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5回目の総会 『酔うて祝融峰を下る』

総会温習会
04 /29 2018
続絶句編 250  
 2018年3月2日 続絶句編169ページ  

平成30年4月29日、
総会と、総会温習会がありました。

平成30年度 総会温習会のプログラムは、
1、春日家に還る   正岡 子規
2、九月十三夜陣中の作   上杉 謙信
3、折 楊 柳   楊 巨 源
4、酔うて祝融峰を下る   朱 熹
5、太平洋上作あり   安達 漢城
6、海 南 行   細川 頼之
7、春夜洛城に笛を聞く   李 白
8、坂本龍馬を思う   河野 天籟
9、母を奉じて嵐山に遊ぶ   頼 山陽
10、江畔独歩花を尋ぬ   杜 甫
11、静 夜 思   李 白
12、静 夜 思   李 白
13、九月十三夜陣中の作   上杉 謙信
14、弘道館に梅花を賞す   徳川 景山
15、舟中子規を聞く   城野 静軒
16、九月十三夜陣中の作   上杉 謙信
17、静 夜 思   李 白
18、平泉懐古   大槻 盤渓
19、静 夜 思   李 白
20、春日家に還る   正岡 子規
21、母を奉じて嵐山に遊ぶ   頼 山陽
22、芳野に遊ぶ   頼 杏坪
23、芳野に遊ぶ   菅 茶山
24、静 夜 思   李 白

25、花朝澱江を下る  藤井 竹外  松岡萠洲 先生 模範吟 
     

    ◆    ◆    ◆
  

私は4回目の総会温集会で、4番 『酔うて祝融峰を下る』でした。

また、松岡萠洲先生より、清水花洲という吟号をいただきました。
ありがとうございます。





   【総会温習会】
  4回目の総会、正岡子規 『春日家に還る』






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河野鉄兜 の 『 芳 野 』

日本の絶句
04 /25 2018
絶句編テキスト

2018年4月25日 絶句編 78ページ  

   芳 野      河野鉄兜 
 山禽 糾断 夜 寥々
 限り無きの 春風 恨 未だ 銷せず
 露臥す 延元 陵下の 月
 満身の 花影 南朝を 夢む
   
 よしの    こうのてっとう
さんきん きゅうだん よる りょうりょう
かぎりなきの しゅんぷう うらみ いまだ しょうせず
ろがす えんげん りょうかの つき
まんしんの かえい なんちょうを ゆめむ


テキストの通釈によると、
山中の鳥の叫びが、かん高く響き渡り、
しんしんと夜は更けていく。吹きやまぬ春風も、
いまだに晴れがたい後醍醐天皇のご無念が
こもっているようで、凄まじく感じられる。
せめて今宵は御霊をばお慰め申そうと、
陵(みささぎ)のほとりで月光の下に野宿をすれば、
白々と咲く桜の花影を身にいっぱい映しながら、
いつしかまどろんでしまい、南朝のことをば
夢見ていたのである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
河野 鉄兜(1826~1867)は幕末の儒者、漢詩人。
名は絢夫または羆(しぐま)
播磨国網干村(現在の姫路市網干区)出身。
医者の家に生まれたが、漢詩の才能に優れ、
15才の時、一夜に100首を詠じたという。

初め、讃岐丸亀の吉田鶴仙に学び、20才の頃、
京都で梁川星巌に詩を学んだ。のちに江戸出て見聞を広め
1852年28才で林田藩(姫路市林田町)に仕官して
藩校《致道館》の儒官になった。攘夷論者ではなかったが
頼鴨涯などの勤王の志士と交わった。
30才で林田で家塾を開いた。博学で絵画・和歌などにも
通じていて、話し上手のため門人も集まってきた。
全国各地に遊学、生涯、家庭を持たず、43才にて没す。

            

山 禽 : 山の小鳥。
糾 断 : 叫んで。
   「断」は絶える意ではなく、意味のない助辞。
寥 々 : 淋しいさま。ここでは夜の更けたさま
 銷  : 消に同じ。けすこと。とくこと。ちらすこと。
露 臥 : 野宿する。
延元陵 : 後醍醐天皇の御陵で、いわゆる塔ノ尾陵
     ・・・ とのことです。



★「芳野三絶」は、吉野山の桜と南朝への思いを詠った漢詩のうち、
 代表的な七言絶句、つぎの3首をいう。(芳野は吉野の雅称)
   梁川星巌の『芳野懐古』
   藤井竹外の『芳野懐古』

   河野鉄兜の『 芳 野』

  ※頼杏坪の「遊芳野(芳野に遊ぶ)」を入れることもあるとのこと。





     【 日本の絶句 】
   頼 鴨涯 の 『 春簾雨窓 』








頼 鴨涯 の 『 春簾雨窓 』

日本の絶句
04 /25 2018
絶句編テキスト

2018年4月25日 絶句編 77ページ  

   春簾雨窓      頼 鴨涯 
 春は 自ら 往来して 人は 送迎す
 愛憎 何事ぞ 陰晴を 惜しむ
 花を 落すの 雨は 是れ 花を 催すの 雨
 一様の 檐声 前後の 情
   
