 : おてんとうさま。単に天の意と解してもよい。

四 望 : 四方。 あたりを眺める。

光風霽月 : さわやかな風。雨後の清らかな月。心中が高明で、さっぱりと清らかなのに例える。『霽』は晴れる、さっぱりする意。

酒 落 : さっぱりしていて、物事にこだわらないこと。

黄庭堅
: 北宗の詩人(山谷堂人)で、23才で進士に合格し歴史・教育などの職についた。蘇軾の門下生だったため重要なポストには就かなかった。

周 濂渓 : 北宗の思想家で、宗学(儒学)の開祖。朱子学の考え方の元になる。






    【 日本の絶句 】
   石川 丈山 の 『 富士山 』






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石川 丈山 の 『 富士山 』

日本の絶句
05 /30 2017
絶句編テキスト

2017年5月30日 絶句編 33ページ  

   富士山    石川 丈山
 
仙客 来り 遊ぶ 雲外の 巓
神竜 棲み老ゆ 洞中の 淵 
雪は 紈素の 如く 煙は 柄の 如し
白扇 倒しまに 懸る 東海の 天 
   
         ふじさん   いしかわ じょうざん
     せんかく きたり あそぶ うんがいの いただき
     しんりゅう すみおゆ どうちゅうの ふち
     ゆきは がんその ごとく けむりは えの ごとし
     はくせん さかしまに かかる とうかいの てん


テキストの通釈によると、
 仙人が来て遊んだという神聖な富士山の頂きは、
 雲を抜いて高く聳えている。
 また山頂にある洞窟の中の淵には、
 神竜が年久しく棲みついていると伝えられる。
 冬の頃、この雪山を下界から望めば、山頂から
 山裾まで純白の雪に覆われ、扇に見立てるならば、
 白絹を張った扇面にあたり、その上に
 立ち上る噴煙は、扇の柄にあたる。
 まるで東海の空に白扇がさかさまに懸かって
 いるようで、その雄大な眺めは、実に
 天下一の山の名に背かぬものである。


先生のお話によると、
石川丈山(1583~1672)は、江戸時代初期の漢詩人。
もとは三河生まれの武士で徳川家康に仕えていたが、
大阪夏の陣で軍営を脱して敵の首を二つ取ったが、
軍令に反したということで家康に職を解かれた。
浪人になって30才頃、妙心寺に入って隠棲、
林 羅山の勧めで藤原惺窩に師事し儒学を学ぶ。

文武ともに優れるようなった丈山は、仕官の誘いを
断っていたが、病弱となった母を養うために
和歌山の浅野家に仕官した。その後、浅野家が
安芸(広島)に転封になったため安芸に移り住んだ。
母の死去に伴い、官を辞し、54才で京に戻り、
相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲し始めた。
59才で、比叡山西麓にある一乗寺村に
凹凸窠(詩仙堂)を建てて終の棲家と定めた。
中国の詩人から三十六詩仙を選んで、
肖像画を描かせて建物内に掲げていたため、
でこぼこの土地に建てられた住まいということで
命名された凹凸窠(おうとつか)は詩仙堂とも呼ばれた。
丈山は、90才で亡くなるまでここで過ごした。

            

仙客 : 国の象徴とも言うべき富士を仰ぎつつ、仙人の舞い遊ぶ姿を想像したもの。富士山は『竹取物語』のかぐや姫に見られるように不老不死の薬を焼いた山で、不死とか、不二とも書かれるようになった霊山であるため、仙人が来て幸福と寿命を授けてくれるとの思想から出たものと思われる。

神竜 : 神変霊妙な働きをする竜。竜や蛇に関する信仰は、諸外国に比べ、わが国や中国では、とりわけ深く厚いものがある。

紈素 : 白い生絹。白い扇面をいう。






  【 日本の絶句 】
 林 羅山 の 『 武野の晴月 』






李 白 の 『 越中覧古 』

中国の絶句
05 /26 2017
続絶句編 250  
 2017年5月26日 続絶句編 134ページ

   越中覧古   李 白
 越王 勾践 呉を 破って 帰る 
 義士 家に 還って 尽く 錦衣す
 宮女 花の 如く 春殿に 満つ
 只今 惟 鷓鴣の 飛ぶ 有り

    えっちゅうらんこ
  り はく
えつおう こうせん ごを やぶって かえる
ぎし いえに かえって ことごとく きんいす
きゅうじょ はなの ごとく しゅんでんに みつ
ただいま ただ しゃこの とぶ あり


テキストの通釈によると、
かつて春秋時代、越王の勾践が長い年月に亘る
忍苦の末、ついに、呉を打ち破って凱旋して来た。
これに従って、忠節を尽くした勇士たちも家に帰って
恩賞として賜った錦の衣服で着飾っていた。
宮中の女性たちは、美しい花のように
艶やかに、宮殿に満ち溢れていた。
だが、今はただ、鷓鴣がわびしく
飛びまわっているだけである。


