FC2ブログ

岑参 の 『山房春事』

中国の絶句
07 /28 2017
続絶句編 250  
 2017年7月28日 続絶句編 142ページ

  山房 春事   岑 参
 梁園 日暮 飛鴉 乱る
 極目 䔥条 三両家
 庭樹は 知らず 人 去り尽くすを
 春 来って 還 発く 旧時の 花 

   さんぼう しゅんじ
  しん しん
   りょうえん にちぼ ひあ みだる
   きょくもく しょうじょう さんりょうか
   ていじゅは しらず ひと さりつくすを
   はる きたって また ひらく きゅうじの はな


◆テキストの通釈によると、
 梁王の築いたという庭もすっかり荒れ果てて、
 夕暮れどきには鴉が乱れ飛んでいる。
 見渡す限りものさびしく、ただ二・三の民家があるばかりだ。
 庭の樹は、昔の人が全て死に絶え、時が移り変わっていることも知らず
 春になれば、また昔ながらの花を咲かせている。

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
山 房 : 山の中の家。一説に、梁園の廃墟に
   建てられた開元寺かいげんじをさすといわれる。
   開元寺は、国家の祭務を行うため、
   玄宗皇帝の命令で各州に設置された
   官寺として、738(開元26)年に建てられた。
   岑参は、寺が出来てまもなく立ち寄ったと思われる。
春 事 : 春興という意。春の風情。
梁 園 : 前漢時代、梁の孝王が、多くの賓客を
   集めて遊んだ別荘。竹園でもあった。
   孝王は、前漢3代 文帝の次男。文学好きで、
   多くの文士や学者らが招かれた。    
極 目 : 見渡す限り。
䔥 条 : ものさびしいさま。
旧時花 : 昔ながらの花。 

岑参(715~770)は、約900年前のことを懐古しながら
この詩を、二首連作・その2として作っている
     ・・・とのことです。
   
 ◆  ◆  ◆

地域のコンクール二回目の参加
私が指定吟題の中から選んだのが、
この『山房春事』 でした。




  【 中国の絶句 】
 岑参 の 『京に入る使に逢う』







スポンサーサイト



伊形霊雨の 『赤馬が関舟中の作』

日本の絶句
07 /24 2017
絶句編テキスト

2017年7月24日 絶句編 42ページ  

    赤馬が関 舟中の 作    伊形 霊雨 
 長風 浪を 破って 一帆 還る 
 碧海 遥かに 回る 赤馬が関
 三十六灘 行くゆく 尽きんと 欲す 
 天辺 始めて 見る 鎮西の 山
   
     あかまがせき しゅうちゅうの さく   いがた れいう
   ちょうふう なみを やぶって いっぱん かえる
   へきかい はるかに めぐる あかまがせき 
   さんじゅうろくだん ゆくゆく つきんと ほっす
   てんぺん はじめて みる ちんぜいの やま


テキストの通釈によると、
遠い彼方から吹いてくる風に送られ、
わが乗る帆掛船は、波を蹴立てて周防灘から
赤馬が関に向かい、青海原は岬や
島影にさえぎられながら回り続いている。
数多い急流の難所も乗り越え、やっと
波の平らなところに出ようとするとき、はじめて
雲のかなたに九州のなつかしい山が見えてきた。
わが故郷がようやく近づいて来たのだ

   ・・・とのことです。

先生のお話によると、
伊形霊雨(1745~1787)は、江戸時代中期の儒学者。
本名は質(ただし)。幼少の頃より詩を学び、肥後(熊本)藩の
命令で京都に留学し、その帰りに船の中で詠んだ詩。

20才で、藩校・時習館(藪 弧山が学長)に
入ったとき、五言詩を50扁作った。
京都では公卿である滋野井公麗(きんかず)
師事し、国学や和歌も学んだ。
苗字帯刀を許され、子弟の育成に努めた。

            

