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菅原 道真 の 『 門を出でず 』

日本の律詩
05 /25 2018
門を 出でず   菅原 道真

 一たび 謫落せられて 柴荊に 在りしより
 万死 兢々たり 跼蹐の 情
 都府楼は 纔かに 瓦色を 看
 観音寺は 只 鐘声を 聴く
 中懐 好し 孤雲を 逐うて 去り
 外物 相逢うて 満月 迎う
 此の地 身に 検繫 無しと 雖も
 何為れぞ 寸歩も 門を 出でて 行かん


 もんを いでず   すがわらの みちざね
ひとたび たくらくせられて さいけいに ありしより
ばんし きょうきょうたり きょくせきの じょう
とふろうは わずかに がしょくを み
かんのんじは ただ しょうせいを きく
ちゅうかい よし こうんを おうて さり
がいぶつ あいおうて まんげつ むこう
このち みに けんけい なしと いえども
なんすれぞ すんぽも もんを いでて ゆかん


◆ 先生のお話によると、
菅原 道真(845~903)については こちら にもありますが、
平安時代の学者・政治家で、文章博士でもあった。
宇多天皇(59代)に認められて、宮中に上がり、
醍醐天皇が13才で即位した折、右大臣となった。
この時、藤原時平が左大臣となった。
道真 55才、時平 27才であった。

当時は、藤原氏一門が外戚となって摂関政治が
行われていた。藤原氏一門の当主である
藤原時平による醍醐天皇への讒言により
901年1月、道真は大宰府に左遷され、
その2年後の3月に59才で亡くなった。
役職は名ばかりの太宰権師(だざいのごんのそつ・大宰府副長官)であった。
浄妙寺(榎寺)は、謹慎生活に入った処です。

・5行目 

・6行目 …、

・他は良いと思いますが、気が付いたら連絡します。
詩の意味は、
自分は身に覚えのない罪によって左遷され、
今は柴や荊で作られた狭い家にこもり
門を閉じて外と交際しない状態である。
罪は万死に価し、身の置き所がない思いでいる。

 讁落=左遷される。讁はとがめられること。
 柴荊=柴や荊でつくった粗末な家。
 跼蹐=跼天蹐地 頭が天に触れないよう身をかがめ
     堅い土の上も抜き足で歩く

