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坂井虎山 の 『 泉岳寺 』

日本の絶句
11 /30 2017
絶句編テキスト
2017年11月30日 絶句編 58ページ  

   泉岳寺    坂井虎山 
 山嶽 崩すべし 海 翻えすべし
 消せず 四十七臣の 魂
 墳前 満地 草苔 湿う
 尽く 是れ 行人 流涕の 痕
   
 せんがくじ/strong>   さかい こざん
さんがく くずすべし うみ ひるがえすべし
しょうせず しじゅうしちしんの たましい
ふんぜん まんち そうたい うるおう
ことごとく これ こうじん りゅうていの あと


テキストの通釈によると、
世には転変地異というものがあり、
不動不変と思っている山さえ崩れることもあり得るし、
果てしなく広々した海でもひっくり返ることもあり得る。
だが、四十七士の魂は永久に消滅することはないのである。
今この墓前にぬかずけば、地上一面に草や苔がしっとりと湿っている。
これこそは墓参の人々が、義士のために流した涙の跡なのである

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、

坂井虎山(1798~1850)は、江戸時代末期の儒学者。
名は華、通称は百太郎。
祖父の代から、安芸国広島藩儒の家柄であった。
幼い頃から広島藩校学問所(現修道中学校・修道高校)で
父の同僚であった頼春水に学び、春水亡きあと、
1825年に28才で藩校学問所教授となる。

32才の春、京都に戻っていた頼山陽を訪ねて、
弟子となる。山陽の亡き後、江戸に出て、
藩邸に滞在中、この詩を作った。その後、
江戸から帰国し、広島にて家塾《百千堂》を
開き多くの門人が集った。53才で亡くなる。

虎山の文章は、当時流行した宋詩とは異なり、
個性や感覚を強調しない古典的なものとされる。

虎山が生まれた時、広島に戻っていた頼山陽が
父の積(東派)を家に見舞い、赤ん坊の様子を見て
将来必ず「英物」となるだろうと予言した、という。


泉岳寺 : 港区芝高輪の名刹であるが、四十七士の
   墓があることにより、一層有名になった。
四十七臣 : 大石良雄以下四十七士。    
満 地 : 地上一面。
行 人 : 往来する人。
   ここでは参詣(さんけい)する人のこと。
流 涕 : 流した涙。

           

★ 泉岳寺は、青松寺・総泉寺とともに
  曹洞宗・ 江戸三箇寺の1つで、山号は萬松山。
  徳川家康が創建した寺で、寛永の大火で焼失したが、
  徳川家光の命で、現在の高輪の地で再建された。

  赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られている。
  長矩の正室、実弟の浅野長広(大学)ら墓所もあり、
  赤穂浅野家の江戸表における菩提寺ともなっている。

  境内には学寮があり、吉祥寺、青松寺の学寮と統合し、
  駒澤大学になったが、現在でも僧侶は境内の学寮で
  共同生活を行いながら大学に通学している
         ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   菊池 渓琴 の 『三樹の酒亭に遊ぶ』






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菊池 渓琴 の 『三樹の酒亭に遊ぶ』

日本の絶句
11 /30 2017
絶句編テキスト

2017年11月30日 絶句編 57ページ  

   三樹の 酒亭に 遊ぶ    菊池 渓琴 
 烟り 濃やかに 山 淡くして 晴沙に 映ず
 日 落ちて 春楼 細雨 斜なり
 朦朧たり 三十六峰の 寺
 箇々の 鐘声 緩やかに 花を 出ず
   
 さんじゅの しゅていに あそぶ/strong>   きくち けいきん
けむり こまやかに やま あわくして せいさに えいず
ひ おちて しゅんろうに さいう ななめなり
もうろうたり さんじゅうろっぽうの てら
ここの しょうせい ゆるやかに はなを いず


テキストの通釈によると、
春の一日、心通う友達とうち連れて、
鴨川のほとり三本木の酒楼に上れば、
靄が濃く立ち込めてきて、山色が淡く薄れ、
晴天の川砂の明るさとの対象が美しい。
やがて日が沈むと楼外は小雨となり、細かい雨足が
斜めに降り、わずかに風が吹いているようだ。
おぼろに霞む東山三十六峰の寺々から、
晩鐘の音が一つ一つ、ゆるやかに
花の雲の間から洩れ聞こえてくるのである

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、

菊池 渓琴(1799~1881)は、幕末から明治にかけての漢詩人。
紀伊栖原(和歌山県有田郡湯浅町)の代々の
豪農・豪商の家に生れ、兄が仏門に入ったので、
13才のとき、父に連れられて江戸に出て、
家業の砂糖・薬問屋を継ぎ、大窪詩仏に学んだ。

1836年、 天保の飢饉のときには私財を投じ、
坂の改善や、港の修復など、失業対策事業で窮民を救済する。

           

