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杜甫 の 『 絶句(両箇の黄鸝) 』

中国の絶句
06 /30 2017
続絶句編 250  
 2017年6月30日 続絶句編 138ページ

   絶句 (両箇の 黄鸝   杜 甫
 両箇の 黄鸝 翠柳に 鳴き 
 一行の 白鷺 青天に 上る
 窓に 含む 西嶺 千秋の 雪 
 門に 泊す 東呉 万里の 船

  ぜっく (りょうこの こうり)
  と ほ
りょうこの こうり すいりゅうに なき
いっこうの はくろ せいてんに のぼる
まどに ふくむ せいれい せんしゅうの ゆき
もんに はくす とうご ばんりの ふね


テキストの通釈によると、
二羽のうぐいすが、緑色に茂った柳でさえずり、
一列になった白さぎの群れが、青空の中を飛んでいく。
窓からは、西嶺に降り積もった万年雪が、
まるで額縁にでもはめ込んだように眺められ、
門の前の船泊りでは、東の呉の国からの船が停泊している。


先生のお話によると、
この詩は、杜甫が53才で作った絶句4首連作のその3で、
全対格(絶句で全部が対句)となっている。
起句が近景、承区が遠景、両と一、黄と白、翠と緑。
転句が遠景、結句が近景、西と東、千と万。

黄 鸝 : 高麗うぐいす。つぐみほどの大きさで、
   全身が黄色。朝鮮と台湾に住み、飼い鳥とされる。
   日本のうぐいすより大きめである。
西 嶺 : 四川省成都の西にある雪山。
千 秋 雪 : 万年雪のこと。
門 泊 : 杜甫の草堂の前を流れる川は浣花渓かんかけいで、
   その東に万里橋があった。ここが船泊りで、
   東へ行く船は、全てここから出た。
東 呉 : 東の呉の地方。今の長江の下流をさす。

     ◆  ◆  ◆
   
杜 甫(712~770)は中国盛唐の詩人で、律詩の表現を大成させた。
祖父は杜審言としんげんという初唐の宮廷詩人で、
杜甫は6才の頃から詩文を作り、14才で文人の仲間入り。
李白と並んで、中国文学史上最高の詩人として、
李白の「詩仙」に対して、「詩聖」と呼ばれている。

20才で、科挙の進士を受験したが及第せず。
33才で、洛陽で李白と会う。
36才で、長安で一芸に通じる人のための試験に不合格。
    その後、高官たちにしばしば詩を献上したりした。
44才で、下級官僚の役職につくが、
45才で、安禄山の乱により長安が陥落する折、
    長安を出ようとして、反乱軍に捕まって幽閉される。
    この時、『春 望』を作った。
46才で、何とか脱出し、粛宗に認められ左拾遺となったが、
    宰相 房琯ぼうかんを擁護したため、
    粛宗の怒りを買い、華州に左遷された。
    一帯が飢饉に見舞われたことにより、官を捨て、
    ドングリなどを食いつないで各地で飢えを凌ぐ。
49才で、蜀道の険を越え、四川省成都に行く。
    成都では節度使 厳武げんぶの庇護を受け、
49才~54才、生涯ではいちばん安定した生活をした。
    この時期に杜甫草堂≪浣花草堂≫を作った。
55才、厳武が亡くなり、 成都を去り、長江を下る。
59才、洛陽を経由して長安に戻ろうとしたが、
   湘江の舟の中で亡くなった。770年。
   死因として、いただき物の牛肉を食べ過ぎたため
   とする節もあるが、正確な死因は不明である。
   ちなみに李白は62才、762年に亡くなっている。
     ・・・とのことです。      



  【 中国の絶句 】
 高適の 『 董大に別る 』 







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太宰春台 の 『 稲叢懐古 』

日本の絶句
06 /29 2017
絶句編テキスト

2017年6月29日 絶句編 38ページ  

    稲叢 懐古    太宰 春台 
沙汀 南望すれば 煙波 浩たり
聞くならく 三軍 此れより 過ぐと
潮水 帰来して 人事 改まり
空山 迢遞 夕陽 多し 
   
   いなむら かいこ   だざい しゅんだい
さてい なんぼうすれば えんぱ こうたり
きくならく さんぐん これより すぐと
ちょうすい きらいして じんじ あらたまり
くうざん ちょうてい せきよう おおし


テキストの通釈によると、
稲村が崎の砂浜からはるか南の方を見やれば、
広々とした波の上にもやが立ち込めている。
かの名将新田義貞はここから干潟を渡り、
大軍を率いて鎌倉に攻め入り北条高時を
滅したと、かねてより耳にしている。
いったん退いたここの海水が、またもとに帰り、
波は浜辺に打ち寄せているが、人の世のことは
すっかり昔と変わってしまっており、ただ人気のない
ものさびしい山が、いっぱいに照らす夕日を受けて、
遠く連なっているばかりである。