都府楼(役所の高殿)は、木々の間から
わずかに瓦の色をあおぎみるのみであり、
近くにあるのに一度も訪ねたことのない
観音寺の鐘の音をただただ聴くだけである。

 観音寺=大宰府にある天台宗の観世音寺  
 浄妙寺(榎寺)は、謹慎生活に入った処

青空に浮かぶ一片の白雲が去るように、浮世のことは忘れて
自分で自分を責め、外界の事象のすべてに対して
満月が無心に万物を照らし迎えるような円満な心である。

 中懐=自分の心の中に抱きもつ感情
 外物=白楽天の詩の影響を受けている。

この地にいて、わが身に束縛されるものは一切
無いとはいえ、どうして、門を出て行くことができようか、
自分は一寸たりとも門を出て行くことはしない。

 検繫=束縛されるもの
 何為れぞ=どうして~だろうか、いや~ではない
      ・・・ とのことです。


こちら に よると、
・・・大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の、荒れ放題で放置されていた廃屋(榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという。また、時平の差し向けた刺客が道真を狙って謫居周辺を絶えず徘徊していたという。
謫居には、左遷時に別れをあまりにも悲しみ慕われたため仕方なく連れてきた姉紅姫、弟隈麿幼い2人の子供がいた。『菅家後集』「慰少男女詩」で親子で励ましあって一緒に生活していたことが綴られている。また、2人を連れて館のまわりを散歩していると、小さな池にたくさんの蛙がおり、親兄弟が揃ってにぎやかに鳴き声をあげていた。その声を聞いていた道真が、離れ離れになった家族のことなどを思い出して一首詠むと、歌を聞いた池の蛙たちは、不遇な道真たちの心を察したのかこののち鳴かなくなったという伝承がある。
しかし、902年秋頃に弟の隈麿が他界、数か月後に左遷時に病床にあった妻も他界し、その10日後に道真も他界した。残された紅姫は、亡き父から託された密書を四国にいる長兄菅原高視に届けるために密かに大宰府をたった。藤原氏の追手が迫る中、若杉山麓に身を潜め、山上の若杉太祖神社に守護を祈願したが、いつしか刺客にみつかり、篠栗の地で非業の最期を遂げたという。現在は、紅姫稲荷神社に紅姫天王という稲荷神として祀られている。
・・・自分のみじめな姿を見に来る野次馬への苦痛、自分の心が狂想におちいってること、仏に合掌して帰依し座禅を組んでいること、言論封殺のため自由に詩を作ることを禁じられたこと、自身の体が痩せこけ白髪が増えていってることや、着物が色あせていくこと、政敵の時平一派にたいする憤り、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへの後悔、捏造された罪状が家族・親戚まで累が及ぶことと、過去の功績の抹殺にたいしての痛恨と悲憤を綴っている。
・・・梅ヶ枝餅は道真が大宰府へ員外師として左遷され悄然としていた時に、老婆が道真に餅を供しその餅が道真の好物になった、或いは道真が左遷直後軟禁状態で食事もままならなかったおり、老婆が軟禁部屋の格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという伝承が由来とされる。
         ・・・ とのことです。
   



       【日本の律詩】

   菅原 道真 の 『 秋思の詩 』






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菅原 道真 の 『 秋思の詩 』

日本の律詩
05 /18 2018
 秋思の詩   菅原 道真

 丞相 年を 度って 幾たびか 楽思す
 今宵 物に 触れて 自然に 悲し
 声は 寒し 絡緯 風 吹くの 処
 葉は 落つ 梧桐 雨 打つの 時
 君は 春秋に 富み 臣 漸く 老ゆ
 恩は 涯岸なく 報ゆること 猶 遅し
 知らず 此の 意 何にか 安慰せん
 酒を 飲み 琴を 聴き 又 詩を 詠ず


 しゅうしの し   すがわらの みちざね
じょうしょう としを わたって いくたびか らくしす
こんしょう ものに ふれて しぜんに かなし
こえは さむし らくい かぜ ふくの ところ
はは おつ ごどう あめ うつの とき
きみは しゅんじゅうに とみ しん ようやく おゆ
おんは がいがんなく むくゆること なお おそし
しらず この こころ いずくにか あんいせん
さけを のみ ことを きき また しを えいず



◆ 先生のお話によると、

この詩の原題は、
「九日後朝同(こうちょうとも)に秋思を賦し制に應ず」で、
900年9月10日、宮中の宴にて
醍醐天皇より「秋思」の勅題に応じて作られた。

菅原 道真(845~903)は平安時代の学者・政治家である。
菅家は、代々の学者で、道真は文章博士でもあった。
宇多天皇(59代)に認められて、宮中に上がる。
醍醐天皇が13才で即位し、道真は右大臣となった。
この時、藤原時平が左大臣となった。
道真 55才、時平 27才であった。

当時は、藤原氏一門が外戚となって力をつけて
摂関政治が行われていた。
   摂政・・・天皇が未成人
   関白・・・天皇が成人

この詩が醍醐天皇に認められて、御衣を賜った。

丞相とは、諸葛孔明がこのように呼ばれていたが
天皇を補佐して執政を行う大臣のこと。


詩の意味は、
自分は右大臣となって年を経て、
幾度となく楽しい思いもして参りましたが、
   (この場合、楽思の≪思≫は助字である)
なぜか、今宵9月10日は見るもの、聞くものすべて
何となく悲しく、自然に気が滅入るばかりです。

吹く風が冷たく、コオロギたちの声が胸に沁み入る思いで、
そぼふる雨に桐の葉が落ちるのがたまらなく淋しい。

わが君(醍醐天皇)は、お若く(春秋に富み)、
将来への可能性を持ち、
臣(自分)は、めっきり老い、気の弱まりを感じます。
はてしない(涯岸なく)君のご恩に報いることが、
自分の存命中にできますかどうか。

