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菊池 渓琴 の 『三樹の酒亭に遊ぶ』

日本の絶句
11 /30 2017
絶句編テキスト

2017年11月30日 絶句編 57ページ  

   三樹の 酒亭に 遊ぶ    菊池 渓琴 
 烟り 濃やかに 山 淡くして 晴沙に 映ず
 日 落ちて 春楼 細雨 斜なり
 朦朧たり 三十六峰の 寺
 箇々の 鐘声 緩やかに 花を 出ず
   
 さんじゅの しゅていに あそぶ/strong>   きくち けいきん
けむり こまやかに やま あわくして せいさに えいず
ひ おちて しゅんろうに さいう ななめなり
もうろうたり さんじゅうろっぽうの てら
ここの しょうせい ゆるやかに はなを いず


テキストの通釈によると、
春の一日、心通う友達とうち連れて、
鴨川のほとり三本木の酒楼に上れば、
靄が濃く立ち込めてきて、山色が淡く薄れ、
晴天の川砂の明るさとの対象が美しい。
やがて日が沈むと楼外は小雨となり、細かい雨足が
斜めに降り、わずかに風が吹いているようだ。
おぼろに霞む東山三十六峰の寺々から、
晩鐘の音が一つ一つ、ゆるやかに
花の雲の間から洩れ聞こえてくるのである

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、

菊池 渓琴(1799~1881)は、幕末から明治にかけての漢詩人。
紀伊栖原(和歌山県有田郡湯浅町)の代々の
豪農・豪商の家に生れ、兄が仏門に入ったので、
13才のとき、父に連れられて江戸に出て、
家業の砂糖・薬問屋を継ぎ、大窪詩仏に学んだ。

1836年、 天保の飢饉のときには私財を投じ、
坂の改善や、港の修復など、失業対策事業で窮民を救済する。

           

三樹酒亭 : 京都鴨川のほとりの三本木の料理屋。
晴 沙 : 晴天の河原の砂。    
朦 朧 : ぼんやりとして、はっきりしないこと。
三十六峰 : 京都東山。

★ この詩の正式な題は、
『三樹の酒亭にて摩島子毅と同じく賦す」である。
 ※ 摩島子毅 (ましましき・号は松南、摂津の人)

★ 50才以降の作であろうと言われているこの句は
・起承転結の運びにより、時間の推移による 
 景色の変化を見せている。
・起句は、淡彩の山と日ざしの明るい川原を
 対映させており、
 承句では、いつしか日も暮れて降り出す小雨、
 転句では、その雨にけぶる三十六峰のあちこちの寺、
 それを受けて結句では、花の雲間からゆるやかに
 鳴り出でる寺々の鐘の音に耳を澄ます
 という光景をよく詠じている
         ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   菊池 渓琴 の 『 河 内 路 上 』






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菊池 渓琴 の 『 河 内 路 上 』

日本の絶句
11 /27 2017
絶句編テキスト

2017年11月27日 絶句編 56ページ  

   河 内 路 上    菊池 渓琴 
 南朝の 古木 寒霏に 鎖さる
 六百の 春秋 一夢 非なり
 幾度か 天に 問えども 天 答えず
 金剛山下 暮雲 帰る
   
 かわち ろじょう/strong>   きくち けいきん
なんちょうの こぼく かんぴに とざさる
ろっぴゃくの しゅんじゅう いちむ ひなり
いくたびか てんに とえども てん こたえず
こんごうさんか ぼうん かえる


テキストの通釈によると、
南朝時代からの老木は、あたりに立ち込めた
冷たいもやに包まれて、さびしく立ち並んでいる。
思えば楠公の事蹟も六百年たった今となっては、
むなしい一場の夢と化した。このことを、いくたびか
天に向って尋ねてみたが、天の答えるはずもなく、
ただ金剛山の麓に夕暮れの雲が寂しく
帰って行くのを見るばかりである

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
菊池 渓琴(1799~1881)は、幕末から明治にかけての漢詩人。
本姓は垣内安定であるが、南朝の重臣・菊池武光の子孫
(足利尊氏が京都に上るとき戦って敗れた)のため、菊池とした。
他の号に、海荘などもある。武術(槍や剣)にも励んだ。

紀伊栖原(和歌山県有田郡湯浅町)の代々の
豪農・豪商の家に生れ、兄が仏門に入ったので、
13才のとき、父に連れられて江戸に出て、
家業の砂糖・薬問屋を継ぎ、大窪詩仏に学んだ。

1836年、 天保の飢饉のときには私財を投じ、
坂の改善や、港の修復など、失業対策事業で窮民を救済する。
大坂の飢饉では、大塩平八郎とともに、
救済策を建議したが要れられず有田の故郷に帰る。

