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草場佩川 の 『山行同志に示す』

日本の絶句
09 /29 2017
絶句編テキスト

2017年9月29日 絶句編 50ページ  

   山行 同志に 示す    草場 佩川 
 路は 羊腸に 入って 石苔 滑かなり 
 風は 鞋底より 雲を 掃うて 廻る
 山に 登るは 恰も 書生の 業に 似たり
 一歩 歩 高うして 光景 開く
   
 さんこう どうしに しめす   くさば はいせん

みちは ようちょうに いって せきたい なめらかなり
かぜは あいていより くもを はろうて めぐる
やまに のぼるは あたかも しょせいの ぎょうに にたり
いっぽ ほ たこうして こうけい ひらく


テキストの通釈によると、
山頂に通ずる路が、まるで羊の腸のように
曲りくねった所になると、日の差さぬ石には
苔がむして足も滑り易く、風は草鞋で歩む足の
下の方から、雲を吹き払いながら旋回して行く。
こうして苦労しながら山に登るのは、例えてみれば、
まったく学生の勉強のようなものであって、一歩一歩
高まるごとに、眼界が遠く広くなることである。

   ・・・とのことです。

先生のお話によると、
羊 腸 : 羊の腸のように山路の屈曲したさま。
   九折(つづらおり)
鞋 底 :草鞋(わらじ)の底。足元。
書生業 : 学生の勉学。
光 景 : 景色。

★草場佩川(1787~1867)は、江戸時代末期の儒学者。
肥前の国・佐賀藩多久町出身。名は韡(さかえ)。
父は佐賀藩の重臣であったが早くに亡くなる。
母に和歌を習い、8才で東原庠舎(とうげんしょうしゃ)に入門。

18才の時に、邑主((領主)多久茂鄰(しげちか)の
命によって、佐賀藩校弘道館に入る。23才の時に、
多久茂鄰に従って江戸に出て、古賀精里に学んだ。
24才の時に、佐賀に戻って、多久家の儒官となり、
東原庠舎で教えた。
48才の時に、佐賀藩弘道館教諭となった。
昌平黌教授として招聘を受けたが、辞退し、
73才で、弘道館教授に就任。享年81。

佩川が教諭・教授を務めた弘道館からは
大隈重信、副島種臣、大木喬任、
江藤新平らが輩出している。

射、馬、剣、槍、などの術、文人画・漢詩にも優れ、
生涯における作品数は15000にも及ぶ。
これは、日記を書くのに詩を持ってした為で、
天災地変・年中行事・官界や世間に於ける
出来事などが詩題となっている
        ・・・ とのことです。




    【 日本の絶句 】
   頼 山陽 の 『楠公子に訣るるの図に題す』






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頼 山陽 の 『楠公子に訣るるの図に題す』

日本の絶句
09 /29 2017
絶句編テキスト

2017年9月29日 絶句編 49ページ  

   楠公 子に訣るるの 図に題す    頼 山陽 
 海甸の 陰風 草木 腥し 
 史編 特筆 姓名 馨し
 一腔の 熱血 余瀝を 存し
 児曹に 分与して 賊庭に 灑がしむ
   
 なんこう こにわかるるの ずにだいす   らい さんよう

かいでんの いんぷう そうもく なまぐさし
しへん とくひつ せいめい かんばし
いっこうの ねっけつ よれきを そんし
じそうに ぶんよして ぞくていに そそがしむ


テキストの通釈によると、
兵庫・湊川一帯の戦場には、殺気を含んだ風が
すさまじく吹き荒れ、草木までが血に染まってなまぐさい。
この血で戦死を遂げた正成公に対しては、
歴史の書物(日本外史)が特別に重く扱っており、
その名は後々の世までも芳しく香っているのである。
まことに公の身中に満ち溢れる熱血は、おのれ
ひとりのみならず、その余りの滴りを残して、
子孫に分け与え、子孫をして他日、賊軍と戦って
壮絶な死を遂げさせたのであって、
その忠誠の情は深く人を感動せしめる

   ・・・とのことです。

先生のお話によると、
海 甸 : 海に接した地方。ここでは摂津の兵庫・
   湊川の海岸をいい、今の神戸市一帯の地。
   『甸』は、天子の居城から500里までの区域。   
陰 風 : 陰気な風。曇りの日に吹くすさまじい風。
   殺気をおびた風。
一 腔 : 腹の中いっぱい。満腹に同じ
余 瀝 : 『瀝』は、しずく。
児 曹 : こどもたち。児輩に同じ。
灑賊庭 : 『賊庭』は、賊の陣中。『灑』は、血をそそぐ。
   正行(まさつら)が、四条畷(なわて)で、
   足利軍との戦いに敗れて、自害したのをいう。