 しゅんれんうそう    らい おうがい
はるは おのずから おうらいして ひとは そうげいす
あいぞう なにごとぞ いんせいを おしむ
はなを おとすの あめは これ はなを もよおすの あめ
いちようの えんせい ぜんごの じょう


テキストの通釈によると、
春は自然にやってきて自然に去って行く。
人はこの去来を送り迎えすればよいわけであるが、
なかなかにそうはゆかぬものの様である。
何も、雨が降ったから花も台無しだと思い、晴れたから
花が見られると一々憎んだり喜んだりすることはないのである。
花を散らす雨は、つまり花の咲くのをうながした雨、
同じ雨なのである。(今、簾ごしに春雨の景色を
眺めながら、軒端の雨垂れの音を聞いているが)
同じこの雨垂れの音も花の咲く前と咲いた後とでは、
聞くものに愛憎両様の気持ちを起こさせることである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
頼 鴨涯(1825~1859)は、幕末の尊皇攘夷派の志士・儒学者。
本名は三樹三郎で頼山陽の三男(京都の奥さんの2番目の息子)

父・山陽をはじめ、16才からは大坂の儒学者に学んだ。
19才で江戸に出て、昌平黌で学んだが、徳川将軍家の
菩提寺である寛永寺の石灯籠を破壊して退学処分とされた。
その後、東北地方から松前藩へとまわり、松浦武四郎と親交。
1849年25才で京都に戻り、再び勤王の志士として活動するが、
母の注意もあって自重していたが、母が死去すると
家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。
1858年、将軍家跡目争いでは、徳川(一橋)慶喜擁立を求め、
大老の井伊直弼から危険人物の一人と見なされた。

梁川星巌がコレラで亡くなる際、鴨涯が最期を看取ったという。
同年、安政の大獄で捕らえられ、江戸に送られて幽閉され、
伝馬町牢屋敷で橋本左内や飯泉喜内らとともに斬首された。
享年35才。墓は京都にある長楽寺と松蔭神社とにある。

愛 憎 : 天気が良いと喜び、雨になると憎む。
陰晴惜 : 花を落とす雨を残念に思って憎む。
   「陰」はくもり。「惜」は「陰」だけにかかって「晴」にはかからない。
檐 声 : 軒に滴るあまだれの音。
前後情 : 花の咲く前と咲いた後の気持ち。
     ・・・ とのことです。

            

安政の大獄、死刑・獄死者
橋本左内………越前福井藩松平春嶽家臣、斬罪
梅田雲浜………小浜藩士、獄死
吉田松陰………長州藩毛利敬親家臣、斬罪
頼鴨涯(三樹三郎)……京都町儒者、斬罪
安島帯刀………水戸藩家老、切腹
鵜飼吉左衛門…水戸藩京都留守居役、斬罪
鵜飼幸吉………水戸藩京都留守居役助役、獄門
茅根伊予之介…水戸藩奥右筆、斬罪
飯泉喜内………元土浦藩士・三条家家来、斬罪
日下部伊三治…薩摩藩士、獄死
藤井尚弼………西園寺家家臣、獄死
信海……………僧侶、月照の弟、獄死
近藤正慎………清水寺成就院坊、獄死
中井数馬………与力、獄死

隠居・謹慎者
一橋慶喜………一橋徳川家当主(徳川慶喜)
松平春嶽………福井藩主
徳川慶篤………水戸藩主(9月30日に免除)
徳川慶勝………尾張藩主
伊達宗城………宇和島藩主
山内容堂………土佐藩主
堀田正睦………佐倉藩主
太田資始………前掛川藩主 他 多数

★1860年3月3日、桜田門外にて井伊直弼が殺害された
 二年後、慶喜が将軍後見職に、春嶽が政事総裁職となる。




     【 日本の絶句 】
   菊池三渓 の 『新涼書を読む』








菊池三渓 の 『新涼書を読む』

日本の絶句
04 /22 2018
絶句編テキスト

2018年4月22日 絶句編 76ページ  

   新涼書を読む      菊池三渓 
 秋は 動く 梧桐 葉 落つるの 初
 新涼 早く 已に 郊墟に 到る
 半簾の 斜月 水よりも 清く
 絡緯 声中 夜 書を 読む
   
 しんりょうしょをよむ    きくちさんけい
あきは うごく ごどう は おつるの はじめ
しんりょう はやく すでに こうきょに いたる
はんれんの しゃげつ みずよりも きよく
らくい せいちゅう よる しょを よむ


