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村上 仏山 の 『壇の浦を過ぐ』

日本の絶句
02 /26 2018
絶句編テキスト

2018年2月26日 絶句編 70ページ  

   壇の浦を過ぐ    村上 仏山 
 魚荘 蟹舎 雨 煙と 為る
 蓑笠 独り 過ぐ 壇の浦の 辺
 千載の 帝魂 呼べども 返らず
 春風 腸は 断つ 御裳川
   
 だんのうらを すぐ   むらかみ ぶつざん
ぎょそう かいしゃ あめ けむりと なる
さりゅう ひとり すぐ だんのうらの ほとり
せんざいの ていこん よべども かえらず
しゅんぷう はらわたは たつ みもすそがわ


テキストの通釈によると、
見渡せば、漁師の小屋が点々と折からの雨に
霞んでいる。ここ壇の浦の辺りを自分は
ただひとり蓑笠をつけて通っているのである。
あの幼い安徳天皇が御入水遊ばされてから早千年、
いくらお呼びしても御魂はお帰りにならないのである。
いま春風そよぐ御裳川のほとりにたたずめば、
当時のことがしのばれて腸はちぎれるばかりである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
村上 仏山(1810~1879) 江戸後期から明治にかけての漢詩人。
豊前(福岡県東部~大分県)稗田村、
名は剛(つよし)。代々大庄屋だったが、
筑前(福岡県北西部)で亀井明陽に儒学を学んだ。
26才で脚気を患い帰郷し、私塾水哉園を開いた。
温厚であったため1500名の塾生がいた。
その後、生涯に渡って稗田村から外に出ることなく
70才で歿。,田園詩人として知られ、
白楽天や蘇東坡に傾倒した。

壇の浦 : 山口県の下関市の東端にある。
   平家滅亡の地として知られる古戦場で、
   その際、御年八歳の安徳天皇が入水された。
魚 荘 : 漁夫の家。「荘」は田舎の家を意味する。
蟹 舎 : 魚荘と同じ。
蓑 笠 : みのとかさ。これを着けて雨や雪を防ぐ。
   今で言うレインコート。
千 載 : 「載」は年の意。千年。長い年月。
   およそ700年前。
帝 魂 : 安徳天皇(81代)の御魂。
御裳川 : 壇の浦に注ぐ小川の名。

★ 平清盛の妻 時子は、清盛亡き後は、実子の宗盛や建礼門院徳子の母として、平家の家長たる存在となった。壇ノ浦の戦いでは、徳子が生んだ幼い安徳天皇を抱いて「浪の下にも都の候ぞ」(『平家物語』)と言い聞かせて海中に身を投じたと言われている
     ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   藤井 竹外 の 『花朝 澱江を 下る』






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藤井 竹外 の 『花朝 澱江を下る』

日本の絶句
02 /26 2018
絶句編テキスト

2018年2月24日 絶句編 69ページ  

   花朝 澱江を 下る    藤井 竹外 
 桃花 水 暖かにして 軽舟を 送る
 背指す 孤鴻 没せんと 欲するの 頭
 雪は 白し 比良山の 一角
 春風 猶 未だ 江州に 到らず
   
 かちょう でんこうを くだる   ふじい ちくがい
とうか みず あたたかにして けいしゅうを おくる
はいしす ここう ぼっせんと ほっするの ほとり
ゆきは しろし ひらさんの いっかく
しゅんぷう なお いまだ ごうしゅうに いたらず


テキストの通釈によると、
桃の花が咲き、水も温(ぬる)む淀の川中を、
わが乗る小舟が流されてゆく。
ふと川上の方をふり返ったとき、一羽の雁が遠い空の
彼方に消え入ろうとしているのが目に入った。
雁のゆくてに高くそびえる比良の山、
その一角にはまだ残雪が白々と輝いている。
すると、春風はまだ江州には訪れてはいないらしい。
ここののどかな時候からは、ちょっと意外に思われる

 ・・・とのことです。

先生のお話によると、  
花 朝 : 一般には陰暦2月15日のこと。花神の生まれた日
   といい、また百花の生まれる日という。
澱 江 : 淀川のこと。淀川は、源を琵琶湖に発し、
   瀬田川、宇治川、淀川となり、木津川、桂川、
   加茂川を合せて大阪湾に注ぐ。 
   長さ約80㎞で、畿内第一の大河。  
背 指 : 後方の空を望む。
孤 鴻 : 一羽の雁。雁の大きいのを鴻という。
比良山 : 滋賀県滋賀郡にあり、琵琶湖の西岸にそびえる
   近江第一の高山。『比良の暮雪』は近江八景の一つ。
江 州 : 近江の国(滋賀県)。

