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蘇 軾 の 『 湖上に 飲す 』

中国の絶句
01 /26 2018
続絶句編 250  
 2018年1月26日 続絶句編 165ページ

   湖上に 飲す   蘇 軾
 水光 瀲灧として 晴れ 偏えに 好く
 山色 空濛として 雨も 亦 奇なり
 若し 西湖を 把って 西子に 比せば
 淡粧 濃抹 総べて 相宜し


 こじょうに いんすく     そ しょく
すいこう れんえんとして はれ ひとえに よく
さんしょく くうもうとして あめも また きなり
もし せいこを とって せいしに ひせば
たんしょう のうまつ すべて あいよろし

テキストの通釈によると、
湖上を照らす日の光で、きらきらと
水面が輝く晴れた西湖の景色は美しい。
あたりの山が、ぼんやりとけぶって見える
雨の西湖もまた、格別の趣があってよい。
もしも、この西湖のさまを、あの美女の西施に
比べて見るならば、薄化粧でも、濃化粧でも
どちらも似合うように、西湖も晴雨どちらも美しい。

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
蘇 軾(1037~1101)は、北宋を代表する詩人、政治家、文章家、書家。
蘇東坡(そとうば)とも呼ばれる。

蜀(四川省)眉州眉山(眉山市)の出身である。
1057年、22才のときに弟・蘇轍(そてつ)19才とともに進士に合格。
合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入るが、
神宗の時代になり、国政の改革が王安石を中心になされ、
蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともに、これに反対したため、
辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられて追放された。

最初の追放は1079年、蘇軾44才で抗州の通判(副知事)。
この時の知事・陳襄(ちんじょう)に招かれ、舟の上で
即興で作った二首連作の2首目がこの『湖上に飲す』で
初め晴れ、後雨降る というサブタイトルがついている。

2回目の左遷は、黄州(湖北省黄州区)で、この時の
黄州での生活は足かけ5年にも及び、自ら、荒地を
開墾するほどの苦難の生活であった。
1085年、神宗が死去し、旧法派が復権し、
蘇軾も、50才で中央の官界に復帰し、
翰林学士などを経て、礼部尚書(大臣=長官)に昇進。

新法を全て廃止しようとする宰相・司馬光に対して、
新法でも理に適った法律は存続させるべきであると
主張して司馬光と対立し、旧法派の内部でも孤立する。
さらに1094年、再び新法派が力を持ったため、
蘇軾は3回目の左遷、恵州(現在の広東省)に流され、
62才の時には海南島にまで追放された。

66才の時、哲宗が死去し、徽宗が即位して、
新旧両党の融和が図られ、ようやく許されたが、
都に向かう途中に病に倒れ、常州(現在の江蘇省)で死去した。

瀲 灧 : 水面がきらめくさま。
   瀲=水があふれる様子。 灧=なまめかしい。
 偏  : いやがうえにも。普通の程度を超えて。
空 濛 : ぼんやりと、けぶっているさま。。
 奇  : すばらしい。珍しい。
西 湖 : 杭州(浙江省)の町の西にある湖。周囲約15kmほど。。
西 子 : 西施のこと。
   春秋時代、越の国(今の浙江省)の絶世の美女。
淡 粧 : 薄い化粧。
濃 抹 : 濃い化粧。 抹=ぬる。
       ・・・とのことです。  
   
         


★ 王安石の新法に対して、蘇軾が旧法を支持していた
  のはどうしてなのかな~と残念に思っていましたが、
  新法に組しないことで何回も左遷をされ、最後には
  新法の好い面を取り入れようと主張したことで
  旧法派からも批判を受けたとか・・・
  こちら に よると、蘇軾の生き方や人柄について
  とても興味と好感が持ててきました。




     【 中国の絶句 】
  王 安石 の 『 初夏即事 』







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藤田 東湖 の 『 夜 坐 』

日本の絶句
01 /23 2018
絶句編テキスト

2018年1月23日 絶句編 66ページ  

   夜 坐    藤田 東湖 
 金風 颯々 群陰を 醸し
 玉露 溥々 万林に 滴る
 独坐 三更 天地 静かなり
 一輪の 明月 丹心を 照らす
   
 や ざ   ふじた とうこ
きんぷう さっさつ ぐんいんを かもし
ぎょくろ たんたん ばんりんに したたる
どくざ さんこう てんち しずかなり
いちりんの めいげつ たんしんを てらす


