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新井 白石 の 『 容 奇 』

日本の律詩
06 /29 2018
容 奇     新井 白石

 曽て 瓊鉾を 下して 初めて 雪を 試む
 紛々たる 五節 舞容 閑なり
 一痕の 明月 茅渟の 里
 幾片の 落花 滋賀の 山
 剣を 提げて 膳臣 虎跡を 尋ね
 簾を 捲いて 清氏 竜顔に 対す
 盆梅 剪り 尽して 能く 客を 留め
 済い 得たり 隆冬 無限の 艱


  ゆ き    あらい はくせき
かつて けいぼうを くだして はじめて ゆきを こころむ
ふんぷんたる ごせち ぶよう かんなり
いっこんの めいげつ ちぬの さと
いくへんの らっか しがの やま
けんを ひっさげて かしわで こせきを たずね
れんを まいて せいし りょうがんに たいす
ぼんばい きりつくして よく かくを とどめ
すくいえたり りゅうとう むげんの かん

先生のお話によると、
新井白石(1657~1725)は、江戸時代中期の学者・政治家。
白石は号で、本名は君美(きみよし)。 父は、
上総の国(千葉県)久留里・土屋家の家臣であった。
白石は、3才で父の読む儒学の書物をそっくり書き写し、
17才で、中江藤樹の『翁問答』を読み儒学を志したという。
21才で寺子屋を開いた。
26才で大老・堀田正俊に仕えたが、堀田が殿中で刺殺され、
白石は浪人となり、また寺子屋を開き、独学で儒学を学んだ。
その後、朱子学者・木下順庵に入門。
入門に当たって白石は束脩(入学金)を免ぜられ、
弟子というより客分として待遇されたという。
順庵の門下生には、室鳩巣など後に高名な学者になる者が
多く集まっていて、白石にとっては大変に有意義であった。

37才、木下順庵から甲府徳川家への仕官を推挙され、
甲府藩主・徳川綱豊(つなとよ)に仕えることになった。
綱豊は、子宝に恵まれなかった徳川5代将軍・綱吉の
世子となり、名を家宣(いえのぶ)と改め6代将軍となった。
家宣は、白石や間部詮房(まなべあきふさ)を側近とし、
正徳の治(せいとくのじ)と呼ばれる政治改革を行った。

53才で、白石は500石取りから1,000石に加増されたが
無役の旗本であったため、将軍・家宣からの諮問に
側用人・間部を通して白石が答えるという形を取った。
家宣のあと、7代将軍・家継(いえつぐ)が夭逝し、
8代将軍・吉宗となり、間部とともに白石も失脚した。
当時は一面に麦畑が広がるような千駄ヶ谷の地を
幕府より与えられて隠棲。晩年は不遇の中でも
著述と学問研究に明け暮れ、69才で没した。


詩の意味は、
太古の昔、イザナギノミコトとイザナミノミコトのお二人の神様が鉾をかき回してポトンと4滴たらしたら4つの点、日本列島が出来た。その時、草木などと同じように清浄な雪もお造りになられた。
天武天皇が芳野に行幸され、『五節の舞』をご覧になられたが、公家の娘3人と国司の娘2人らの舞姿は、雪が舞い散るように雅でもの静かであった。

 瓊 鉾 = 玉のぬぼこ
 五節の舞 = 新嘗祭
 
三日月に照らされて、茅渟の棲む大阪湾の白砂は雪のようであり、
滋賀の山々にとめどなく桜の花が散っているのは雪のようである。

 一痕の明月 = 三日月
 茅渟 = 大阪湾にいる魚、大阪湾を象徴する魚、黒鯛
 滋賀の山 = 天智天皇の時代に6年間、滋賀の
       近江に都があり、桜で有名であった。

欣明天皇(29代)の命令で、膳臣巴堤便(かしわでのおみはこび)という武士が百済に派遣されることになった。夜、子どもが居なくなった。その夜、大雪が降って、雪の上についた虎の足跡をたどって行ったら虎の穴に着き、膳臣は子どもの仇をうった。
一条天皇の皇后定子にお仕えしていた清少納言は、一条天皇の『香炉芳の雪はいかに?』という問いに対して簾を巻き上げた。(常日頃の勉学の努力なしに出来ることではない)
 
 膳臣の虎跡 = 日本書紀に載っている故事
 清少納言 =  父・清原元輔少納言であった
       当時は、白氏文集(白楽天の日記)に
       人気があり、その影響を受けていた。

鎌倉幕府執権だった北条時頼は出家したのち、身分を隠して諸国を旅した。佐野(今の栃木県)で大雪に遭い、関東武士・佐野源左衛門の家に泊めてもらった。源左衛門の家は貧しく、燃やすものもなく、大切にしていた
梅の盆栽を焚き木にして暖をとり客をもてなした。
厳しい寒さと苦難から時頼を救った雪にまつわる話である。

 佐野源左衛門 = 能の演目『鉢木』に出てくる人物。
    後に鎌倉幕府から動員命令が下り、源左衛門も駆け付け、
    雪の日に泊まった僧が、鎌倉幕府・北条5代目の執権、
    時頼であったことを知り、時頼から恩賞を与えられた。
 隆冬 = 厳寒
 艱  = かたい、むずかしい、けわしい
   
         ◆  ◆  ◆

この詩は、新井白石がさる身分の高い人に招待され
容奇の二文字を示され、作詩を依頼され、即興で、
雪にまつわる故事にたとえて作った詩である
   ・・・ とのことです。





