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吉田松陰 の 『 辞 世 』

日本の絶句
05 /31 2018
絶句編テキスト

2018年5月31日 絶句編 82ページ  

   辞 世    吉田松陰 
 吾 今 国の 為に 死す
 死して 君親に 負かず
 悠々たり 天地の 事
 艦照 名神に 在り 
   
 じせい    よしだ しょういん
われ いま くにの ために しす
しして くんしんに そむかず
ゆうゆうたり てんちの こと
かんしょう めいしんに あり

テキストの通釈によると、
今、私は国のために命を捨てようとしている。
(私の行ったこと考えたことは、いっさいが
 国の前途を思ってのことであって、そこに
 一片の私情もさしはさんでいない)
志半ばで処刑されても、天子・両親に背くところは
少しもないと信ずる。悠々とした天地の間に於ける
さまざまな人間の歴史の中で、後世に残るものと
言えば、自己のすべてを捧げて行った私心なき
忠誠である。この忠誠こそは神明が照覧されて
いることであるから、私は何等の後悔の念もなく、
従容として死につくことが出来る
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
吉田松陰(1830~1859)は、長州藩士・杉百合之助の次男。
山鹿流兵学師範の叔父・吉田家の養子となり、兵学を修める。
1835年にその叔父が死亡し、別の叔父・玉木文之進が開いた
松下村塾で指導を受け、9才で明倫館の兵学師範に就任。
11才のとき、藩主・毛利慶親への御前講義をして、
才能が認められた。19才で萩藩請校・明倫館師範となる。

1850年、九州に遊学した後、藩主に従って江戸に出て
佐久間象山らに学ぶ。
1852年、東北旅行を計画、出発日の約束を守るため、
長州藩からの通行手形の発行を待たずに脱藩。
江戸に帰って士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

1854年、ペリーが日米和親条約締結のために再航した折、
金子重之輔と2人で、密航しようとしたが失敗し捕えられ、
国許蟄居となり、翌年、杉家に幽閉の処分となる。

1857年、叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、
杉家の敷地に松下村塾を開いた。ここで、松陰は
久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋らを教えた。

1858年、幕府が日米修好通商条約を締結したことを激怒。
条約破棄と攘夷の実行を画策するが受け入れられず、
倒幕の考えにも至り、長州藩に、野山獄に幽囚される。

1859年、梅田雲浜が幕府に捕縛され、雲浜が萩で
松蔭に面会していることなどから、安政の大獄に連座。
萩から江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄され、
伝馬町牢屋敷にて、斬首の刑となった。
享年30(満29才)の若さであった。

★ この詩は、刑死の7日前に郷里に送ったものである。
★ 松蔭は、広瀬淡窓と並んで吟詠家の先達と言える。
★ 萩に松蔭神社があるが、世田谷にもある。

   ◆   ◆   ◆

辞 世 : (この世に別れを告げて死ぬこと)
   死に際に感想などを詠んだ詩や歌など。     
艦 照 : 映し照らすこと。明らかに見分けること。
名 神 : あらたかな神。

     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   西郷南州 の 『亡友月照十七回忌辰の作』








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西郷南州 の 『亡友月照十七回忌辰の作』

日本の絶句
05 /31 2018
絶句編テキスト

2018年5月31日 絶句編 81ページ  

   亡友月照十七回忌辰の作    西郷南州 
 相約して 淵に 投ず 後先 無し
 豈 図らんや 波上 再生の 縁
 頭を 回らせば 十有余年の 夢
 空しく 幽明を 隔てて 墓前に 哭す 
   
 ぼうゆうげっしょうじゅうしちかいきしんのさく 
               さいごう なんしゅう
あいやくして ふちに とうず こうせん なし
あに はからんや はじょう さいせいの えん
こうべを めぐらせば じゅうゆうよねんの ゆめ
むなしく ゆうめいを へだてて ぼぜんに こくす

