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日柳 燕石 の 『 春 暁 』

絶句編テキスト

2018年3月26日 絶句編 74ページ  

   春 暁      日柳 燕石 
 花気 山に 満ちて 濃やかなること 霧に 似たり
 嬌鴬 幾囀 処を 知らず
 吾が 楼 一刻 価 千金
 春宵に 在らず 春曙に 在り
   
 しゅんぎょう    くさなぎ えんせき
かき やまに みちて こまやかなること きりに にたり
きょうおう いくてん ところを しらず
わが ろう いっこく あたい せんきん
しゅんしょうに あらず しゅんしょに あり


テキストの通釈によると、
花の気は山に満ち、いっぱいに
霧がたちこめているかのよう。
鴬の声が美しくなまめかしく聞こえてくるが、
どこで鳴いているのかわからない。
自分の住むこの楼上からの眺めは
「一刻価千金」ともいうべきであるが、
それは春の宵のことではなく、春のあけぼのを
いうのではあるまいかと思われる
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
日柳 燕石(1817~1868)は、江戸時代末期の志士。
讃岐国の榎井(えない)村(現・香川県琴平町)の出身。
名は政章、燕石は号。父は加島屋惣兵衛で豪農。
13歳で琴平(松尾村)の医師・三井雪航に学んだ他、
経史・詩文、国学・歌学を学び、詩文、書画をよくした。

榎井村は幕府の天領で豪商・豪農が多く、文化度も高かった。
全国から金毘羅大権現 松尾寺に参詣客が訪れ、情報も集まり、
豪農で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、
14才頃までには「四書五経」を読破した。
21才で父母に死別し、家督を相続。

33才頃まで遊俠したことで、千人を超える徒の首領となり、
博徒の親分としても知られていた。また勤王の志士と交わり
私財を投げ出して尽力。幕吏に追われた志士を庇護した。
1865年、高杉晋作をかくまい、逃亡させたことから、
4年間、高松の獄に幽閉され、1868年正月20日に出獄。
赦免を受けて京都に上り、桂小五郎(木戸孝允)らと共に
朝廷のために仕事するが、会津征討の史官に任じられ
北陸に従軍。投獄がもとで同年、越後柏崎で病没した。
52才であった。墓は柏崎と、郷里榎井にある。

嬌 鴬 : 媚びるようになまめいた鴬の声。
幾 囀 : さえずり。小鳥などが細い声で鳴き続けること。
一 刻 : 15分。ほんの短い時間。
千 金 : 漢代に黄金一斤を一金といった。
   千金は非常に高価なことをいう。
春 曙 : 春のあけぼの。春暁に同じ。

★燕石は、蘇軾の『春夜』(春宵一刻価千金)をとらず、
 清少納言の『枕草子』(春はあけぼの)をとっている。
★ 燕石の≪楼≫は、二階で酒を呑むと、金毘羅宮がある
 象頭山が盃に映るため、“象頭山を呑む”意気を
 示す「呑象楼(どんぞうろう)」と名づけられていた
     ・・・ とのことです。



    【 日本の絶句 】
   釈 月性 の 『将に東遊せんとして壁に題す』






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釈 月性 の 『将に東遊せんとして壁に題す』

絶句編テキスト

2018年3月26日 絶句編 73ページ  

   将に 東遊せんとして 壁に 題す      釈 月性 
 男児 志を 立てて 郷関を 出ず
 学 若し 成る 無くんば 復 還らず
 骨を 埋むる 何ぞ 期せん 墳墓の 地
 人間 到る 処 青山 有り
   
 まさに とうゆうせんとして へきに だいす   
                   しゃく げっしょう
だんじ こころざしを たてて きょうかんを いず
がく もし なる なくんば また かえらず
ほねを うずむる なんぞ きせん ふんぼの ち
じんかん いたる ところ せいざん あり


テキストの通釈によると、
ひとたび男子が志を立てて郷里を出た以上は、
学業が成るまでは死んでも再び戻らない決心である。
骨を埋めるのに、どうして故郷の墓所を期待しようか。
世間、どこへ行っても青々とした山の墓地があるのである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
釈 月性(1817~1858)は、幕末、尊皇攘夷の僧である。
周防国・遠崎村(現在の山口県柳井市)生まれ、
妙円寺(妙園寺)の住職。字は知円。号は清狂。

15才のとき豊前・肥前・安芸国で漢詩文・仏教を学ぶ。
そのあと、京阪・江戸・北越を回って遊学し名士と交流、
幕末の志士、吉田松陰、久坂玄瑞らとも交流した。
この詩は27才で、大阪の儒学者である篠崎小竹に
入門のため旅立つときに作られた。二首連作の
その1で、その2は親らのことを書いている。