先生のお話によると、
太宰 春台(1680~1747)は、江戸時代中期の儒学者。
「春台」は号で、名は純、字は徳夫、通称は弥右衛門。
信州・飯田生まれ。平手家から太宰家の養子となり改姓。

江戸へ出て苦学し、学問を修め、15才で、但馬出石藩の
松平氏に仕え、17才で儒学者、中野撝謙に朱子学を学ぶ。
21才で官を辞し、10年余の間に漢詩・朱子学などを学び、
その後、荻生徂徠の門に入って古学・古文辞学へ転向した。
36才の時、小石川に塾を開き、多くの門人に教えた。

            

沙 汀 : 砂の波打ち際。砂浜。
煙 波 : もやのこもった波。
聞 説 : 聞くところによれば。聞き及ぶには。≪説≫は助字。
三 軍 : 大軍。周の軍制で一軍は12,500人。
   三軍は大諸侯の軍であるが、一般に大軍の意に用いる。
空 山 : 人のいないさびしい山。
迢 遞 : はるかに遠いさま。   

稲村が崎 は、鎌倉市の海岸で、七里ヶ浜と由比ヶ浜の
   間の岬で、鎌倉大仏様の辺りになる。この詩は、
   太平記に出てくる 北条氏最後の将軍北条高時が
   亡んだ400年余前のことを思い描いて作られた。




    【 日本の絶句 】
   伊藤東涯 の 『藤樹書院に過る』






伊藤東涯 の 『藤樹書院に過る』

日本の絶句
06 /29 2017
絶句編テキスト

2017年6月29日 絶句編 37ページ  

   藤樹書院に 過る    伊藤 東涯 
江西の 書院 名を 聞くこと 久し
五十年前 義方を 訓う
今日 始めて 来る 絃誦の 地
古藤 影は 掩う 旧茅堂 
   
   とうじゅしょいんに よぎる   いとう とうがい
こうせいの しょいん なを きくこと ひさし
ごじゅうねんぜん ぎほうを おしう
こんにち はじめて きたる げんしょうの ち
ことう かげは おおう きゅうぼうどう


テキストの通釈によると、
久しい以前から、自分も江西の地に残っている
『藤樹書院』の名は聞いていた。
その書院は今から50年ほど前に、近江聖人として
世間に評判の中江藤樹先生が、人の踏み行うべき
正しい道を教えさとされた所である。
ようやく望みが達し、今日初めて、その昔大勢の
弟子たちが詩書を誦読していた地に来て見れば、
世に名高い藤が、古木となって影を茂らせ、
当時のままの茅葺きの書院を覆って、
今も藤樹先生がそこに居られるかのようで、
まことに感慨無量であった。


先生のお話によると、
伊藤東涯(1670~1736)は、江戸時代中期の儒学者。
名は長胤ちょういん、字は源蔵。67才没。
伊藤仁斎の長男で、その私塾古義堂の2代目。
父や弟たちを支えて古義学の興隆の基礎を築き、
新井白石、荻生徂徠らとも親交が深かった。
東涯の号は、古義堂が京都堀川の東岸に在ったことに因む。

            

藤樹書院 : 中江藤樹(わが国における陽明学の祖)が
   その生地近江(滋賀県)の高島郡小川村で教化を垂れ、
   その跡が≪藤樹書院≫と呼ばれた。近江の西部に
   あるので≪江西書院≫とも呼ばれた。
五十年前 : 東涯がこの書院を訪れたのは1721年で
   藤樹の卒した1648年の73年の後であった。
   従って、≪五十年≫は大略の数である。
訓 義 方 : 子弟を教訓するのに正しい道をもってすること。
絃 誦 : ≪絃≫は絃歌。≪誦≫は誦読。
   中国古代において琴に合わせて書物を朗誦したので
   読書・学問のことをいう。




    【 日本の絶句 】
   荻生徂徠 の 『豊公の旧宅に寄題す』






荻生徂徠 の 『豊公の旧宅に寄題す』

日本の絶句
06 /26 2017
絶句編テキスト

2017年6月26日 絶句編 36ページ  

   豊公の 旧宅に 寄題す    荻生 徂徠
 
海を 絶るの 楼船 大明を 震わす
寧んぞ 知らん 此の 地 柴荊を 長ぜんとは 
千山の 風雨 時々 悪く 
猶 作す 当年 叱咤の 声 
   
         ほうこうの きゅうたくに きだいす   おぎゅう そらい
     うみを わたるの ろうせん たいみんを ふるわす
     いずくんぞ しらん この ち さいけいを ちょうぜんとは
     せんざんの ふうう じじ あしく
     なお なす とうねん しったの こえ