テキストの通釈によると、
(月照とともに逃れて来た頼みのわが薩摩藩も、
身のおくところがなく、はや運命もこれまでと)
両人約束して薩摩の海の深みに身を
投じたのは、後先なく一緒であった。ところが、
どうしたことであろうか。前世からの因縁により
自分一人波の上に再び生き返ろうとは、
まことに信じられないほど意外であった。
思い返せば早くも十幾年前のことになるが、
昨日のように生々しく思い出される。
(今日は亡友月照の十七回忌の命日)むなしく
幽明境を異にし、互いに二度と相見ることが出来ない。
これを思うと悲しさに堪えず、墓前に額づき、
思わず声をあげて泣いたことであった
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
西郷 隆盛(1828~1877)は、薩摩藩士・軍人・政治家。
薩摩藩の下級藩士(郷士)の長男。南洲は号である。
吉之助→吉兵衛→明治以降・西郷隆盛を名のる。
藩主・島津斉彬(なりあきら)に抜擢され、お庭番、
現在の秘書のような役となり、強い影響を受けた。

公武合体政策で、篤姫が将軍家定に嫁ぐ時などに
活躍したが、斉彬の急死で失脚。奄美大島に流され
その後復帰するが、次の藩主・島津久光に反発したため
二回目の島流しで、沖永良部島に流罪となる。
しかし、大久保利通らの力添えで復帰したものの
三回目、徳の島に流される。が、三度、呼び戻され、
薩長同盟の成立や王政復古、戊辰戦争を主導した。

江戸城の総攻撃を前にして、勝海舟らと交渉し、
江戸の無血開城に力を注いだ。その後、薩摩へ
帰ったが上京し、明治4年、新政府参議となり、
陸軍大将などを務めたが、大久保らと対立。
征韓論を唱えたが反対され、鹿児島に戻って、
私学校での教育に当たっていた。

佐賀の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、
1877(明治10)年、西南戦争の指導者となるが、
敗れて城山で自刃した。51才であった。

   ◆   ◆   ◆

月 照 : 京都清水寺成就院の僧。猛烈な勤皇家で
   南洲が京都で勤皇の志士とともに大いに画策した
   ころからの同志で、幕府から厳しく探索されていた。
   南洲は近衛忠熙(ただひろ)の依頼を受け、守護して
   京都を逃れ、前後して薩摩に入ったが、藩庁は
   幕府を恐れて、月照を日向(宮崎県)に送ると称して
   国境で斬り捨てることを決めた。
   今はこれまでと考えた両人は、護送の途中、
   錦江湾心岳寺沖の船中から相抱いて入水したが、
   南洲は蘇生し、月照は絶命した。
   1858(安政5)年、南洲33才、月照46才であった。   
忌 辰 : 命日。
相 約 : 約束して誓う。ここでは互いに死を約束したこと。
投 淵 : 薩摩の海に投身。「淵」は川の流れが回流する
   ところで澱んで流れのほとんど無いところをいうが、
   ここでは深い海の意。
後 先 : 早い遅い。
豈 図 : どうしてこのような結果になることを
   予想し得たであろうか。反語の用法。
再生縁 : 自分だけが蘇生するという因縁。南洲だけが
   漁夫に助けられて蘇生するという前世からの定め。
幽 明 : あの世とこの世。幽界と明界、
   死と生の二つの界。

★ 大久保利通(幼なじみ)、木戸孝允(長州)、西郷隆盛、
 明治の三傑と言われている
     ・・・ とのことです。


             


こちら によると、
月照(1813~1858)は、大坂の町医者の長男として生まれ、
1835年、京都の清水寺成就院住職となり、西郷隆盛と親交があり、
島津斉彬が急死したとき、殉死しようとした西郷を止めた。

1858(安政5)年から始まった安政の大獄で追われる身となり、
西郷の強い希望により、薩摩藩に海路逃れたが、藩では
月照の保護を拒否し「日向国送り」を命じる。
これは、薩摩と日向との国境で殺害することを意味していた。
これを知った月照は死を覚悟し、西郷とともに錦江湾に入水。
月照は死亡したが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。

  『 月照 辞世の歌 』
大君の ためにはなにか 惜しからむ 
          薩摩の瀬戸に 身は沈むとも

 (直筆は香川県の海岸寺宝物館に保管されている)

月照の死後、弟・信海(1821~1859)が、成就院の住職を継いだが
兄などとともに活躍したことから捕縛され、江戸で獄死した(享年39)
     ・・・とのことです。