40才のとき、西本願寺に招かれて上洛。
梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、
紀州藩へ出かけ、海防の説得にあたるなどしたため
海防僧とも呼ばれ、長州藩を攘夷に向かわせるのにも
努めた。1858年、42才で病死。

題 壁 : 壁上に詩文を書きつけることで、
   中国の文人の行う習慣に習っての表現。
   ここでは堅い決心を書き残したという意味である。
青 山 : 中国では墓の別名。
   樹々の茂った山から出た名称。
 何  : どうして・・・しようか(反語)
人 間 : 世の中。世間。

★安部老中が天皇の勅許を得ずに、下田・長崎・函館
 開港の条約を結んだことを、終生の恨みとしていた。
★ 鹿児島湾で西郷隆盛と入水した僧「月照」とは異なる
     ・・・ とのことです。



    【 日本の絶句 】
   梅田 雲浜 の 『 訣 別 』






高 啓 の 『 問 梅 閣 』

続絶句編 250  
 2018年3月23日 続絶句編 172ページ

  問 梅 閣   高 啓
 春に 問う 何れの 処よりか 来る
 春 来って 何れの 許にか 在ると
 月 堕ちて 花 言わず
 幽禽 自から 相 語る


 もんばいかく   こうけい
はるに とう いずれの ところよりか きたる
はる きたって いずれの ところにか あると
つき おちて はな いわず
ゆうきん おのずから あい かたる

テキストの通釈によると、
春に尋ねる。お前はいったい何処から来たのか、
春は来て、今、何処にいるのだろうか、と。
月は西の空に隠れ、梅の花は何も答えてくれない。
ただ、小鳥だけがさえずっているだけだ

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
高 啓(1336~1374)は、中国・明代初期の詩人。
江蘇省蘇州の出身で、号は青邱子。
神童、博学として知られ、史書を好んだ。
戦乱を避けて青邱に隠棲していたが、
1369年 34才、太祖・朱元璋に招かれて
翰林院・国史編修官として『元史』の編纂に加わった。
翌年、戸部侍郎(こぶじろう、財務省次官)に抜擢されたが
固辞し、故郷の蘇州の青邱に戻り、詩人として活躍した。

けれども、その詩に、太祖・朱元璋を諷刺したものがあり、
また、高啓と親しかった蘇州知事・魏観(ぎかん)のために
書いた文章が禍して、39才で、腰斬の刑に処せられた。
その前年、1373年には、死を覚悟しての北行に際して
楓橋において「絶命詩」を詠んでいる。

問梅閣 : 楼閣の名。梅の勝景で名付けた楼閣であろうが、
   その所在は明らかではない。
何 許 : どこ。何処と同じ。
幽 禽 : 物静かな小鳥。 幽は、奥深く、物静か。
   
               

★ 明の初代皇帝(太祖) 朱 元璋は
極貧の農民から皇帝にまで上った人で、
行動力、決断力などに優れていたが、
猜疑心や被害妄想心が強く、
つぎつぎと重臣たちを粛清していった。
高啓は、それを警戒して大役を固辞して
故郷に帰ったと思われるが、若くして
重刑に処せられることになってしまった。

★ この詩は、前半では、
春はどこから来て、どこにいるのかと、春に尋ね、
後半では、月と梅の花からはその答えが得られず
小鳥だけが(何か言いたげに?)さえずっている
という花鳥風月の詩である
          ・・・とのことです。  




   【 中国の絶句 】
  袁 凱 の 『京師にて家書を得たり』







梅田 雲浜 の 『 訣 別 』

絶句編テキスト

2018年3月18日 絶句編 72ページ  

   訣 別      梅田 雲浜 
 妻は 病牀に 臥し 児は 飢えに 泣く
 挺身 直ちに 戎夷を 払わんと 欲す
 今朝 死別と 生別と
 唯 皇天 后土の 知る 有り
   
 けつべつ   うめだ うんぴん
つまは びょうしょうに ふし こは うえに なく
ていしん ただちに じゅういを はらわんと ほっす
こんちょう しべつと せいべつと
ただ こうてん こうどの しる あり


テキストの通釈によると、
妻は病の床についており、子どもたちは空腹に
耐えかねて泣き叫んでいる。 (妻子の明日からの
生活を考えれば、去ろうにも去れない気持であるが)
それをおいて自分は今一身を投げうって、かの暴慢
無礼な外敵を打ち払わんと出発するのである。
ああ今日のこの別れは、死別となるか性別となるか、
それはただ天地の神々のみが知り給うところであって
人の予期しうるところではない
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
梅田 雲浜(1815~1859)は幕末の志士で雲浜は号。
名は義質、定明。小浜藩士・矢部義比の次男で、
藩の儒学者・山口菅山から朱子学をび、祖父の家系
である梅田氏を継ぎ、大津に湖南塾を開いた。
29才で京都に行き、藩の塾である望楠軒の講師となる。