赤馬関 : 今の山口県下関のこと。馬関(ばかん)ともいう。
   平家滅亡の地。平仄の関係で、間を馬にしている。
長 風 : 遠くから吹いてくる風のこと。
一 帆 : 一隻の舟。
碧 海 : 青い海。、
三十六灘 : 三十六は実数ではなく、東山三十六峰・
   三十六歌仙のように数の多い形容。
鎮 西 : 九州。元明天皇(43代・奈良時代初期)の
   和銅14年12月、筑紫に鎮西府を置き、
   九州諸国を鎮護せしめた
       ・・・とのことです。






    【 日本の絶句 】
   細井平洲 の 『親を夢む』






細井平洲 の 『親を夢む』

日本の絶句
07 /24 2017
絶句編テキスト

2017年7月24日 絶句編 41ページ  

    親を 夢む    細井 平洲 
 芳草 萋々として 日々 新たなり 
 人を 動かして 帰思 春に 勝えず
 郷関 此を 去る 三千里 
 昨夢 高堂 老親に 謁す
   
     おやを ゆめむ   ほそい へいしゅう
   ほうそう せいせいとして にちにち あらたなり
   ひとを うごかして きし はるに たえず
   きょうかん ここを さる さんぜんり
   さくむ こうどう ろうしんに えっす


テキストの通釈によると、
芳しい草が勢いよく伸び、その生長ぶりは
わずか一日でも目を見張るばかりで、
人の心を動かし、家に帰りたい気持がしきりに起って、
こののどかな春の日に、いても立っても居られない。
だが、その故郷はここから遠く、はるかに
隔たっていて、帰ることもできない。
しかし昨夜、夢で家に帰り、年老いた両親に
お目にかかったのである。夢ではあったが、
嬉しいことであった。それとともに
悲しい気持にもなったのである

   ・・・とのことです。

先生のお話によると、
細井 平洲(1728~1801)は、江戸時代中期の儒学者。
平洲は号で、本名は徳民。尾張国(愛知県)
知多半島平洲(ひらしま)村の農家に生まれた。
幼くして学問に励み、16歳のときに京都に遊学する。
故郷に帰って、尾張藩家老の子で、折衷学派の
中西淡淵(たんえん)が名古屋に開いた家塾
叢桂社(そうけいしゃ)のことを知り、入門する。
18才で、中西の薦めにより二年間位、
長崎に行き、中国語(華音・唐音)を学ぶ。
『親を夢む』は、この時に作った。

24才で、江戸へ出て、私塾・嚶鳴館(おうめいかん)を開き、
武士だけでなく、町民や農民にも、学問を広めた。
36才で、上杉治憲(後の鷹山)の師となり、後に
米沢藩主となった治憲を助け藩政を立て直した。
米沢藩の藩校・興譲館(こうじょうかん)は平洲が命名した。
53才で、尾張藩に招かれ、藩校・明倫館の学長になった。
明倫館は、現在の愛知県立明和高校である。
69才で、米沢に出向いた折、鷹山に出迎えられ、
身分制度を超えて旅の疲れをねぎらわれている。
74才、江戸の尾張藩邸で亡くなった。

細井平洲は、【學】【思】【行】の三つがそろって
学んだことになると説いている。
平洲村は、現在、東海市となっていて、
細井平洲は、地元で敬愛されている。

            

芳 草 : におやかな草。多く春の草にいう。
萋 々 : 草の茂ったさま。
郷 関 : ふるさと。くにもと。故郷に同じ。
高 堂 : もとは立派な家の意であるが、
   父母の住居を敬っていったもの
       ・・・とのことです。




    【 日本の絶句 】
   高野蘭亭 の 『月夜三叉口に舟を泛ぶ』






岑参 の 『京に入る使に逢う』

中国の絶句
07 /21 2017
続絶句編 250  
 2017年7月21日 続絶句編 141ページ

  京に 入る 使に 逢う    岑 参
 故園 東に 望めば 路 漫々  
 双袖 竜鐘として 涙 乾かず
 馬上に 相 逢うて 紙筆 無し
 君に 憑って 伝語して 平安を 報ぜん 

   けいに いる つかいに あう
  しん しん
 こえん ひがしに のぞめば みち まんまん
 そうしゅう りゅうしょうとして なみだ かわかず
 ばじょうに あい おうて しひつ なし
 きみに よって でんごして へいあんを ほうぜん