この自分の胸中をお伝えしようにも術のない有様で
憂鬱な気持ちをはらすため(白楽天にならって)
酒を飲み、琴を聴き、また詩を詠じて自分を慰めようと存じます。



その後、道真は藤原氏の讒言により大宰府に流された。
醍醐天皇から御衣を賜ったこの宮中の宴より一年後、
大宰府にて作られた詩が 『九月十日』 である 
       ・・・ とのことです。
    

【感想】
若い醍醐天皇を補佐するトップの座についていたものの
摂関政治を押し進める藤原氏にとって自分は≪じゃま者≫
まわりには不穏な動き、気配が感じられ、沈うつな
気持ちで作られた詩なのかな~と思いました。




       【日本の律詩】

   有智子内親王 の 『春日山荘』






有智子内親王 の 『春日山荘』

日本の律詩
05 /11 2018

 春日山荘   有智子内親王

 寂々たる 幽荘 山樹の 裏
 仙輿 一たび 降る 一池塘
 林に 棲む 孤鳥 春沢を 識り
 澗に 隠るる 寒花 日光を 見る
 泉声 近く 報じて 初雷 響き
 山色 高く 晴れて 暮雨 行る
 此れより 更に 知る 恩顧の 渥きを
 生涯 何を 以ってか 穹蒼に 答えん


 しゅんじつ さんそう  うちこないしんのう
せきせきたる ゆうそう さんじゅのうち
せんよ ひとたび くだる いちちとう
はやしに すむ こちょう しゅんたくを しり
たにに かくるる かんか にっこうを みる
せんせい ちかく ほうじて しょらい ひびき
さんしょく たかく はれて ぼう つらなる
これより さらに しる おんこの あつきを
しょうがい なにを もってか きゅうそうに こたえん


◆ 先生のお話によると、
有智子内親王(807~847)は、第52代嵯峨天皇の第8皇女。
嵯峨天皇が即位した翌年、4才で初代賀茂斎院に卜定される。
823年、17才のとき、嵯峨天皇が斎院へ行幸した際に
作られた内親王の詩に感嘆した天皇より三品に叙された。

832年、24才で病により退下したが、翌年、二品に昇叙。
847年、41才にて死去した。

嵯峨天皇は、弘法大師、橘 逸勢 とともに三筆のひとり。
絶句『山の夜』『江上の船』の作者で、漢詩人でもある。

伊勢神宮の場合、斎宮は元からあったが、
賀茂斉院は、下賀茂神社の中にある斉院で、
嵯峨天皇が開院を決め、斉院は卜定で決められた。

詩の意味は、
寂しくて静かな山の奥の山荘、うっそうと樹木が茂っている。
仙人(天皇)の乗る輿が、このほど池のほとりに行幸された。

林に棲む一羽の鳥(内親王自身)が、春のめぐみを知った。
谷間の川に隠れた花(内親王自身)が、
日の光を見る思い、幸せな気持ちでいる。

泉の流れ出る音が近くに聞こえて、
天には、夏の初めに鳴る雷が響いている。
山の景色は高く晴れているが、日暮れの雨が通り過ぎていく。
(天皇が行幸され、シンと静まっていた辺りが賑わっている)

改めて、天皇のご慈愛がどんなにか厚く深いかを知った。
自分の生涯において、穹蒼(天皇の恩沢)に
どのようにお答えしたらよいのでしょうか。


 父親である嵯峨天皇が間近く奉じて下さり、
 幸せな気持ちを詩情豊かに、詠った詩である
       ・・・ とのことです。
    

【感想】 父親である天皇が尋ねてくれたことに対して、
 恩顧の渥きに深く感動し、この恩にどのように
 生涯をもってどう答えていこうか? という気持ちは
 現在の親子の感覚から考えると、なぜ?と疑問にも
 思いました。けれども、嵯峨天皇には50人ほどの
 皇子や内親王がいたようですので、そのうちの一人
 でしかない自分に目をかけて下さった天皇のご恩に
 深く感謝してこの詩が作られたのかと少し納得できました。



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