★ 藤井竹外(1807~1866年)については こちら を ご覧下さい。
★ 花朝月夕(かちょうげっせき)
   花のあしたと月のゆうべ。
   春の朝と秋の夜の楽しいひと時を言う。
    「月夕」は8月15日(中秋の名月)     
            ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   藤井 竹外 の 『 芳野懐古 』





藤井 竹外 の 『 芳野懐古 』

日本の絶句
02 /24 2018
絶句編テキスト

2018年2月24日 絶句編 68ページ  

   芳野 懐古    藤井 竹外 
 古陵の 松柏 天飈に 吼ゆ
 山寺 春を 尋ぬれば 春 寂廖
 眉雪の 老僧 時に 帚くことを 輟め
 落花 深き 処 南朝を 説く
   
 よしの かいこ   ふじい ちくがい
こりょうの しょうはく てんぴょうに ほゆ
さんじ はるを たずぬれば はる せきりょう
びせつの ろうそう ときに はくことを やめ
らっか ふかき ところ なんちょうを とく


テキストの通釈によると、
芳野山の如意輪寺に桜の花見に来たのであるが、
寺内の古い後醍醐天皇の陵のほとりには、松と
柏が高々とそびえ、空吹く風に唸り声を立てている。
花見る人の影もなく、ひっそりとしてものさびしい。
ただ眉毛まで雪のように白い老僧があたりを掃いて
いたが、わが姿をみとめ箒の手をとどめて、落花が
深く散り敷いているところに自分をひきとめ、
昔の南朝の話をいろいろ物語ってくれた

 ・・・とのことです。

先生のお話 によると、

藤井竹外は1807年生まれ、明治維新を見ずに
1866年7月 60歳で亡くなった。
本名 「啓」 で、高槻藩の中堅家臣、家禄50石。
代々知行地をうける権利をもつ家格で、
時には政務の中枢を担いうる身分でもあったが、
竹外はいつのころからか詩作に傾倒し、酒に浸り、
勤番をきらって病気だといっては家にこもり、
療養だといっては旅に出る毎日だった。

頼 山陽 に教えを受け、梁川星巌、広瀬淡窓らと
親交があり、晩年は京都で詩を作り、酒を愛し、
悠々自適の生活を送った。

古 陵 : 後醍醐天皇の塔ノ尾陵。延元陵ともいう。
松 柏 : 中国では古来、松柏を墓陵・廟所に植える。
   わが国では、必ずしもそういった風はないが、
   漢詩のことであるので中国風にいったもの。
   柏は、松科の常緑樹である。
天 飈 : 天空に吹き荒ぶ風。はやて。つむじ風。
山 寺 : 如意輪寺(にょいりんじ)。
尋 春 : 春景色をさぐる。
眉 雪 : 眉が雪のように白いこと。
南 朝 : 後醍醐・後村上・長慶・後亀山の4代の天皇が
   57年に亘って吉野山に朝廷を開く(南北朝時代)

★ 芳野三絶
   梁川 星巌 『芳野懐古』
   河野 鉄兜 『 芳 野 』 
   藤井 竹外 『 芳野懐古 』
            ・・・ とのことです。




    【 日本の絶句 】
   広瀬 旭荘 の 『 桜祠に遊ぶ 』






広瀬 旭荘 の 『 桜祠に遊ぶ 』

日本の絶句
02 /24 2018
絶句編テキスト

2018年2月24日 絶句編 67ページ  

   桜祠に 遊ぶ    広瀬 旭荘 
 花 開けば 万人 集まり
 花 尽くれば 一人 無し
 但 見る 双 黄鳥
 緑陰 深き 処に 呼ぶを
   
 おうしに あそぶ   ひろせ きょくそう
はな ひらけば ばんにん あつまり
はな つくれば いちにん なし
ただ みる そう こうちょう
りょくいん ふかき ところに よぶを


テキストの通釈によると、
桜の花が咲くと、何万とも知れぬ人たちが
花見に集まってくるが、さて、いったん花が散ってしまうと、
だれ一人やってこなくなる。ただ、
一つがいの雌雄の鴬だけが、緑濃い
葉桜の木陰で呼び交わしているのである。
(このように人は権勢利欲に憧れ、招かないでも
 大勢のものが近寄ってくるが、その人が、地位・
 財産を失ったとなると、だれ一人として寄り付かなくなる。
 そうした折り、旧に変わらない交情を示すものこそ
 真の人間である)
 ・・・とのことです。

先生のお話と こちらによると、
広瀬 旭荘(18071863)は江戸時代末期の漢詩人。
豊後国、現在の大分県日田市で生まれた。
兄・広瀬淡窓より26才下の8人兄弟の末っ子。

