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袁 凱 の 『京師にて家書を得たり』

中国の絶句
03 /16 2018
続絶句編 250  
 2018年3月16日 続絶句編 171ページ

  京師にて家書を得たり   袁 凱
 江水 三千里
 家書 十五行
 行々 別語 無く
 只 道 早く 郷に 帰れと


 けいしにて かしょを えたり   えん がい
こうすい さんぜんり
かしょ じゅうごぎょう 
ぎょうぎょう べつご なく
ただ いう はやく きょうに かえれと

テキストの通釈によると、
長江の流れは三千里。
家族からの手紙はたった十五行。
どの行にもほかの言葉はなく、
ただ、早く故郷に帰れとあるばかり

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
袁 凱 は、元から明にかけての詩人。生没年不詳。
浙江省 の人。 元末に府吏となり、
明に入って洪武年間に御史になった。
御史は、百官の裁判を司る官で、
    皇帝の秘書官のような職。

京 師 : 都。明朝時代の都は「南京」であった。
家 書 : 家族からの手紙。
江水三千里 : 「南京」と、袁凱の故郷「華亭」(江蘇省)は
   そんなに遠くない。ただ気持の上での三千里なのだろう。
家書十五行 : 中国の書簡箋は一枚が十五行であるから、たったの二枚。
別 語 : ほかの言葉。
   
               

★ 明を起こした初代皇帝 朱 元璋=洪武帝は
極貧の農民から皇帝にまで上った人で、
≪重農抑商≫の政策など、行動力、決断力
などに優れていたが、猜疑心や被害妄想心
が強く、自分の子孫を残すために
つぎつぎと重臣たちを粛清していった。
錦衣庸(きんいよう=スパイ)を庶民の中に
送りこみ、陰惨な恐怖政治を行った。

★ ある時、洪武帝から囚人の取調べについて、
どちらが是であるかと袁凱は質問された。
洪武帝の取調べや判決はきびしく、
皇帝見習いである皇太子・標(ひょう)の処に
回ると減刑される事が多かったので、
「陛下は法の正であり、東宮(皇太子)は心の慈である」
と答えたが、洪武帝は気に入らなかった。袁凱は、
「老獪にして両端を持す」どちら付かずの歯切れの悪さを
憎まれたと気づき、急いで狂人の真似をして退職し、
故郷に帰って危地を脱して天寿を全うする事が出来た。
この詩の背景には、このような事情がある。

★ ちなみに、中国の長い歴史の中で
農民から皇帝になったのは、洪武帝と
漢の時代の劉邦との二人だけである
         ・・・とのことです。  




   【 中国の絶句 】
  方 岳 の 『 雪 梅 』







方 岳 の 『 雪 梅 』

中国の絶句
03 /09 2018
続絶句編 250  
 2018年3月9日 続絶句編 170ページ

   雪 梅    方 岳
 梅有り 雪無ければ 精神ならず
 雪有り 詩無ければ 人を 俗了す
 薄暮 詩 成って 天 又 雪ふる
 梅と 併せ作す 十分の 春


 せつばい   ほうがく
うめ あり ゆき なければ せいしんならず
ゆき あり し なければ ひとを ぞくりょうす
はくぼ し なって てん また ゆきふる
うめと あわせなす じゅうぶんの はる

テキストの通釈によると、
梅が咲いても、雪が降らなければ、
風景は生き生きとしない。
雪が降っても、詩心が起こらないようでは、
その風景は俗っぽいものになってしまう。
夕暮れ時になって、やっと詩ができた。
その時また雪が降り出した。
梅と雪と詩の三拍子がそろって、それで完全な春となり、
いよいよ春の情趣を十分に味わえるというものである

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
方岳(1199~1262)は、南宋の詩人・文学者。
安徽省 の人。号・秋崖(しゅうがい)。
34才で進士に合格、吏部侍郎(しぶじろう)となり、
江西省の県知事を歴任した。
  吏部 : 官僚の人事を扱う職
農村出身のためか、農村をテーマにした詩が多い。

この詩は、二首連作の≪その2≫で、
本当の春というものは、自然の梅の花と気象の雪と
人の情趣をまとめた詩と、この三者が揃って、
初めて味わうことが出来るものと述べている。
春の趣を詠じながら理屈をこねた機知の詩である。
また、この詩は同じ文字を連鎖的に用いている
ところが大きな特長となっている。

雪 梅 : 雪中の梅。
精 神 : 生気があって美しいこと。生気が溢れていること。
俗 了 : 俗っぽくしてしまう。駄目にする。
 併  : 合わせる。
十分春 : 春たけなわ。爛漫の春
   