テキストの通釈によると、
秋風が辺りをざわめかして通り過ぎると、
そのたびに、昼のような明るい地上に、黒い葉影が
重なり揺れ、いっぱいに置いている玉をもあざむく
白露がぽたぽたと、辺り一面の木立からしたたり落ちる。
夜はいよいよ更け、いよいよ静かである。ただ月のみが、
この幽居に独り坐している私を訪れ、一点の曇りのない
この真心を照らし、慰めてくれることである
    ・・・とのことです。

先生のお話によると、
藤田 東湖(1806~1855)は、斉昭が藩主となった後
35才で側用人として藩政改革にあたっていたが、
39才の時、斉昭が蟄居謹慎処分を受け、
東湖も小石川藩邸(上屋敷)に幽閉された。
翌年2月、幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。
この幽閉中に、『志を言う』、『夜坐』は作られた。

金 風 : 秋風に同じ。秋は五行説で金にあたることから、
   秋風の意とする。 秋風=西風
颯 々 : 風の吹く音。または、そのさま。
醸群陰 : 多くの暗い影をつくりだす。
玉露溥々 : 玉のような白露をいっぱいに置いている。     
三 更 : 真夜中。夜の12時の前後2時間ほど。
丹 心 : 赤心。まごころ。
   丹は、赤土。硫黄と水銀が化合したもの。

★ この詩で東湖は、自分は今、謹慎の身になっているが、
  一点の曇りのない心からで、悪いことをした覚えはない
  恥じることもないという自身の潔白さを述べている   
          ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   藤田 東湖 の 『 志を 言う 』






藤田 東湖 の 『 志を 言う 』

日本の絶句
01 /23 2018
絶句編テキスト

2018年1月23日 絶句編 65ページ  

   志を 言う    藤田 東湖 
 俯しては 郷国を 思い 仰いでは 君を 思う
 日夜 憂愁 南北に 分かる
 惟 喜ぶ 閑来 典籍に 耽るを
 錦衣 玉食 本 浮雲
   
 こころざしを いう   ふじた とうこ
ふしては きょうこくを おもい あおいでは きみを おもう
にちや ゆうしゅう なんぼくに わかる
ただ よろこぶ かんらい てんせきに ふけるを
きんい ぎょくしょく もと ふうん


テキストの通釈によると、
(自分は今、不自由な幽居の身である。こうした
境遇に置かれてこそ、人は一層、君国のことが案じられる)
あるときは主君のこと、あるときは故郷の同志のことが
思われる。自分と同じく、この江戸に幽閉の身の上の
御主君は、今、どのような御心境でおられるのであろうか。
北方の主の居ない水戸城下の人心は、今、いかがであろうか。

夜となく、昼となく、憂いは増し、心は傷む。
こんな焦燥と不安の中に過ごす日々にも一つの楽しみはある。
それは、多忙な政務と異なり、たっぷり時間があって
本を読めることである。

まことに、読書の楽しみは何物にも変え難く、
錦衣玉食のような物質上の贅沢や楽しみなどは
大空に浮かぶ雲のように取り止めがなく、何等、
心を動かすに足らないことを痛感するのである。
・・・とのことです。

先生のお話によると、
藤田 東湖(1806~1855)は、江戸末期の水戸藩の儒学者。
名は彪(たけき)、父・幽谷は水戸学者で彰考館総裁であった。
東湖の兄が早世していたため、東湖は嗣子として育てられた。
生家が千波湖を東に望む処にあったため≪東湖≫とした。

1827年、22才で家督を相続、200石となり、彰考館総裁。
1829年、斉昭が藩主となった後、郡奉行などとなり、
1840年、35才で側用人として藩政改革にあたった。
1844年5月、39才の時、斉昭が蟄居謹慎処分を受け、
東湖も小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、禄を剥奪される。
翌年2月、幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。
この幽閉中に『弘道館記述義』 『回天詩史』などの著作が
書かれ、幕末の志士たちに深い影響を与えることになった。
『志を言う』も、『夜坐』もこの蟄居中に作られた。

1847年、水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、
1852年に処分を解かれ、藩政に復帰した。
1853年、アメリカ合衆国のペリーが浦賀に来航し、
斉昭が海防参与として幕政に参画、東湖も江戸藩邸に移り
江戸幕府海岸防禦御用掛として斉昭を補佐することになり、
1854年に、側用人に復帰したが、
1855年の安政の大地震に遭い、江戸下屋敷にて
母を助けた後、梁の下敷きになって、50才で死去した。