1869(明治2)年、有田・日高2郡の文武総裁となり、農兵を組織。
有田郡民生局副知事。郷学所を創り養蚕・製茶に貢献した。
辞職後、東京に移り、渡辺崋山、佐久間象山、大塩平八郎らと
親交を結び、国内、世界の情勢に通じていた。

           

河内 路上 : 河内(大阪府)の金剛山の麓に楠氏の遺跡を
     訪ね、往時を追懐したので、このように題した。
南朝古木 : 実景を詠じたものであるが、後醍醐天皇が
     笠置(かさぎ)山で『南木(なぎ)』(楠)の夢(南北夢)を見て、
     正成の挙兵を予知された故事にかけている。 南朝→吉野山    
寒 霏 : 冷たいもや、あるいは寂しいもや。
六百晴秋 : 六百年。一年を春と秋によって代表させる。
     後醍醐天皇の笠置行幸(1331年8月27日)から、
     この詩の作られた時までの五百余年たっており、
     概数をあげたのである。
一夢非 : 一場の夢。世の中が全く変ってしまって、
     当時のことは夢のように思われる。
問 天 : 屈原の楚辞『天問』編をひびかせている。
     『天問』では、屈原が続けさまに心に満ちた憤りを
     のべて、その疑問を天に問うている。
金剛山 : 奈良県と大阪府の境を南北に連なる
     山脈の主峰(標高1,125m)。山腹に正成の築いた  
     千早・赤坂・国見などの城址がある。

  ★ 屈原(くつげん、紀元前343~紀元前278)は、
    中国戦国時代の楚の政治家であり、
    春秋戦国時代を代表する詩人としても有名。
    秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする
    懐王を必死で諫めたが受け入れられず、
    楚の将来に絶望して入水自殺した 
          ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   安積 艮斎 の 『 春初感を書す 』






安積 艮斎 の 『 春初感を書す 』

日本の絶句
11 /27 2017
絶句編テキスト

2017年11月27日 絶句編 55ページ  

   春初 感を 書す    安積 艮斎 
 野梅 渓柳 心と 違い
 強いて 朝衣を 把って 布衣に 換う
 銀燭 影 微かにして 春宴 散じ
 満城の 風雪 夜 深うして 帰る
   
 しゅんしょ かんを しょす   あさか ごんさい
やばい けいりゅう こころと たがい
しいて ちょういを とって ふいに こう
ぎんしょく かげ かすかにして しゅんえんに さんじ
まんじょうの ふうせつ よる ふこうして かえる


テキストの通釈によると、
野に咲く梅や、谷に枝垂れる柳を、気ままに
めでるとといった肩のこらない民間の生活を
終生楽しむつもりでいたのに、官命もだしがたく、
これまでの布衣を官服にかえ、出でて仕える身となった。
(これまったくわが平生の志とは異なるものである)
まことに官界とは窮屈なもので、殿上の明るく輝く
銀燭の灯も薄れ、恒例の春の宴も散じ、
城下の街に風雪の舞う中を、夜更けて
帰路につくとは、さてさて因果なことである

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
安積 艮斎(1791~1861)は、江戸時代末期の儒学者。
『安積』は地名で、『艮斎』は号、本名は、安藤重信。
父は、二本松藩にある安積国造(あさかくにつこ)神社の
55代宮司で、旧家の生まれの三男である。

17才で江戸に出て佐藤一斎、林述斎らに学ぶ。
24才、神田駿河台に私塾≪見山楼≫を開く。
53才、二本松藩校≪敬学館≫の教授
60才、昌平黌教授となり、やむなく?江戸に出て、
70才で亡くなる。

★ この詩は、晩年、故郷を離れて江戸の昌平黌教授
  となった時代に作られた。

朝 衣 : 朝廷で着る衣服。官吏の制服。
     幕府の役人の着る服。
布 衣 : 綿布でこしらえた着物。官位のないものが着る。
     ふだん着、平服。
銀 燭 : 銀の燭台に点した灯火。また明るい灯火。
春 宴 : 春または正月の宴会
          ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   梁川星巌 の 『常盤孤を抱くの図に題す』






汪 遵 の 『 長 城 』

中国の絶句
11 /24 2017
続絶句編 250  
 2017年11月24日 続絶句編 157ページ

  長 城   汪 遵
 秦 長城を 築いて 鉄牢に 比す
 蕃戎 敢えて 臨洮に 逼らず
 焉くんぞ 知らん 万里 連雲の 勢
 及ばず 堯階 三尺の 高きに


 ちょうじょう     おう じゅん
しん ちょうじょうを きずいて てつろうに ひす
ばんじゅう あえて りんとうに せまらず
いずくんぞ しらん ばんり れんうんの いきおい
およばず ぎょうかい さんじゃくの たかきに

◆テキストの通釈によると、
秦の始皇帝が築きあげた万里の長城は、
鉄の牢獄に比べるほど堅かった。そのため
辺境の匈奴族も、臨洮には近づかなかった。
だが、万里も連なって、雲に接するほどの
勢いの長城も、あの聖王尭の宮殿の階段の
三尺の高さに及ばないとは、誰が知ろう。