★ このあと、西郷は死去したものとされ名前を変えて
 奄美大島に流された (一回目の島流し)。




     【 日本の絶句 】
   西郷南州 の 『 偶 感 』








西郷南州 の 『 偶 感 』

日本の絶句
05 /27 2018
絶句編テキスト

2018年5月27日 絶句編 80ページ  

   偶 感      西郷南州 
 幾たびか 辛酸を 歴て 志 始めて 堅し
 丈夫 玉砕するも 甎全を 恥ず
 我が 家の 遺法 人 知るや 否や
 児孫の 為に 美田を 買わず
   
 ぐうかん    さいごう なんしゅう
いくたびか しんさんを へて こころざし はじめて かたし
じょうふ ぎょくさいするも せんぜんを はず
わが いえの いほう ひと しるや いなや
じそんの ために びでんを かわず


テキストの通釈によると、
いくたびか艱難辛苦を経験して初めて
志が堅くなり、不屈の精神が養われるのである。
男子としては玉となって砕けるとも、瓦となって
生命を全うすることを恥辱とするものである。
我が家には先祖から伝わった子孫の守るべき
掟がある。それはご存知かどうか分らないが、
子孫のために田畑など財産を残し、安楽に世を
送らせるようなことは絶対にしない主義なのである。
(そんな事をしたならば、かえって子孫のためにならない
ことで、意志の強固な人物など出来はしないのである)
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
西郷 隆盛(1828~1877)は、薩摩藩士・軍人・政治家。
薩摩藩の下級藩士(郷士)の長男。南洲は号である。
吉之助→吉兵衛→明治以降・西郷隆盛を名のる。
藩主・島津斉彬(なりあきら)に抜擢され、お庭番、
現在の秘書のような役となり、強い影響を受けた。

公武合体政策で、篤姫が将軍家定に嫁ぐ時などに
活躍したが、斉彬の急死で失脚。奄美大島に流され
その後復帰するが、次の藩主・島津久光に反発したため
二回目の島流しで、沖永良部島に流罪となる。
しかし、大久保利通らの力添えで復帰したものの
三回目、徳の島に流される。が、三度、呼び戻され、
薩長同盟の成立や王政復古、戊辰戦争を主導した。

江戸城の総攻撃を前にして、勝海舟らと交渉し、
江戸の無血開城に力を注いだ。その後、薩摩へ
帰ったが上京し、明治4年、新政府参議となり、
陸軍大将などを務めたが、大久保らと対立。
征韓論を唱えたが反対され、鹿児島に戻って、
私学校での教育に当たっていた。

佐賀の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、
1877(明治10)年、西南戦争の指導者となるが、
敗れて城山で自刃した。51才であった。

            

偶 感 : 折にふれて、ふと思い浮かんだ感想。
丈 夫 : 責任と自覚をもって行動する一人前の男子。
   (中国古代の周の制で成年男子の身長を一丈としたことから)
玉 砕 : 玉のようにくだける、りっぱな死に方をいう。
甎 全 : 瓦となって安全に生き残ること。
   何もしないで生き長らえること。
美 田 : りっぱな田畑。転じて豊かな財産のこと。

★ 明治2年、正三位を与えられたが南洲はそれを固辞した。
 この詩は、その頃の気持ちをこめて作詩されたものである。
★ 大久保利通(幼なじみ)、木戸孝允(長州)、西郷隆盛、
 明治の三傑と言われている
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   山内容堂 の 『 逸 題 』








山内容堂 の 『 逸 題 』

日本の絶句
05 /27 2018
絶句編テキスト

2018年5月27日 絶句編 79ページ  

   逸 題      山内容堂 
 風は 妖雲を 捲いて 日 斜ならんと 欲す
 多難 意に 関して 家を 思わず
 誰か 知らん 此の 裏 余裕 有るを
 馬を 郊原に 立てて 菜花を 看る
   
 いつだい    やまのうち ようどう
かぜは よううんを まいて ひ ななめならんと ほっす
たなん いに かんして いえを おもわず
たれか しらん この うち よゆう あるを
うまを こうげんに たてて さいかを みる