言 志 : 自分の心のうちを述べること。
俯 仰 : 二語が対になっている。『地に俯し天を仰ぐ』のことを
  言うが、ここでは『あるときには・・・またあるときには・・・』の意。
郷 国 : ここでは水戸。
 君  : 斉昭公。水戸では主君が幕府により謹慎を
  命じられたことで、人心はきわめて不安な状態にあり、
  東湖は自分の置かれている境遇を忘れて、そのことを心配した。     
南北分 : 南は江戸の君主。北は水戸の同志。
閑 来 : 『来』は意味のない助詞。
  時間に余裕ができて、ひまの意。
典 籍 : 書物。
錦衣玉食 : 美麗な衣服と、贅沢な食べ物。
 本  : 本来、元来の意。
浮 雲 : 漠然として、まったく関心がないことを
  空に浮かぶ雲に喩えた。

東湖が亡くなって5年後の
   1860年3月3日、桜田門外の変となり、
   脱藩した水戸藩士たちが井伊直弼を殺した。
   井伊直弼は1858年、大老に就任。享年46才(満44才)  
          ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   作者不詳 の 『太田道灌蓑を借るの図に題す』






王 安石 の 『 初夏即事 』

中国の絶句
01 /19 2018
続絶句編 250  
 2018年1月19日 続絶句編 164ページ

   初夏 即事   王 安石
 石梁 茅屋 湾碕 有り
 流水 濺々として 両陂に 度る
 晴日 暖風 麦気を 生じ
 緑陰 幽草 花時に 勝る


 しょか そくじく     おう あんせき
せきりょう ぼうおく わんき あり
りゅうすい せんせんとして りょうひに わたる
せいじつ だんぷう ばっきを しょうじ
りょくいん ゆうそう かじに まさる

テキストの通釈によると、
石の橋と茅ぶき屋根の家、そして
曲がりくねった岸辺がある。流れる水は、
さらさらと両側の堤の中を渡って行く。
初夏のよく晴れた日に、暖かい風が吹きわたると、
麦の香りがたちこめて、こんもり茂った木陰に、
ひっそりと草も茂り、花の咲く時よりも風情がある

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
王 安石(1021~1086)は、北宋の政治家・詩人であり、
神宗によって抜擢され、宰相ともなり、政治改革に
あたって新法を実施して、財政の建て直しなどに
実績をあげたが、特権階級の利益を侵す事となり、
司馬光を中心とする保守派の反撃や諫言によって失脚。
息子の死などもあり、56才から隠棲生活を送り、
66才で亡くなった。 号は、半山。

即 事 : 眼前の景や事象を見たまま詩にすること。
石 梁 : 石造りの橋。
茅 屋 : かやぶき屋根の家。
     王安石が隠棲していた≪半山亭≫のこと。
湾 碕 : 曲がりくねった川岸。碕=岸。
濺 々 : 水のさらさらと流れるさま。
 陂  : ななめ。堤。
麦 気 : 麦の香。
幽 草 : 人目につかず、ひっそり茂る草。

★ 王 安石が隠棲していたのは、南京(金陵)と鍾山の
  中間地点で、号も半山であったことから
  隠棲していた庵を≪半山亭≫という
       ・・・とのことです。  
   
         

★ 王 安石の新法に対して、旧法に拠っていた蘇軾ですが、
  こちら によると、
    15才以上年下の蘇軾は、王安石を尊敬しており、
    互いに交流も深かったと聞いています。
    政治と詩(文学)とは別物でした

       ・・・とのことで、ほっとしました。

こちら から新法と旧法について次に転載させていただきました。

旧法党の中心である司馬光(しばこう、1019~1086)とは、その政治思想において真っ向から対立した。ところが、没年が同じこの両者は、どうも互いに相手の非凡な才能を認め合うという不思議な関係でもあったようなのだ。

 もう一つ不思議なことを述べれば、中国史上におけるこの両者は、ともに歴史的評価が高いことである。善悪の評価が一辺倒になりやすい今日の中国人でさえ、この二人にはそれぞれに少なからぬ人気を寄せている。