1817年 10才  長兄淡窓の桂林荘に入門。
1823年 16才  父の勧めにより淡窓の養子となり勉学に専念。
            筑前の亀井塾に入門。都講に任ぜられる。
1825年 18才  亀井塾を退き、日田に戻る。
      病床の兄・淡窓に代わって咸宜園の塾政となる。
1828年 21才  豊前浮殿(宇佐と豊後高田の境)に塾を開く。
1830年 23才  咸宜園を継ぐ。
1831年 24才  日田郡代の干渉があり、塾生数の減少。
1834年 27才  父死去。
1836年 29才  大坂に出て、塾を開く。
1843年 36才  大坂の塾を閉じ、江戸にて開塾。
  塾は盛大であったが、大病を患い、29歳の妻も死去。
  金品の盗難等などで、600両の借金ができた。
1846年 40才  大坂に戻り塾を開く。
1851年 45才  借金を完済。
1863年  57才  池田郷にて(現池田市綾羽)永眠。

★ この詩は、全句が比喩の形をとっている。

  
桜 祠 : 今の桜の宮(大阪市都島区)にある神社(桜の宮神社)で、
   天照大神と、応神(15代)・仁徳(16代)天皇をまつる。
   古来、花見の地として知られている。
     祠=神社
双黄鳥 : 一つがいの雌雄の鴬。 黄鳥=鴬
            ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   藤田 東湖 の 『 夜 坐 』






朱 熹 の 『書を観て感有り』

中国の絶句
02 /23 2018
続絶句編 250  
 2018年2月23日 続絶句編 168ページ

   書を観て 感有り    朱 熹
 昨夜 江辺 春水 生ず
 蒙衝 巨艦 一毛 軽し
 向来 枉げて 費やす 推移の 力
 此の日 中流 自在に 行く


 しょをみて かんあり   しゅ き
さくや こうへん しゅんすい しょうず
もうしょう きょかん いちもう かろし
こうらい まげて ついやす すいいの ちから
このひ ちゅうりゅう じざいに ゆく

テキストの通釈によると、
昨夜の雨で、川の水は増している。
そこで、軍用船の巨艦も、あたかも
一本の毛のように軽々と浮かんでいる。
これまでは水量も少なく、軍用船を動かすのに、
やたらに時間や力がかかったが、この日は
流れの真中へ自由自在に行くことが出来た。
(学問もこれと同じで、懸命に励み、本質を
 把握すれば、容易に理解できるものである)

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
朱 熹(1130~1200)は、南宋の哲学者であり、詩人、文章家。
本名が朱熹であり、号は晦庵など。
1148年、19才で進士に合格。
1151年、泉州同安県の主簿(帳簿係)に任官された。
1156年には主簿の任期である3年を過ぎたが、
後任がやって来ないのでもう一年だけ勤め、
それでも後任がやってこないために自ら辞している。
1160年、祠官に任命されることを希望し認められた。
1162年、孝宗の治世となり、武学博士を命じられたが、
辞退して祠官を続けられるよう望み、地元の崇安県に戻った。
28才で官を退いて、20年間、国からの年金で学問に励んだ。

1170年、40才頃に朱子学を確立させた。この頃、
崇安県に社倉を設け、難民の救済にも当たったりしている。
1179年、49才から再び役人生活に戻り、
南康軍(江西省)の知事となり、向学心ある者に教育を授けたり、
税制の実態を見直して減税を行うように朝廷に進言したりしている。

1194年、寧宗が即位すると、朱熹は長沙の知事から
中央官庁に戻り、天子の顧問官に抜擢されたが、
宰相と対立したことなどもあって45日で辞任した。
1196年、朱熹の朱子学に対して弾圧(偽学の禁)がされ、
朱熹は、全ての官職を剥奪され、著書も発禁とされた。
1200年、そうした不遇の中、71才で亡くなった。

朱子学は、日本においても、とりわけ江戸期に
重きがおかれたため、後世にも影響を残している。

  朱子学・・・先知後行・・・徳川家康が幕府の儒学として
         取り上げ、日本に大きな影響を与えた。
  陽明学・・・知行合一

           

★ この詩は、二首連作の≪その1≫で、
   書物を読み、師に学び、学問に励むことによって
   理解力を増し、物事の本質を見抜く力がつくことを
   春水の流れを例えにして、説いている。

春 水 : 春になると潮が満ちて、水かさが増す。
蒙 衝 : 軍用船。牛の皮で外部を覆い、
   敵船を突破する堅牢な船。
向 来 : これまで。従来。
 枉  : むだに。やたらに。
中 流 : 流れの真ん中
       ・・・とのことです。  
   
    



     【 中国の絶句 】
  楊 万里 の 『夏夜 涼を追う 』







 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?