               

★ 四六駢儷体( しろくべんれいぶん)・・・東晋の時代に盛んだったが、
南宋の時代にも、美辞麗句を散りばめる詩がはやった。
駢儷とは馬を二頭立てで走らせる意で、対句構成の文を形容したもの。
四字と六字から成る対句を多用する華麗な文体となる
                 ・・・とのことです。  




     【 中国の絶句 】
  朱 熹 の 『酔うて祝融峰を下る』







地域のコンクール、四回目の参加

コンクール
03 /04 2018
3月4日(日) 地域のコンクールがありました。
北多摩二区吟剣詩舞道連盟 《吟詠コンクール大会》です。

平成30年度の指定吟題10句は こちら でご覧いただけます。

わが萠洲流からは8名が参加し、7名が受賞しました。

 28番 雪 梅        奨励賞
 45番 折 楊 柳   
 57番 九月十三夜陣中の作   奨励賞
 66番 九月十三夜陣中の作   入賞  
 70番 新涼書を読む      入賞
 79番 母を奉じて嵐山に遊ぶ  入賞
 90番 九月十三夜陣中の作   入賞
 96番 九月十三夜陣中の作   入賞
 
私は、 45番 折 楊 柳でした。
受賞しなかったのは私だけでした。

お稽古に参加して 四年が過ぎましたが、ようやく
詩吟の声に近づいてきたかな~というところで、
まだ、回しの部分が滑らかにいきません。
それから、オの母音がウに近くなってしまいます。
でも、コンクールでは初めて着物を着て、気分良く
落ち着いて出来たので良かったと思っています。

 

    【コンクール】
  平成30年度 コンクール10句の模範吟




朱 熹 の 『酔うて祝融峰を下る』

中国の絶句
03 /02 2018
続絶句編 250  
 2018年3月2日 続絶句編 169ページ

   酔うて 祝融峰を 下る    朱 熹
 我 来って 万里 長風に 駕す
 絶壑の 層雲 許く 胸を 盪かす
 濁酒 三杯 豪気 発す
 朗吟 飛び下る 祝融峰


 ようて しゅくゆうほうを くだる   しゅ き
われ きたって ばんり ちょうふうに がす
ぜつがくの そううん かく むねを うごかす
だくしゅ さんばい ごうき はっす
ろうぎん とびくだる しゅくゆうほう

テキストの通釈によると、
万里の彼方から吹いてくる風に乗って、
この祝融峰にやってきた。深い谷から
もくもくと湧き出る、幾重にも重なった
雲の風景は、私の胸を盛んにゆり動かす。
濁り酒を立て続けに三杯も飲むと、
たちまち豪快な気分がわき起こり、
高らかに詩を吟じながら、飛ぶように
祝融峰を走り下ってきた

    ・・・とのことです。

先生のお話によると、    
朱 熹は、南宋の哲学者であり、詩人、文章家。
1148年、19才で進士に合格。
1170年、40才頃に朱子学を確立させた。

この詩は38才の9月、長沙の岳麓山中にある岳麓書院に
張南軒という学者を訪れ、2ヶ月間、彼と起居を共にし、
大いに議論を交わす有意義な日々を送った。
この間、張南軒と祝融峰に登った時に作られたものである。
朱熹の充実し切った若い情熱のたぎりが、この詩に溢れている。
道徳感の強い詩が多いが、この詩のように
情熱のほとばしりを感じる詩も多く残されている。

祝融峰 : 湖南省にある衝山(こうざん・南岳とも呼ばれている)
   の峰の名。七十二峰の中の最高峰で1298m。
長 風 : 遠くから吹き来る風。
 駕  : 乗って。
絶 壑 : 深い谷。
層 雲 : 幾重にも重なった雲。
 許  : こんなにも。
 盪  : 胸を揺すぶること。
豪 気 : 豪快な気分。
       ・・・とのことです。  
   
               

朱熹(1130~1200)は、張南軒と、李延平という
   ふたりの師の流れを継いで朱子学を完成させた。
張南軒(1133~1180、本名・張栻)の学問は、
   北宋二程・程顥(ていこう)、程頤(ていじ)を承け、
   朱熹との交友で発達した。
李延平(1093~1163、本名・李侗)は、
   朱熹の父・朱松(しゅしょう)と親しかった。
   朱熹も弟子となり、宋学の大成に至った。




     【 中国の絶句 】
  朱 熹 の 『書を観て感有り』







 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?