 青苗法、均輸法など数ある「王安石の新法」を一言で説明するのは難しいが、要するに彼の新法とは、異民族の西夏が北方から圧迫してくるという危急存亡の時にある北宋が、更なる富国強兵のため、大地主や豪商の既得権益に大なたを振るった大胆な改革法であった。

 革新的な諸政策に、当然ながら猛反発が起きた。しかし、20歳で即位した青年皇帝・神宗は、王安石の政策を採用して推進させる一方、政治の場では退けた旧法党の臣下、例えば司馬光には歴史の大著『資治通鑑』を編纂させるなど、失脚者にも配慮がなされた。

 新法・旧法の争いは、実はこの後も延々と続き、ついには北宋終焉の主要因となる。王安石は、その途中でいさぎよく政界を引退し、南京の郊外に隠居した。

 冒頭の詩は、そのような作者の晩年の作である。なるほどこの詩には、どろどろした政治の世界とは正反対の、万物天然の好ましい姿が飾ることなく描かれている。




     【 中国の絶句 】
  王 安石 の 『 梅 花 』







作者不詳の『太田道灌蓑を借るの図に題す』

日本の絶句
01 /13 2018
絶句編テキスト
2018年1月13日 絶句編 64ページ  

   太田道灌蓑を借るの図に題す    作者不詳 
 孤鞍 雨を 衝いて 茅茨を 叩く
 少女 為に 遺る 花 一枝
 少女 言わず 花 語らず
 英雄の 心緒 乱れて 糸の 如し
   
 おおたどうかんみのをかるのずにだいす  さくしゃふしょう
こあん あめを ついて ぼうしを たたく
しょうじょ ために おくる はな いっし
しょうじょ いわず はな かたらず
えいゆうの しんしょ みだれて いとの ごとし


テキストの通釈によると、
太田道灌が、あるとき供を連れず一人馬に乗って
狩りに行ったが、途中ひどい雨に遭い、ある藁屋の
戸を叩いて蓑を借りようとした。すると、その家の
娘が出てきて、八重山吹の一枝を差し出した。
娘はそれなり一言も発せず、道灌は花を見ていても
どういう意味か一向に判断が付かない。
さすが英雄道灌も、この時ばかりは心の中が
千々に乱れて、まるでもつれて解けぬ糸のようであった

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
太田 道灌(1432~1486)は、江戸城を築いたことで有名で、
武将としても学者としても一流という定評があった。

道灌は、扇谷家2代にわたって補佐、河越城、
江戸氏の領地であった地に江戸城を築城した。

道灌はいくつもの合戦を戦い抜き、上杉家を救った。
それによって扇谷上杉家の勢力は大きく増し、
道灌の力や人望も絶大なものになっていった。

1486年、道灌は主君である扇谷定正の館に招かれ、
ここで暗殺された。死に際に「当方滅亡」と言い残した。
「自分がいなくなれば、扇谷家は滅びる」という
この言葉の通り、まもなく扇谷上杉家は滅ぼされた。

          
 
太田道灌 : 室町時代の武将で、江戸城の築城者として名高い。
   川越城も道灌の築城による。
   道灌は剃髪後の称で、名は資長(すけなが)。
   和歌に巧みで後土御門(つちみかど)上皇にお答えした
     「わが庵は松原つづき海近くふじの高嶺を軒端にぞ見る」
   は有名である。上杉定正に仕え、定正の勢威を妬んだ
   上杉顕定(あきさだ)に諌言され、異志あるものと疑われて
   1486年に55才で殺された。   
孤 鞍 : 従者も連れずに一人で馬に乗って行くこと。
茅 茨 : かやぶきの家。
花一枝 : 八重の山吹の一枝。
   少女が無言のまま一枝の花を捧げたのは、
     「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」
   という 『後拾遺集』の中務郷兼明親王(醍醐天皇の第16子)の
   歌の、八重山吹には 『実』がならぬの意を借りて、
    『蓑』一つさえないことを示したものである。
心 緒 : 心持ち。心の動き
         ・・・ とのことです。

こちら に よると、作者については「遠山雲如(うんじょ)、大槻磐渓、新井白石、愛敬四山説などあって、作者不明とする解説書も多数ある」とのことです。

       ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ 


★今から50年前位に発行された子ども向けの本に載っていたお話し。
その本では「およそ500年前」となっていましたが、「およそ550年前」
と変更しました。暗誦して語ったことがありますので書き添えます。
     (少し文を変えてあります)