三樹酒亭 : 京都鴨川のほとりの三本木の料理屋。
晴 沙 : 晴天の河原の砂。    
朦 朧 : ぼんやりとして、はっきりしないこと。
三十六峰 : 京都東山。

★ この詩の正式な題は、
『三樹の酒亭にて摩島子毅と同じく賦す」である。
 ※ 摩島子毅 (ましましき・号は松南、摂津の人)

★ 50才以降の作であろうと言われているこの句は
・起承転結の運びにより、時間の推移による 
 景色の変化を見せている。
・起句は、淡彩の山と日ざしの明るい川原を
 対映させており、
 承句では、いつしか日も暮れて降り出す小雨、
 転句では、その雨にけぶる三十六峰のあちこちの寺、
 それを受けて結句では、花の雲間からゆるやかに
 鳴り出でる寺々の鐘の音に耳を澄ます
 という光景をよく詠じている
         ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   菊池 渓琴 の 『 河 内 路 上 』






菊池 渓琴 の 『 河 内 路 上 』

日本の絶句
11 /27 2017
絶句編テキスト

2017年11月27日 絶句編 56ページ  

   河 内 路 上    菊池 渓琴 
 南朝の 古木 寒霏に 鎖さる
 六百の 春秋 一夢 非なり
 幾度か 天に 問えども 天 答えず
 金剛山下 暮雲 帰る
   
 かわち ろじょう/strong>   きくち けいきん
なんちょうの こぼく かんぴに とざさる
ろっぴゃくの しゅんじゅう いちむ ひなり
いくたびか てんに とえども てん こたえず
こんごうさんか ぼうん かえる


テキストの通釈によると、
南朝時代からの老木は、あたりに立ち込めた
冷たいもやに包まれて、さびしく立ち並んでいる。
思えば楠公の事蹟も六百年たった今となっては、
むなしい一場の夢と化した。このことを、いくたびか
天に向って尋ねてみたが、天の答えるはずもなく、
ただ金剛山の麓に夕暮れの雲が寂しく
帰って行くのを見るばかりである

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
菊池 渓琴(1799~1881)は、幕末から明治にかけての漢詩人。
本姓は垣内保定であるが、南朝の重臣・菊池武光の子孫
(足利尊氏が京都に上るとき戦って敗れた)のため、菊池とした。
他の号に、海荘などもある。武術(槍や剣)にも励んだ。

紀伊栖原(和歌山県有田郡湯浅町)の代々の
豪農・豪商の家に生れ、兄が仏門に入ったので、
13才のとき、父に連れられて江戸に出て、
家業の砂糖・薬問屋を継ぎ、大窪詩仏に学んだ。

1836年、 天保の飢饉のときには私財を投じ、
坂の改善や、港の修復など、失業対策事業で窮民を救済する。
大坂の飢饉では、大塩平八郎とともに、
救済策を建議したが要れられず有田の故郷に帰る。

1869(明治2)年、有田・日高2郡の文武総裁となり、農兵を組織。
有田郡民生局副知事。郷学所を創り養蚕・製茶に貢献した。
辞職後、東京に移り、渡辺崋山、佐久間象山、大塩平八郎らと
親交を結び、国内、世界の情勢に通じていた。

           

河内 路上 : 河内(大阪府)の金剛山の麓に楠氏の遺跡を
     訪ね、往時を追懐したので、このように題した。
南朝古木 : 実景を詠じたものであるが、後醍醐天皇が
     笠置(かさぎ)山で『南木(なぎ)』(楠)の夢(南北夢)を見て、
     正成の挙兵を予知された故事にかけている。 南朝→吉野山    
寒 霏 : 冷たいもや、あるいは寂しいもや。
六百晴秋 : 六百年。一年を春と秋によって代表させる。
     後醍醐天皇の笠置行幸(1331年8月27日)から、
     この詩の作られた時までの五百余年たっており、
     概数をあげたのである。
一夢非 : 一場の夢。世の中が全く変ってしまって、
     当時のことは夢のように思われる。
問 天 : 屈原の楚辞『天問』編をひびかせている。
     『天問』では、屈原が続けさまに心に満ちた憤りを
     のべて、その疑問を天に問うている。
金剛山 : 奈良県と大阪府の境を南北に連なる
     山脈の主峰(標高1,125m)。山腹に正成の築いた  
     千早・赤坂・国見などの城址がある。

  ★ 屈原(くつげん、紀元前343~紀元前278)は、
    中国戦国時代の楚の政治家であり、
    春秋戦国時代を代表する詩人としても有名。
    秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする
    懐王を必死で諫めたが受け入れられず、
    楚の将来に絶望して入水自殺した 
          ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   安積 艮斎 の 『 春初感を書す 』