テキストの通釈によると、
豊臣秀吉が朝鮮征伐のとき、大海を乗り切ってかの地に
押し寄せた軍船は、大国の大明をも震え恐れさせた。
その秀吉の居城も、さして年月を経ていない今日
荒れるにまかせ、雑木のみ生い茂るに至ろうとは、
だれが予想し得たであろうか。
この付近の山々には風雨が、すさまじい
唸りをあげて荒れ狂うことがあるが、
それはさながら、秀吉が大音声だいおんじょうをあげて
千軍万馬を叱咤しているかのように聞こえるのである。


先生のお話によると、
荻生徂徠(1666~1728)は、江戸時代中期の儒学者。
江戸で生まれたが、父が江戸から放逐され、
茂原市上総で学び、13年余独学して学問の基礎をつくった。
その後、父が許され、江戸に戻り、31才で、
将軍綱吉の側用人だった柳沢吉保につかえ、
川越に15人扶持を与えられた。
綱吉の死去とともに、吉保が失脚し、
44才で日本橋茅場町に私塾・蘐園けんえん塾を開いた。
56才の頃、紀州家から出た初めての将軍吉宗の
信任を得て、政治における助言者となった。
中国語にも堪能で、中国の古典を読み解く
古文辞学(蘐園学派)を確立した。63才没。

            

寄 題 : その地に行かないで題詠すること。
豊公旧宅 : 豊臣秀吉のもとの住まい。
     秀吉が亡くなった伏見桃山城だと思われる。
楼 船 : 上に櫓を設けた船。幾階にも作られた大きな船。
大 明 : 国号に大の尊称をつけたもの。
柴 荊 : ≪しば≫や≪いばら≫の雑木。




    【 日本の絶句 】
   徳川光圀 の 『日本刀を詠ず』






徳川光圀 の 『日本刀を詠ず』

日本の絶句
06 /26 2017
絶句編テキスト

2017年6月26日 絶句編 35ページ  

   日本刀を 詠ず    徳川 光圀
 
蒼竜 猶お 未だ 雲霄に 昇らず
潜んで 神州 剣客の 腰に 在り  
髯慮 鏖にせんと 欲す 策 無きに 非ず
容易に 汚す 勿れ 日本刀 
   
         にっぽんとうを えいず   とくがわ みつくに
     そうりゅう なお いまだ うんしょうに のぼらず
     ひそんで しんしゅう けんかくの こしに あり
     ぜんりょ みなごろしにせんと ほっす さく なきに あらず
     よういに けがす なかれ にっぽんとう


テキストの通釈によると、
わが国の海辺を侵して通商を迫る外国船の振舞いは、
目に余るものがある。
しかしながら、これを討つには、いまだ時期尚早である。
今は竜が深い淵にひそんで、まだ天上に登る時ではない。
神州剣士の腰にさす日本刀こそ、隠忍自重の姿である。
かの外敵を皆殺しにする方策は、決してないわけではない。
この腰間の日本刀が鞘ばしった時こそ、竜が雲を呼んで
大空に上る時で、その機の熟するを待つべきであり、
滅多なことではこの神聖な刃は汚すべきではない。


先生のお話によると、
徳川光圀(1628~1701)は徳川家康の孫で、水戸3代藩主。
1657年、『大日本史』を編纂した。
この中で、楠 正成を天皇の忠臣とし、
後に湊川に楠公の碑を建てた。
水戸8代藩主 徳川斉昭が水戸に弘道館を作った。

徳川幕府の将軍は、7代までは本家が継承。
8代将軍の吉宗から14代まで紀伊家から出た。
14代を紀伊家と水戸家とで争い、
15代の慶喜は水戸家から出て、大政奉還となった。

            

蒼 竜 : 名刀を竜にたとえた語。青竜に同じ。
 ◆陰陽五行説で、森羅万象すべてが成り立っている。
   月 日 木 火 金 水 土
   春 夏 秋 冬 土曜    ・・・ 季節
   東 南 西 北 中央    ・・・ 方位
   青 赤 白 黒 黄     ・・・ 色
   竜 酉 寅 亀      ・・・ 動物
  これらの組合せで、例えば
  東風は春、西風・金風は秋、
  青春・白秋・白虎隊・朱雀(南を守る)門・
  玄武(北を守る)門 ・・・ などとなる。

雲 霄 : 天空。

髯 慮 : ひげ深い外国人。慮は蛮族を卑しめていう語。
       通商を迫るイギリスなどの国の人をさす。





    【 日本の絶句 】
   山崎 闇斎 の 『 感 有り 』






 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?