★楠木正成は、足利尊氏、新田義貞らと鎌倉幕府を倒した。
政治の中心となった後醍醐天皇は、武士の功績を十分に
認めなかったため、足利尊氏が天皇から離れていった。
楠木正成と新田義貞は、後醍醐天皇の命を受けて、
足利尊氏と戦うことになったが、苦戦をし、敗れる。
楠木正成は、後醍醐天皇に、京都に留まって戦うことを
提案したが受け入れられず、後醍醐天皇は吉野に逃げて、
足利尊氏が京都に光明天皇を立てたため、これ以降
60年間余の南北朝時代が始まった
        ・・・ とのことです。




    【 日本の絶句 】
   頼 山陽 の 『舟大垣を発し桑名に赴く』






頼 山陽 の 『舟大垣を発し桑名に赴く』

日本の絶句
09 /25 2017
絶句編テキスト

2017年9月25日 絶句編 48ページ  

   舟 大垣を発し 桑名に赴く    頼 山陽 
 蘇水 遥々 海に 入って 流る 
 櫓声 雁語 郷愁を 帯ぶ
 独り 天涯に 在って 年 暮れんと 欲す
 一篷の 風雪 濃州を 下る
   
 ふね おおがきをはっし くわなにおもむく   らい さんよう

そすい ようよう うみに いって ながる
ろせい がんご きょうしゅうを おぶ
ひとり てんがいに あって とし くれんと ほっす
いっぽうの ふうせつ のうしゅうを くだる


テキストの通釈によると、
見渡せば、木曽の大川は、はるかに遠く
海にまで流れ込んでいる。この風景の中を
自分は今、舟で下りつつあるが、時折
きしる櫓の音や、頭上を渡る雁の声が、
愁いを帯びて故郷を思い出させる。
今ひとり故郷を遠く離れたこの土地にあって、
今年もまた暮れようとしている。自分は
寂しい気持ちになって、降りしきる風雪の中を、
一隻の小舟に乗って濃州を下ってゆくのである

   ・・・とのことです。

先生のお話によると、
蘇 水 : 木曽川のこと。木曽川は岐蘇川とも書くので、
   中国風に『蘇水』という。   
櫓 声 : 櫓をこぐ音。
雁 語 : 雁の鳴く声。
天 涯 : きわめて遠い所。
   故郷を遠く離れた他国。
一 篷 : 一隻の船。『篷』は、竹や菅(すげ)・茅などを荒く編んで
   船、または車の上を覆うもの。転じて船の意。
濃 州 : 美濃の国。

頼 山陽(1781~1832)は34才の秋、父との関係修復に
尽力してくれた 菅 茶山に謝意を表わすため出発したが、
心のしこりが残っていたため、茶山の所に行くのを止め、
突然、気分転換のため、美濃・遠江・尾張・伊勢方面に
旅立った。そして、傷心した気持ちで、大垣から桑名に
船で向かった。菅 茶山が間を取り持ってくれて、山陽が
父に許された翌年、岐阜の大垣から、三重の桑名に
向かって下って行く、その時に作った詩である
        ・・・ とのことです。




    【 日本の絶句 】
   頼 山陽 の 『不識庵機山を撃つの図に題す』






頼 山陽 の 『不識庵機山を撃つの図に題す』

日本の絶句
09 /25 2017
絶句編テキスト

2017年9月25日 絶句編 47ページ  

   不識庵機山を撃つの図に題す    頼 山陽 
 鞭声 粛々 夜 河を 過る 
 暁に 見る 千兵の 大牙を 擁するを
 遺恨 十年 一剣を 磨き
 流星 光底 長蛇を 逸す
   
 ふしきあんきざんをうつのずにだいす   らい さんよう

べんせい しゅくしゅく よる かわを わたる
あかつきに みる せんぺいの たいがを ようするを
いこん じゅうねん いっけんを みがき
りゅうせい こうてい ちょうだを いっす


テキストの通釈によると、
(上杉謙信の軍は)ひっそりと鞭音も立てないようにして、
夜のうちに犀川を渡って(川中島の敵陣に)攻め寄せた。
(武田方は)明け方(霧の晴れ間に、上杉方の)大軍が
大将の旗を中心に守りながら迫ってくるのを見つけた。
この十年の間、一振りの剣を研ぎ磨いて(その機会を
待ったのであるが)、うちおろす刀光一閃の下に、
ついに強敵、信玄を取り逃がしたのは
無念至極なことであった。
(この戦いで、謙信は信玄を討ち取ることは
出来なかったが、その心中を察すると、
まことに同情にたえない。)

   ・・・とのことです。

先生のお話によると、
不識庵 : 上杉謙信(越後)の法号。本名は影虎。   
機  山 : 武田信玄(甲斐)の法号。本名は晴信。
図 題 : 両雄一騎打ちの劇的場面を描いたものの絵画的題材。
鞭 声 : 馬を打つ鞭の音。
粛 々 : 静かなさま。
暁 見 : 武田方が明けがた見たもの。
大 牙 : 大将の旗。象牙を使った。
 擁  : 守る。   
十 年 : 天文20年、村上義清を助け、謙信が初めて
   信玄と兵を交えてからおよそ十年。
   村上義清は北信濃の戦国大名・葛尾城主。
   信玄に攻められ、影虎を頼って越後に逃げた。   
一剣磨 : 長い年月の間、剣を磨きその機を待っていた。
流 星 : 剣光のきらめくさま。
光 底 : 斬りつけた剣の光の下。
長 蛇 : 信玄に例えた。