テキストの通釈によると、
東の方、故郷の方角を眺めると、道は
はるばると果てしなく続いている。
それを眺めているうち悲しくなって、両袖に涙が
はらはらとこぼれ落ち、乾くいとまもない。
都に向う使者に逢ったので、書信を託したいが、
馬の上のため紙も筆も用意していない。
そこで、あなたに伝言を頼んで、
せめて無事でいることを伝えよう。


先生のお話によると、
岑参(715~770)は盛唐の詩人。河南省南陽の出身。
曽祖父の岑文本は、唐2代目太宗(良い政治をした)
のもとで宰相を務め、岑家では3人の宰相を出した。

父が早く亡くなり苦労したが、30才で進士に合格した。
岑参は進士に合格しても、平凡な官吏生活を好まず、
35才から安西節度使・高仙之の幕僚として
10余年も西域にあったため、
遺作403首のうち70余首が辺塞詩である。
54才で官を辞して故郷に帰ろうとしたが、
途中で反乱軍に阻まれて成都にとどまり、
そのまま、56才で成都で亡くなる。

     ◆  ◆  ◆

故 園 : 家族のいる長安をさす。
漫 々 : 果てしない様子。
竜 鐘 : 老いて疲れ病むさまや失意の形容に
   使われるが、ここでは涙があふれ落ちるさま。
 憑  : 頼む。  = 寄
伝 語 :伝言。ことづけ。  
     ・・・とのことです。
      



  【 中国の絶句 】
 杜甫 の 『八陣の図』 







高野蘭亭 の 『月夜三叉口に舟を泛ぶ』

日本の絶句
07 /17 2017
絶句編テキスト

2017年7月17日 絶句編 40ページ  

    月夜三叉口に舟を泛ぶ    高野 蘭亭 
 三叉 中断す 大江の 秋
 明月 新たに 懸る 万里の 流れ
 碧天に 向って 玉笛を 吹かんと 欲すれば
 浮雲 一片 扁舟に 落つ
   
     げつや さんさこうに ふねを うかぶ   たかの らんてい
   さんさ ちゅうだんす たいこうの あき
   めいげつ あらたに かかる ばんりの ながれ
   へきてんに むかって ぎょくてきを ふかんと ほっすれば
   ふうん いっぺん へんしゅうに おつ


テキストの通釈によると、
隅田川の河口に近く、中洲が川を分ち 今戸川も
落ち込むこの三叉のあたりには、秋の気配が濃い。
明るい月影は真新しく天にかかって、
万里の流れが遥々と見渡される。
興に乗じて、青々と澄んだ空に向かって
手慣れた笛を吹こうとすると、
天上から一ひら浮雲が、わが乗る小舟を
迎えるかのように漂ってきたのである。


先生のお話によると、
高野 蘭亭(1704~1757)は、江戸時代中期の盲目の儒学者。
幼い時に読書を始め、15才で荻生徂徠の弟子になり、
17才で盲人になる。
病弱なのに読書により目を酷使し過ぎたためと考えられる。
父の死後、家業は立ち行かなくなったが、
詩人としての名声は高まり続けた。
鎌倉に住んでいたこともあったが、51才で重い病にかかり、
萱場町の自宅において、54才で亡くなった。
蘭亭は、約一万首の詩を作ったが、死ぬ直前に
大量の原稿を焼き、名を遺そうとしなかったが、
後年、門人によって『蘭亭先生詩集』が刊行された。

            

三 叉 口 : 三叉。隅田川下流の清洲橋付近の俗称。
   中洲があり、今戸川が落ち合い、水流が三つに
   分れていた。観月の名所であった。
中 断 : 中を断ち切る。≪中分≫とすべきところを≪中断≫とした。
玉 笛 : 美しい笛。玉は美称。

◆ 墨水三絶
 早に深川を発す     平野 金華
 夜墨水を下る      服部 南郭
 月夜三叉口に舟を泛ぶ  高野 蘭亭  
   ※ 三人共、荻生徂徠の門弟である
    ・・・ということです。




    【 日本の絶句 】
   服部南郭 の 『夜墨水を下る』






 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?