先生のお話によると、
越中は、越の都。会稽(かいけい)、現在の浙江省紹興県
覧古は、懐古の意味。
勾践は、句践とも書く。春秋時代の越の王(?~前465)の名。
    呉の王。夫差 (ふさ)に捕らえられて屈辱を味わったが、
    20年後、忠臣 范蠡(はんれい)とともに呉を滅ぼした。
鷓鴣は、きじ科の鳥。うずらに似ているが、うずらより
    少し大きい。褐色で、胸に白い斑点がある。
    啼き声が悲しげに聞える。

李白が46才、浙江省に滞在していた頃に作られた詩である。

春秋時代、 江蘇州が 、その南 浙江省が の国であった。
30年にもわたって続いた 呉越の争い は、
前473年、越王の勝利によって幕を閉じた。

呉王・闔閭は、越に攻め入って負った傷が元で
死を迎えることになったが、息子である 夫差
『必らず越の勾践に復讐するように』と遺言した。

呉王となった夫差は、父の言葉を忘れないように
薪の上に伏して(臥薪)兵力を強め、越の勾践を会稽山に
追いつめた。命乞いをしてきた勾践とその忠臣・范蠡 を
夫差は、忠臣・呉子胥の忠告を受け入れずに許した。

越王・勾践は、呉に赴き、召使いとして、
夫差に仕えることになり恥(会稽の恥)をさらした。
越に戻った勾践は、この時の恥を忘れないよう
肝を嘗めて(嘗胆)奮起し、鍛錬した。
呉王・夫差が北征して、呉が手薄になった機を
狙って、勾践が呉の都・蘇州を攻めて滅ぼし、
30年余続いた呉越の争いを終えることとなった。  

呉越の争いから、
臥薪嘗胆:目的をとげるために、長い間
       たいへんな苦労をすること。
会稽の恥:敗戦の恥。相手から受けた 
       忘れられない恥。
西施の顰(ひそ)みに倣う
 などの言葉が生まれ、今も使われている。

絶句編 122ページ 『蘇台覧古』 は、
李白が、呉の立場から作った漢詩である
     ・・・とのことです。

             

★鷓鴣って、庶民の鳥、古い鳥と書きますが、
  こちら に よると、
 中国南部などで、家禽として飼育もされている。
 足の力が強く走るのが得意だが、飛行は苦手。
 雑食性で、バッタ、アリ等の昆虫、植物の果実、
 種子、芽などを食べることが多い。
 主に食肉用として飼育されている。鶏などより
 高価で、スープの材料として用いる例が多い
         ・・・とのことです。




  【 中国の絶句 】
 李 白 の 『天門山を望む』 







李 白 の 『 天門山を望む 』

中国の絶句
05 /25 2017
続絶句編 250  
 2017年5月19日 続絶句編 133ページ

  天門山を望む   李 白
 天門 中断して 楚江 開く 
 碧水 東に 流れて 北に 向って 廻る
 両岸の 青山 相対して 出ず
 弧帆 一片 日辺より 来る

    てんもんざんを のぞむ
    り はく
     てんもん ちゅうだんして そこう ひらく
     へきすい ひがしに ながれて きたに むかって めぐる
     りょうがんの せいざん あいたいして いず
     こはん いっぺん にっぺんより きたる


テキストの通釈によると、
天門山は、真ん中で二つに断ち切られ、
その中を長江が流れている。
真っ青な水は東に流れていたが、
ここで、北に向って流れを変える。
両岸には青い山が向きあって突き出ているが、
その間を一つの白帆が、遥かかなたの
太陽の沈むあたりから流れてきた。


先生のお話によると、
天門山は、長江をはさんで、東の安徽省当塗県の博望山
     (東梁山・81m)と、西の和県の梁山(西梁山・65m)
     があり、この二つの山が丁度、門のように
     向い合っているので、総称して『天門山』という。
楚江は、長江をいう。(楚の国、現在の湖北省・湖南省・
     安徽省を流れる部分。この場合の湖は洞庭湖である)
日辺は、太陽のあたり。これは長安の縁語であり、
     都を懐かしむ情が暗示される。

李白が53才、宣州の長官・宇文の食客(753~755)で
         あった頃に作られた詩である。
         『 洞庭湖に遊ぶ 』 も 同時期に作られた。

晋の国の明帝は少年のころより賢かった。
長安から来た使者の前で、父親の元帝が、
『長安と太陽とどちらが遠いか?』とたずねられた。
明帝は『長安の方が近い。それは、まだ太陽から
来たという人を聞いたことがないから』と答えた。
次の日、群臣と宴を開いているところで、また同じこと
を聞かれると、明帝は『太陽の方が近い』と答えた。
父の元帝は『どうして前に言ったことと違うのか』と
たずねると、明帝は『頭を上げると太陽は見えるが、
長安は見えない』と答えた。元帝は、ますます
(自分の息子は)人並みではないと思ったという
故事から、日辺は長安の縁語になっている
        ・・・とのことです。