その後、 小浜藩主・酒井忠義に海防策を建言したところ、
藩政批判ととられ藩籍を剥奪され、浪人として各地をまわり、
尊王攘夷派の思想的指導者となっていく。
井伊直弼のやり方に強い危機感を持ち、井伊政権打倒を画策。
水戸藩に幕政改革を求める密勅を降下させたりしたことが
結果的に井伊直弼を硬直化させ、安政の大獄を引き起こさせ、
梅田雲浜も捕らえられたが、拷問に屈することなく45才で獄死。

訣 別 : ながのわかれ。永訣。
病 牀 : やまいのとこ。妻・信子は28才、
   雲浜が40才で出ていった翌年に没した。
児泣飢 : 長女・竹子は7才、長男・繁太郎は3才で病弱。
   翌々年に死亡した。
挺 身 : 身を抜き出す。真っ先に進む。
戎 夷 : 中国で東のえびすを『夷』、従って『東夷(とうい)』。
   西方を『戎』、従って『西戎(せいじゅう)』という。
   ここでは、露国を卑しめていう。中国では洛陽を中心にして、
   南は『南蛮(なんばん)』、北は『北狄(ほくてき)』と争っていた。
皇天后土 : 天地の神々。天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)

★ この詩は、大阪湾にロシアの船が入港した折
  雲浜が、家族との永久の別れをも決意して
  40才で家を出ていく時に作った詩である
     ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   佐久間 象山 の 『 漫 述 』






佐久間 象山 の 『 漫 述 』

絶句編テキスト

2018年3月18日 絶句編 71ページ  

   漫 述      佐久間 象山 
 謗る 者は 汝の 謗るに 任せ
 嗤う 者は 汝の 嗤うに 任せん
 天公 本 我を 知る
 他人の 知るを 覓めず
   
 まんじゅつ   さくま ぞうざん
そしる ものは なんじの そしるに まかせ
わろう ものは なんじの わろうに まかせん
てんこう もと われを しる
たにんの しるを もとめず


テキストの通釈によると、
(世情騒然たる際においては、将来のことは見通しがたく、人はそれぞれ意見を同じくするものと党を組み、わが論のみを正しいものとし、他人の説を一概に非なりとして退ける。この間にあって百万人たりと言えども、われ行かんの気概をもって、ただひとり開国進取を主張する)
この自分に対し、謗るものは気のむくまで
謗るがよいし、嘲笑するものもまた、心ゆくまで
嘲笑するがよい。天の神だけは、もちろん私の
正しさを理解していて下さるに違いないのだから、
あえて他人に知られることを求める必要はない
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
佐久間 象山(1811~1864)は、本名は啓(ひらき)、衝樹(ひらき)
江戸時代末期の松代藩士で、洋学者(オランダ語)
儒学者であり、兵学者・思想家でもある。
信州松代にある山・象山の麓で生まれ、号とした。

15才頃、佐藤一斎の門下生であった鎌原桐山に入門し
経書を学んだ。他でも、和算や水練などを学んだ。
23才で江戸に出て、当時の儒学の第一人者であった
佐藤一斎について詩文・朱子学を学んだ。
  ※ 佐藤一斎は『佳賓好主』の作者で、
     当時、昌平黌の総長であった。
31才の頃、松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛となり
象山は顧問に抜擢され、アヘン戦争などの海外情勢を研究。
オランダの自然科学書、医書、兵書などの精通に努めた。

41才、江戸・木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教え、
勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らが入門してきた。
この頃、ペリーが開港を迫っていて、吉田松陰が密航しようと
して捕えられた。これに象山が連座し、松代で9年間の蟄居。
この間に西洋の学問を勉強し、開国論者となった。

1864年、53才、象山は一橋慶喜に招かれて上洛。
慶喜に公武合体論と開国論を説いた。当時の京都は
尊皇攘夷派の拠点となっており、象山には危険な行動で
三条木屋町で尊皇攘夷派に暗殺された。享年54才。
現在、暗殺現場には遭難之碑が建てられている。

漫 述 : なんとはなしに自分の心持ちを言い表す。
   『漫』はそぞろに。考えもなく。
 謗  : 悪口をいう。
 嗤  : あざ笑う。
天 公 : 天の神。天帝。
 覓  : さがし求める。

★ この詩は、開国論者になってから作られたものである。
★ 横井小楠、藤田東湖、佐久間象山とで幕末の三傑 と言われる
     ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   村上 仏山 の 『壇の浦を過ぐ』






プロフィール

 詩吟もえ子

Author: 詩吟もえ子
東村山市の公民館でのお稽古に参加して10年目になります。
みなさまもどうぞお気軽にご参加下さい♪

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