テキストの通釈によると、
秋の気配はすでに青桐の葉の落ちそめるとき感じられ、
新涼の気は早くも郊外の野に忍び寄っている。
中空から斜めに簾の半分ほどを照らした月の光は、
水よりも清らかに澄んでいる。
まさに灯火親しむの候である。聞こえるものは
ただ『くつわむし』の声、それを聞きながら
書を読むことは最高の楽しみである。
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
菊池三渓(1819~1891)は、幕末から明治にかけての漢学者。
菊池家は紀州徳川家に仕え、曽祖父の代より儒学をもって仕えた

1858(安政5)年、徳川家茂が将軍就任の折、侍講となり江戸に移った。
1859(安政6)年、家茂に従って上洛、奥儒者に抜擢されたが、
1864(元治元)年、政変のため左遷され、その後、辞職した。
1865(慶応元)年、46才で下総国に逗留し、筑波山に登っている。
また、宗道村名主の隠宅を借りて塾を開く。

明治になって、下館藩、笠間藩、土浦藩などに招かれ、講義。
明治4年、東京、翌年、京都に移り、出筆活動。
1881(明治14)年、東京に戻り、警視庁御用掛となり、
翌々年、大阪府中学一等教諭を務めた後、京都に戻った。

1891(明治24)年、中国地方、北陸地方を歴訪中、
脳溢血により小浜で、73才にて亡くなる。

            

新 涼 : 初めて催す涼気。初秋の涼しさ、爽やかさ。
梧 桐 : 青桐。日本では多く校庭や街路に植えられるが、
   中国では庭木になくてはならないとされる。
郊 墟 : 郊外の野。
半 簾 : 半分おろした簾。
絡 緯 : くつわむし。こおろぎと見る説もある

★第13代将軍徳川家定が病弱で跡取りなく亡くなったため、徳川家茂が第14代将軍就任の折、菊池三渓は家茂の侍講となって江戸に移った。この時、家茂は12才、菊池三渓は40才であった。家茂は16才で皇女和宮と結婚。17才、18才、19才で3度の上洛。菊池三渓はこの上洛にも従っていた。家茂は20才で、長州との戦いで大敗する最中に大阪城で亡くなった
     ・・・ とのことです。





     【 日本の絶句 】
   元田 東野 の 『 中 庸 』






元田 東野 の 『 中 庸 』

日本の絶句
04 /22 2018
絶句編テキスト

2018年4月22日 絶句編 75ページ  

   中 庸      元田 東野 
 勇力の 男児は 勇力に 斃れ
 文明の 才子は 文明に 酔う
 君に 勧む 須らく 中庸を 択び 去くべし
 天下の 万機は 一誠に 帰す
   
 ちゅうよう    もとだ とうや
ゆうりょくの だんじは ゆうりょくに たおれ
ぶんめいの さいしは ぶんめいに よう
きみに すすむ すべからく ちゅうようを えらび ゆくべし
てんかの ばんきは いっせいに きす


テキストの通釈によると、
勇気をたのみ腕力を誇るものは、結局は粗暴と
無分別によって身を滅ぼしてしまうものであり、
ただ文明に憧れる才子は、文明に心酔するあまり、
わが国固有の美点、長所を忘れて無節操、
軽薄な人物となりかねない。
そこで君にぜひ勧めたいことは、常に不偏中正の道をえらび、
これに則した考えをもち、行動をとることである。
『中庸』にあるごとく、天下のあらゆることが起こる
微妙な点は、すべてただ一つの誠によるのであるから、
それを失わないようにしなければならない
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
元田 東野(1818~1891)は、幕末から明治にかけての漢学者。
肥後熊本の生まれ。本名は永孚(ながざね)
父が多忙であったため、祖父により
厳しい教育を受け、「唐詩選」「論語」を学び、
11才の時に藩校時習館で学んだ。

1858年、家督を継ぎ元田家8代目となり、
1869年、東大江村に私塾「五楽園」を開いた。
翌年(明治3)、藩主の侍読に推挙され、
翌々年、藩命で上京し、明治天皇の侍読となり、
以後20年にわたって天皇への進講を行うことになる。
1891(明治24)年、従二位・男爵を授けられた
翌日、病のため、72才で死去。

中 庸 : 中国の古典『四書』の一つ。
   編者は孔子の孫の子思(しし)で、儒学の基本をのべ、
   誠の道を説いたもの。それは左右に偏せず、過不足なく
   時代にも状況にも支配されぬ中正の道である。
    ※ 四書・五経=中国の古典
文 明 : 人の知恵が進み、世の中が便利に、
   また豊かに(物質的に)なること。これは物理的なことで、
   これ自体は喜ぶべきことであるが、当時は【文明開化】と
   称して無条件に西洋文化に憧れ、いわゆる『欧化時代』を
   現出し、伝統的なものをことごとく否定する傾向があった
   ので、それらの軽薄な人士を戒めたのである。
択 去 : 「去」は助詞。動作のおもむく勢いを示す。
万 機 : 万事。全ての事の微妙な点。
   「機」とは、働きの起こるところの意。
     ・・・ とのことです。



    【 日本の絶句 】
   日柳 燕石 の 『 春 暁 』






 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?