テキストの通釈によると、
風は妖しい雲を捲いて、はや日も暮れようとしている。
(それはちょうど太平の長い眠りを破って外国の軍艦が、
 わが海辺をしきりに窺い、いかなる事態が起ころうとする
 のか予測もつかないさまに似て不気味である)
まことに国家の多難が思われ、家のことなど顧みる暇もない。
しかし、このことのあるは前々から熟慮して来たところで、
いまさら何を慌てようか。自分がこういう時局に対して
ゆったりした気持ちを持っていることなど誰も知るまいが、
その胸中おのずから閑ありで、こうして乗馬を野中に
とどめて、今を盛りの菜の花見物をする折もあるのである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
山内豊信(とよしげ・1827~1872)は、幕末の外様大名で、
第15代土佐藩主。容堂は隠居後の号である。
初代藩主・山内一豊は(一豊の妻で知られる)、
もともとは秀吉の家臣であったが、家康に味方し、
遠州6万石から土佐24万石に移封された。

その15代藩主となった豊信は、革新派の吉田東洋を起用。
福井藩主・松平春嶽や、薩摩藩主・島津斉彬らとも交流し、
公武合体や幕政改革なども訴えた。老中、阿部のあと、
大老に就いた井伊直弼とは将軍継嗣問題で対立。
豊信は、徳川斉昭・松平春嶽らと共に謹慎となり、
藩主の座を譲り、隠居の身となって、容堂と号した。

桜田門外の変のあと、尊王攘夷の動きが活発となり、
土佐藩でも武市瑞山(半平太)ら土佐勤王党が台頭し、
1862年、容堂の意をくむ吉田東洋が暗殺された。

翌年、容堂は謹慎を許され、土佐に戻ると、
東洋を暗殺した土佐勤王党員を捕縛し、投獄した。
瑞山は切腹、他の党員らをも死罪などに処した。

一方、東洋が暗殺される直前に脱藩していた
坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介によって、
1866年、 薩長同盟が成立、明治維新へと移行していく。

容堂は、幕府を擁護し続けた一人であったが、
倒幕への動きを止めることは出来ず、
15代将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出、
1867年、政権が朝廷に返還された。

晩年は江戸(東京)で、酒と作詩に明け暮れて過ごした。
武市瑞山を殺してしまったために薩長に対抗できる
土佐の人物を欠いてしまったことを悔やんだともいう。
1872(明治5)年、46才、脳溢血に倒れ、生涯を閉じた。

            

逸 題 : 特に題をつけない詩。失題と同じ。
妖 雲 : 妖しい雲。
   ここでは外国の軍艦が海辺に出没することをいう。
此 裏 : このところ。今の事態において。
   『裏』は、処の意。
郊 原 : 野原

★ この詩は、幕末に国内が騒然としていた頃の作詩である
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   河野鉄兜 の 『 芳 野 』








菅原 道真 の 『 門を出でず 』

日本の律詩
05 /25 2018
門を 出でず   菅原 道真

 一たび 謫落せられて 柴荊に 在りしより
 万死 兢々たり 跼蹐の 情
 都府楼は 纔かに 瓦色を 看
 観音寺は 只 鐘声を 聴く
 中懐 好し 孤雲を 逐うて 去り
 外物 相逢うて 満月 迎う
 此の地 身に 検繫 無しと 雖も
 何為れぞ 寸歩も 門を 出でて 行かん


 もんを いでず   すがわらの みちざね
ひとたび たくらくせられて さいけいに ありしより
ばんし きょうきょうたり きょくせきの じょう
とふろうは わずかに がしょくを み
かんのんじは ただ しょうせいを きく
ちゅうかい よし こうんを おうて さり
がいぶつ あいおうて まんげつ むこう
このち みに けんけい なしと いえども
なんすれぞ すんぽも もんを いでて ゆかん


◆ 先生のお話によると、
菅原 道真(845~903)については こちら にもありますが、
平安時代の学者・政治家で、文章博士でもあった。
宇多天皇(59代)に認められて、宮中に上がり、
醍醐天皇が13才で即位した折、右大臣となった。
この時、藤原時平が左大臣となった。
道真 55才、時平 27才であった。