安積 艮斎 の 『 春初感を書す 』

日本の絶句
11 /27 2017
絶句編テキスト

2017年11月27日 絶句編 55ページ  

   春初 感を 書す    安積 艮斎 
 野梅 渓柳 心と 違い
 強いて 朝衣を 把って 布衣に 換う
 銀燭 影 微かにして 春宴 散じ
 満城の 風雪 夜 深うして 帰る
   
 しゅんしょ かんを しょす   あさか ごんさい
やばい けいりゅう こころと たがい
しいて ちょういを とって ふいに こう
ぎんしょく かげ かすかにして しゅんえんに さんじ
まんじょうの ふうせつ よる ふこうして かえる


テキストの通釈によると、
野に咲く梅や、谷に枝垂れる柳を、気ままに
めでるとといった肩のこらない民間の生活を
終生楽しむつもりでいたのに、官命もだしがたく、
これまでの布衣を官服にかえ、出でて仕える身となった。
(これまったくわが平生の志とは異なるものである)
まことに官界とは窮屈なもので、殿上の明るく輝く
銀燭の灯も薄れ、恒例の春の宴も散じ、
城下の街に風雪の舞う中を、夜更けて
帰路につくとは、さてさて因果なことである

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
安積 艮斎(1791~1861)は、江戸時代末期の儒学者。
『安積』は地名で、『艮斎』は号、本名は、安藤重信。
父は、二本松藩にある安積国造(あさかくにつこ)神社の
55代宮司で、旧家の生まれの三男である。

17才で江戸に出て佐藤一斎、林述斎らに学ぶ。
24才、神田駿河台に私塾≪見山楼≫を開く。
53才、二本松藩校≪敬学館≫の教授
60才、昌平黌教授となり、やむなく?江戸に出て、
70才で亡くなる。

★ この詩は、晩年、故郷を離れて江戸の昌平黌教授
  となった時代に作られた。

朝 衣 : 朝廷で着る衣服。官吏の制服。
     幕府の役人の着る服。
布 衣 : 綿布でこしらえた着物。官位のないものが着る。
     ふだん着、平服。
銀 燭 : 銀の燭台に点した灯火。また明るい灯火。
春 宴 : 春または正月の宴会
          ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   梁川星巌 の 『常盤孤を抱くの図に題す』






汪 遵 の 『 長 城 』

中国の絶句
11 /24 2017
続絶句編 250  
 2017年11月24日 続絶句編 157ページ

  長 城   汪 遵
 秦 長城を 築いて 鉄牢に 比す
 蕃戎 敢えて 臨洮に 逼らず
 焉くんぞ 知らん 万里 連雲の 勢
 及ばず 堯階 三尺の 高きに


 ちょうじょう     おう じゅん
しん ちょうじょうを きずいて てつろうに ひす
ばんじゅう あえて りんとうに せまらず
いずくんぞ しらん ばんり れんうんの いきおい
およばず ぎょうかい さんじゃくの たかきに

◆テキストの通釈によると、
秦の始皇帝が築きあげた万里の長城は、
鉄の牢獄に比べるほど堅かった。そのため
辺境の匈奴族も、臨洮には近づかなかった。
だが、万里も連なって、雲に接するほどの
勢いの長城も、あの聖王尭の宮殿の階段の
三尺の高さに及ばないとは、誰が知ろう。

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
汪 遵は、生没年不明、晩唐の詩人。
安徽省に生まれ、866年、進士に合格。
苦学して、博学多才の人となった。

秦の始皇帝のやり方を批判している → 詠史
晩唐の政治をも批判している  諷世 → 風刺

         

長 城 : 万里の長城。秦(紀元前221)の始皇帝が
   蛮族の侵入を防ぐために築いたもの。
      →無駄なお金を使って人民を苦しめた。
鉄 牢 : 鉄製の牢屋。堅固な牢屋。
蕃 戎 : 野蛮な異民族。ここでは匈奴をさす。
臨 洮 : 現在の甘粛省岷(びん)県。
   秦の長城は、西の起点がこの臨洮であった。
連雲勢 : 万里の長城は、ものすごく高く
   大きく、雲に連なるような勢い。
堯階三尺 : 帝尭の宮殿のきざはし(階)は、三尺しかなかった、
   質素なこと。帝尭は、平和な時代を築いた。
   きざはしは、土の階段であった。
   力の政治ではいけない、徳をもって政治を
   しなければならないことをこの詩で詠っている。

★現在の「長城」は、
   東は、河北省山海関(さんかいかん)から
   西は、甘粛省嘉峪関(かよくかん)まで
   8852km(世界遺産登録時) ・・・ とのことです。    




  【 中国の絶句 】
 高 駢 の 『 山亭夏日 』







 詩吟もえ子

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