   山吹の里   新宿区の伝説
今からおよそ550年あまり昔、東京が江戸と呼ばれていた頃のこと。
ということは、徳川家康が江戸に幕府を開く100年も前のことなんじゃが、
その頃の江戸はまだ住む人も少なく、雑木林や荒れ野のつづく寂しい村じゃった。
扇谷(おおぎがやつ)上杉家に仕える太田持資(もちすけ)という武士が、
今の皇居のある所に、小さな城を築いていた。
そのころ京都では、応仁の乱という大きな戦さが何年も続いていたんじゃ。
ほぼ10年もの激しい戦さで、京都の町はほぼ全滅したということなんじゃが、
ここ武蔵野の辺りでも、あちらこちらに城を構えた武将たちが、
互いに争い、小さな戦さをくり返していた。
そんなある日のこと、持資は何人かの家来を連れて鷹狩りに出かけた。
鷹匠が馬に乗り、手に鷹をとまらせ、犬を連れて、殿に従った。
いつものように江戸城から馬場下へ出て、高田村(今の高田馬場)の辺りで
狩りをしていた。獲物を求めて高い空を舞う鷹を見ていると、持資は日ごろの
疲れを忘れた。持資の心はのびのびと空へ広がっていく思いだった。

いつのまにか時が過ぎて、日暮れ近くになったのだろうか。
辺りが薄暗くなってきた。
「さて、そろそろ帰るとしようか」
家来に声をかける間もなく、ポツリポツリと大粒の雨が落ちてきた。
雨はたちまち激しくなる。
持資と家来は、どこか木陰でもないかと辺りを見回した。
すると、向こうの林の外れに小さなわら屋根が見えた。
 
軒下に駆け込んだ家来が、「申し!」と声をかけた。
すると、ひとりの娘が出てきた。あばら家に似合わぬ美しい娘だった。
持資は言った。
「急な雨で、雨具の用意もなく困っている。すまんが、蓑を貸して下さらぬか」
すると、娘は黙って家の中へ消えた。と思うと、しばらくして
裏庭から折り取ってきたらしい小枝を持って現れた。そして、
静かに持資の前に差し出した。濡れた緑の葉の間に、
黄色い花が美しい。山吹の枝だった。
黙って恥ずかしそうにうつむいている娘と、山吹の枝を見比べて、
持資はとまどった。
 (この娘は口がきけないのだろうか。
    それとも何か勘違いしているのだろうか)

持資は腑に落ちないまま、にわか雨のやむのを待って城へ帰った。
城でそのことを話すと、中村治部少輔重頼(なかむらじぶのしょうゆう
しげより)という家来が言った。和歌にくわしい、年とった家来だった。
「殿、むかし、醍醐天皇の皇子、兼明親王が
小倉の山荘に住んでおられた時に詠まれた歌に、
   七重八重 花は咲けども 山吹の 
          実のひとつだに なきぞかなしき

 という歌がございます。 『後拾遺和歌集』にも載っている
有名な歌でございます。 『山吹は美しい花を咲かせるけれど
実のひとつもならないかなしい花だ』というその歌の
『実のひとつだになき』という言葉にかけて、その娘は
『お貸しする蓑ひとつない貧しい暮らしでございます。
 どうぞ、お許し下さいませ』という気持ちをこめて、
山吹の枝を差し出したのでございましょう。
田舎にはめずらしい学問のある娘とみえまする」
 「そうであったのか」
持資は、深く自分の無知を恥じた。

その賢く、美しい娘は、応仁の乱の難をさけて、
京都から武蔵野に逃れてきて住みついた武士の娘だった。
武士にはふたりの娘があって、太田持資に山吹の枝を
差し出したのは、姉娘の紅皿(べにざら)であった。
このことがあってから、持資は武道だけでなく学問にも励んだ。
そして、強い武将であると同時に、心も豊かな人間になろうと心がけた。
のちに、頭を剃って、太田道灌と名乗るようになったが、
紅皿を江戸城に呼んで、歌の友として、一生、
親しい交わりを続けたということじゃ。  (おしまい)


★太田道灌が亡くなった(殺害された)あと、尼になった紅皿の墓は、東大久保の大聖院という寺の境内に今も残っているということです。




    【 日本の絶句 】
   大槻磐渓 の 『 平泉懐古 』






 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?