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
汪 遵は、生没年不明、晩唐の詩人。
安徽省に生まれ、866年、進士に合格。
苦学して、博学多才の人となった。

秦の始皇帝のやり方を批判している → 詠史
晩唐の政治をも批判している  諷世 → 風刺

         

長 城 : 万里の長城。秦(紀元前221)の始皇帝が
   蛮族の侵入を防ぐために築いたもの。
      →無駄なお金を使って人民を苦しめた。
鉄 牢 : 鉄製の牢屋。堅固な牢屋。
蕃 戎 : 野蛮な異民族。ここでは匈奴をさす。
臨 洮 : 現在の甘粛省岷(びん)県。
   秦の長城は、西の起点がこの臨洮であった。
連雲勢 : 万里の長城は、ものすごく高く
   大きく、雲に連なるような勢い。
堯階三尺 : 帝尭の宮殿のきざはし(階)は、三尺しかなかった、
   質素なこと。帝尭は、平和な時代を築いた。
   きざはしは、土の階段であった。
   力の政治ではいけない、徳をもって政治を
   しなければならないことをこの詩で詠っている。

★現在の「長城」は、
   東は、河北省山海関(さんかいかん)から
   西は、甘粛省嘉峪関(かよくかん)まで
   8852km(世界遺産登録時) ・・・ とのことです。    




  【 中国の絶句 】
 高 駢 の 『 山亭夏日 』







高 駢 の 『 山亭夏日 』

中国の絶句
11 /17 2017
続絶句編 250  
 2017年11月17日 続絶句編 156ページ

  山亭夏日   高 駢
 緑樹 陰 濃かにして 夏日 長し
 楼台 影を 倒まにして 池塘に 入る
 水晶の 簾 動いて 微風 起こる
 一架の 薔薇 満院 香し


 さんてい かじつ     こう べん
りょくじゅ かげ こまやかにして かじつ ながし
ろうだい かげを さかしまにして ちとうに いる
すいしょうの れん うごいて びふう おこる
いっかの しょうび まんいん かんばし

◆テキストの通釈によると、
緑の木々が濃い木陰をつくり、
照り映える夏の日はひときわ長い。
水際の高殿が澄みきった池の水面に
さかさまに映っている。美しい水晶のすだれが
かすかに揺れて、そよ風が吹きはじめ、
棚いっぱいのバラの花の香りが、
庭の隅々にまで漂っている

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
高 駢(821~887))は、晩唐の武人・詩人。
河北省・北京(当時は幽州)の武門の
ほまれ高い家に生まれ、弓の名手でもあった。
安南(ベトナム) 渤海郡王となる。
唐が滅びるにいたった黄巣の乱をめぐって
野心をめぐらすが、それが疑われ、
実権を奪われ、殺されてしまった。

この詩は、晩唐の時代には珍しく夏の詩であり、
  目で見る涼しさ
  耳で聴く涼しさ
  香りで感じる涼しさ、を表現している
 
         

山 亭 : 山の別荘。山荘。
 濃  : 輪郭がくっきりとして色の濃いこと。
楼 台 : 高殿。
水晶簾 : 水晶の飾りのある立派なすだれ。
池 塘 : 池。
一 架 : 棚いっぱいの。
薔 薇 : バラ。荊棘。
満 院 : 『院』は中庭。中庭いっぱいに
            ・・・とのことです。    


また、こちら に よると、
高駢は・・・学問に優れていたばかりでなく、武芸にも秀でていたという。しかし、唐の末期という衰亡と混乱の時代が不運だったのか、志を得ないまま、部下によって謀殺された。
そんな詩人の悲運を、この詩から窺う由もない。ここはただ、山荘で夏を過ごす作者が、暑さのなかの涼感をどのように描写したかという文学の妙を味わえばよいだろう。
木々の梢が緑の色を一層濃くしているとは、それだけ夏の日差しが強く、長いから、ということになる。視覚的情景だけを描写して、その要因は何かを読者に想像させるところがいい。
第3句目の「簾がかすかに動いて、そよ風が吹いた」という表現も、なかなか心にくい。順序にしたがえば、風が吹いて簾が動く、というべきところであろう。しかし私たちの経験上、風鈴の涼やかな音を聞いて、その後に「風」を感じることもあるのではないか。水晶の玉飾りがついた簾ならば、視覚だけでなく、聴覚的な涼感も期待できる。
そして結句では、その風が運んでくるバラの芳香が中庭いっぱいに満ちるというように、嗅覚にあずけて詩の余韻を残す。漢詩が、こまやかな物語も描けることの好例であろう
   ・・・とのことです。





  【 中国の絶句 】
 趙 嘏 の 『江楼にて感を書す』







 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?