★川中島は、長野盆地の南、犀川と千曲川の合流地点。
いくつかの小河川も流れ込み、洪水により堆積された
土壌は肥沃で、米収穫高は当時の越後全土を上回り、
二毛作による麦の収穫もあった。鮭や鱒の溯上も多く、
経済的な価値が高かった。また、交通の要衝地で、
戦略上、武田・上杉、共に重要な地であった。
★川中島の戦いは、12年余りに及ぶ。
川中島で戦闘が行われたのは、第二次の
犀川の戦いと第四次である。いちばん激しく戦った
第四次合戦を、「川中島の戦い」ということもある。
★第四次合戦では、謙信は妻丈山(さいじょうやま)、
信玄は八幡原神社に陣を張り、激戦となった。
謙信側は、1万3000余兵、3000人の死傷。
信玄側は、2万余の兵、4000人の死傷と言われる。
★馬に乗った謙信が、信玄を打った時、信玄は鉄扇で
受け払ったが、近くにいた信玄の側近・原 大隅が槍で
謙信の馬を突いたため、信玄が助かったと言われる。

     ◆  ◆  ◆

頼 山陽(1781~1832)は、江戸時代後期の歴史家であり、
思想家、漢詩人でもある。主著に、『日本外史』がある。

大阪で生まれたが、1才の時、父親の 頼春水が
広島藩の学問所創設にあたり、登用されたため転居。
山陽は、広島藩学問所に入学したが、春水が江戸に
呼ばれたため、叔父の 頼 杏坪に学んだ。
18才で叔父・杏坪に従って江戸に出て、昌平校に学ぶ。

帰国後、妻を娶り、一子を授かったが家を出てしまう。
脱藩をして上洛したが、叔父の杏坪によって発見され、
広島へ連れ戻され、自宅に3年間、幽閉される。この間
山陽は学問に専念することになり、著述に明け暮れた。
『日本外史』の初稿が完成したのもこの時期といわれる。

謹慎を解かれたのち、広島藩学問所の助教に就任。
父の友人であった儒学者の菅茶山よって招かれ、
廉塾の都講(塾頭)に就任したが、32才、京都へ出奔。
洛中に塾を開き、2回目の結婚をして、2子を授かる。
鴨川の近く、東山を眺望できる 「水西荘」に居を構え、
著述等を続け、『日本外史』も完成させた。53才にて没。
      ・・・とのことです。





    【 日本の絶句 】
   良寛 の 『 半 夜 』






王 建 の 『中秋月を望む』

中国の絶句
09 /22 2017
続絶句編 250  
 2017年9月22日 続絶句編 150ページ

  中秋 月を 望む   王 建
 中庭 地 白くして 樹に 鴉 栖む
 冷露 声 無く 桂花を 湿す
 今夜 月明 人 尽く 望む 
 知らず 秋思の 誰が 家にか 在るを


 ちゅうしゅう つきを のぞむ  おう けん
ちゅうてい ち しろくして きに からす すむ
れいろ こえ なく けいかを うるおす
こんや げつめい ひと ことごとく のぞむ
しらず しゅうしの たが いえにか あるを

◆テキストの通釈によると、
中庭の地面は、月光を受けて白く、
樹上では烏がねぐらに就いている。
冷やかな露がいつの間にか結んで、
木犀の花を潤している。
今夜の中秋の名月の光りを、人は
誰しも眺めているだろうが、その中で、
秋の物思いに耽る人は誰だろうか。
  (友への慕情をしみじみとあらわしている)

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
王 建は、中唐の詩人。生没年は不詳であるが、
795年頃、進士に合格している。
韓 愈(かんゆ・768~ 824)の門下生で、
『秋思』の張 籍 と 同門であり、
楽府の歌曲を作るのが得意であった。
宮中の女性と生活をえがいた宮詞も作っている。
韓 愈・張 籍らと古文復興運動にも関わっていた。
『王建詩集』10巻を残している。

     ◆  ◆  ◆

中 秋 : 陰暦8月。秋の中ごろ。
 栖  : 住む。棲むと同じ。
冷 露 : 冷やかな露。
桂 花 : 木犀の花。月の世界に桂の木が生えている
   という伝説があるので、月の縁語になっている。
秋 思 : 秋の物思い。

★ 『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』 巻一 には、
  月中には 桂樹 が 生えていて、
  蝦蟇蛙が棲んでいると書かれている
         ・・・とのことです。    





  【 中国の絶句 】
 柳 宗元 の 『 江 雪 』







 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?