当時は、藤原氏一門が外戚となって摂関政治が
行われていた。藤原氏一門の当主である
藤原時平による醍醐天皇への讒言により
901年1月、道真は大宰府に左遷され、
その2年後の3月に59才で亡くなった。
役職は名ばかりの太宰権師(だざいのごんのそつ・大宰府副長官)であった。
浄妙寺(榎寺)は、謹慎生活に入った処です。

・5行目 

・6行目 …、

・他は良いと思いますが、気が付いたら連絡します。
詩の意味は、
自分は身に覚えのない罪によって左遷され、
今は柴や荊で作られた狭い家にこもり
門を閉じて外と交際しない状態である。
罪は万死に価し、身の置き所がない思いでいる。

 讁落=左遷される。讁はとがめられること。
 柴荊=柴や荊でつくった粗末な家。
 跼蹐=跼天蹐地 頭が天に触れないよう身をかがめ
     堅い土の上も抜き足で歩く

都府楼(役所の高殿)は、木々の間から
わずかに瓦の色をあおぎみるのみであり、
近くにあるのに一度も訪ねたことのない
観音寺の鐘の音をただただ聴くだけである。

 観音寺=大宰府にある天台宗の観世音寺  
 浄妙寺(榎寺)は、謹慎生活に入った処

青空に浮かぶ一片の白雲が去るように、浮世のことは忘れて
自分で自分を責め、外界の事象のすべてに対して
満月が無心に万物を照らし迎えるような円満な心である。

 中懐=自分の心の中に抱きもつ感情
 外物=白楽天の詩の影響を受けている。

この地にいて、わが身に束縛されるものは一切
無いとはいえ、どうして、門を出て行くことができようか、
自分は一寸たりとも門を出て行くことはしない。

 検繫=束縛されるもの
 何為れぞ=どうして~だろうか、いや~ではない
      ・・・ とのことです。


こちら に よると、
・・・大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の、荒れ放題で放置されていた廃屋(榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという。また、時平の差し向けた刺客が道真を狙って謫居周辺を絶えず徘徊していたという。
謫居には、左遷時に別れをあまりにも悲しみ慕われたため仕方なく連れてきた姉紅姫、弟隈麿幼い2人の子供がいた。『菅家後集』「慰少男女詩」で親子で励ましあって一緒に生活していたことが綴られている。また、2人を連れて館のまわりを散歩していると、小さな池にたくさんの蛙がおり、親兄弟が揃ってにぎやかに鳴き声をあげていた。その声を聞いていた道真が、離れ離れになった家族のことなどを思い出して一首詠むと、歌を聞いた池の蛙たちは、不遇な道真たちの心を察したのかこののち鳴かなくなったという伝承がある。
しかし、902年秋頃に弟の隈麿が他界、数か月後に左遷時に病床にあった妻も他界し、その10日後に道真も他界した。残された紅姫は、亡き父から託された密書を四国にいる長兄菅原高視に届けるために密かに大宰府をたった。藤原氏の追手が迫る中、若杉山麓に身を潜め、山上の若杉太祖神社に守護を祈願したが、いつしか刺客にみつかり、篠栗の地で非業の最期を遂げたという。現在は、紅姫稲荷神社に紅姫天王という稲荷神として祀られている。
・・・自分のみじめな姿を見に来る野次馬への苦痛、自分の心が狂想におちいってること、仏に合掌して帰依し座禅を組んでいること、言論封殺のため自由に詩を作ることを禁じられたこと、自身の体が痩せこけ白髪が増えていってることや、着物が色あせていくこと、政敵の時平一派にたいする憤り、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへの後悔、捏造された罪状が家族・親戚まで累が及ぶことと、過去の功績の抹殺にたいしての痛恨と悲憤を綴っている。
・・・梅ヶ枝餅は道真が大宰府へ員外師として左遷され悄然としていた時に、老婆が道真に餅を供しその餅が道真の好物になった、或いは道真が左遷直後軟禁状態で食事もままならなかったおり、老婆が軟禁部屋の格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという伝承が由来とされる。
         ・・・ とのことです。
   



       【日本の律詩】

   菅原 道真 の 『 秋思の詩 』






 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?