★長安を追われて10年近くも経っているのに、なお
 この詩には、李白の長安を懐かしむ気持が込められて
 いるとのこと。中国という広大な国土や、その距離、
 当時の交通の便などを考えると、現代の私たちには
 想像もつかない感情が込められているのかも・・・




  【 中国の絶句 】
 李 白 の 『洞庭湖に遊ぶ』 







林 羅山 の 『 武野の晴月 』

日本の絶句
05 /17 2017
絶句編テキスト

2017年5月17日 絶句編 32ページ  

   武野の晴月    林 羅山
 
武陵の 秋色 月 嬋娟
曠野 平原 晴れて 快然たり 
青々を 輾破するも 轍迹 無し
一輪 千里 草 天に 連なる 
   
      ぶやの せいげつ   はやし らざん
     ぶりょうの しゅうしょく つき せんけん
     こうや へいげん はれて かいぜんたり
     せいせいを てんぱするも てっせき なし
     いちりん せんり くさ てんに つらなる


テキストの通釈によると、
この高所の別荘から見渡すと、江戸の郊外
武蔵野の原は、もうすっかり秋景色となり、
月の光もさわやかにうるわしい。
広々とした平野は、昼をあざむくばかり明るく
晴れ渡って清々とした気持ちである。
月影は青々とした空をわたってあとを残さない。
一望千里の草原は天と連なって、天上にはただ
一輪の月が高くかかっているばかりである。


先生のお話によると、
林 羅山(1583~1657)は、江戸時代初期の儒学者。
生まれは京都であるが、朱子学を学んだ藤原惺窩
の推薦で、23才の時に徳川家康のブレーンの
一人となり、江戸に住むようになった。
上野忍岡に土地を与えられ儒学を教えるように
なったが、これが昌平坂学問所の起源となった。
林家は徳川幕府の大學頭(だいがくず)を継承、
羅山は、家康から家綱まで4代の将軍に仕え、
75才で亡くなった。
本名は信勝、出家して道春、羅山は号である。

            

5代将軍 綱吉の時、上野忍岡から湯島に移り、
昌平坂学問所となった。この時、孔子を祭った
孔子廟も一緒に移った。現在の湯島聖堂である。

武野とは、武蔵野の原。間八州のひとつ。
    東京を中心にして、埼玉・神奈川の一帯。
武陵とは、中国湖南省にあった郡名。
    理想郷桃花源があったので名高い。
武陵は、中国で時代により武州ともいい、武蔵の国に
    通ずるので江戸の意に用いられたと思われる。 
嬋娟は、月・花・人などの姿や色に繊細な美しさがある
    ことをいう。たおやか。あでやか。うるわしい。
輾破は、車輪がめぐる。
轍迹は、車のわだちの跡。
    月は天上を車輪がめぐるように移ろっていくが、
    わだちの跡を残さないことに例えている 
     ・・・ とのことです。

            

昌平坂学問所 に ついて こちら に よると、
 1630年(寛永7年)、徳川家康から与えられた上野忍岡で林羅山が私塾を営み、孔子廟を設け、代々の林家当主(大学頭)が継承した。1690年(元禄3年)、将軍徳川綱吉の時代、神田湯島に孔子廟が移され、講堂・学寮も整備され、孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名された。
1790年、「寛政異学の禁」により朱子学が奨励され、林家の私塾であった「学問所」を、1797年までに制度上の整備を進め、幕府の教学機関としての昌平坂学問所となった。この時、外部からの教授も招かれ、直参のみならず藩士や郷士・浪人の聴講入門も許された。
昌平黌は、幕末期には洋学の開成所、医学(西洋医学)の医学所と並んでいたたが、維新期の混乱により一時閉鎖。新政府により慶応4年6月(1868年8月)官立の「昌平学校」として再出発した。この昌平学校は、儒学・漢学中心ではなく、皇学(国学・神道)を上位に置いため、旧皇学所出身の国学教官と昌平黌以来の儒学派との対立が生じた。「大学校」の中枢と位置づけられた後、「大学本校」と改称されていた昌平学校は明治3年(1870年)休校となり、翌年、閉鎖された。
しかし、昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができるほか、この地に設立された東京師範学校(のちの高等師範学校)や東京女子師範学校(のちの東京女子高等師範学校)の源流ともなった。
後に、東京師範の後身である東京高師は、東京教育大となり、茨城県つくば市に移転し筑波大学となり、現在に至っている。
東京女子師範の後身である東京女高師が、「お茶の水女子大学」となっている。
また現在、学問所跡地のほとんどが、湯島聖堂 に隣接する東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている・・・とのことです。

◆また、こちら に よると、
湯島聖堂は、大正11年(1922)国の史跡に指定されましたが、翌年の関東大震災によって、入徳門と水屋を残し、すべて焼失したため、昭和10年(1935)に、鉄筋コンクリート造りで再建された・・・とのことです。




  【 日本の絶句 】
 上杉 謙信 の 『九月十三夜陣中の作』






 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?