   
     【日本の律詩】

   伊藤仁斎 の 『一乗寺に遊ぶ』






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西 道僊 の 『 城山 』

日本の絶句
06 /26 2018
絶句編テキスト

2018年6月26日 絶句編 86ページ  

    城山      西 道僊 
 孤軍 奮闘 囲を 破って 還る
 一百の 里程 塁壁の 間
 吾が 剣は 既に 摧れ 吾が 馬は 斃る 
 秋風 骨を 埋む 故郷の 山
   
  しろやま    にし どうせん
こぐん ふんとう かこみを やぶって かえる
いっぴゃくの りてい るいへきの かん
わが けんは すでに おれ わが うまは たおる
しゅうふう ほねを うずむ こきょうの やま

テキストの通釈によると、
孤立して援兵もない軍勢で、諸方の敵を破り、重囲を
脱して、やっと故郷の鹿児島に戻ってくることができた。
それは実に百里もあろうかと思われる遠い道程で、
その間至るところ敵のとりでがあった。
わが剣はすでにくだけ折れ、馬もたおれて死んだ。
もはやこれまでである。
今は吹きわたる秋風の中で、懐かしい
故郷の城山に、この骨を埋めるばかりである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
西 道僊 (1836-1913)は、熊本県天草郡の出身。
熊本の家業の漢方医を継ぎ、長崎で開業。
長崎区会議長・医師会副会長などを務め、
教育者でもあり、大正2年78才にて没した。

城山は、鹿児島市のほぼ中央にある107mの山。
鹿児島城跡でもあり、頂上より少し下った処の洞窟
「岩崎谷の洞」で、明治10年9月24日 (旧暦)、
西郷隆盛は、別府晋介の介錯で、自害した。

   ◆   ◆   ◆

孤 軍 : 援兵のない孤立した軍隊。
破囲還 : 田原坂の敗戦から、人吉・宮崎・高鍋・
   延岡・長井の各地を転戦し、8月17日から
   翌日にかけ、長井の西方「可愛(えの)岳」を登り
   払暁(ふつぎょう・夜明け)官軍の包囲網を突破し
   三田井を経て、鹿児島に入ったことを指す。
一百里程 : 長井から鹿児島まで30里の間、
   至るところの官軍の守兵を破っての帰還は、
   まさに百里の思いであったことだろう。
塁 壁 : 諸方に設けられたとりで
     ・・・ とのことです。


 こちら によると、
この詩は作者が西南の役が起こった時、深く共鳴していたが、隆盛が戦いに敗れ、城山で自刃したことを聞き嘆いて、弔う意をこめて作った詩と云われてます。「我が剣は既に折れ、吾が馬は斃る」は崇拝している西郷南洲になり変っての句である。

南洲は乱をなす気持ちは毛頭なかったし、その心情を一番よく理解せられていたのは明治天皇である。明治16年旨を吉井友実に伝えてその遺族の近情を問わせられ、22年2月11日の憲法発布にあたり、その罪を赦して正三位を追贈され35年6月3日嗣子寅太郎を華族に列し侯爵を授けられた。作者は一世の英傑維新第一の功臣たる南洲の悲惨な最期に満腔の感情をよせたものである
     ・・・とのことです。

 また、こちら では、
政府軍は軍服に靴履き、薩軍は和服の袴、草履履き、雨の浸み込んだ服は動きに不利であり、武器も旧式銃だったといいます。大砲も鹿児島からいくつもの峠を越え、熊本まで運ぶ事は大変で4日かかったといいますが、政府軍は電信網を巡らし早急に情報をつかみ、薩軍が熊本に着く2日前には待ち構えていたようです。田原坂と吉次峠に隊を分け、どちらも大変な激戦で、雨のように降り来る銃弾は、資料館のかち合い弾を見ても想像つきますね。攻防は17日間続いたようです
     ・・・とのことです。






     【 日本の絶句 】
   篠原国幹 の 『 逸題 』








篠原国幹 の 『 逸題 』

日本の絶句
06 /26 2018
絶句編テキスト

2018年6月26日 絶句編 85ページ  

    逸題      篠原国幹 
 馬を 緑江に 飲うは 果して 何れの 日ぞ
 一朝 事 去って 壮図 差う
 此の 間 誰か 解せん 英雄の 恨み
 手を 袖にして 春風 落花を 詠ず
   
  いつだい    しのはら くにもと
うまを りょくこうに みずこうは はたして いずれの ひぞ
いっちょう こと さって そうと たごう
この かん たれか かいせん えいゆうの うらみ
てを そでにして しゅんぷう らっかを えいず

テキストの通釈によると、
(虎の威を借る狐のごとく、大国 『清』を後ろ盾とした最近の朝鮮の無礼は日増しに増大、今にしてこれを打たずんば悔いを千歳に残すであろう。かの秀吉のように兵を繰り出して朝鮮を征伐し)
軍馬に鴨緑江の水を飲ませるのは、何時のことであろうか。

(さして遠い日ではあるまいと思い、日々軍令の下るのを待っていたが、なんと西郷先生以下の面々の「征韓論」は破れ)遠征の機会は去り、わが雄図もむなしく故郷に帰った。

この英雄失意の無限の痛恨を誰が理解し得ようか。

今はただ、春風に散る花を眺め、漫然と詩を作っている日々である。
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
篠原国幹(1837~1877)は薩摩藩士で、西郷隆盛ら
多くの英傑を出している下級藩士の住まいである
鹿児島城下加治屋町で生まれた。通称は篠原冬一郎。
西郷隆盛より、だいたい9才年下である。

寺田屋騒動のあと、鹿児島に戻って謹慎処分となった。
その後、薩英戦争では砲台での守備を担当、
戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いで官軍として活躍。
上野の彰義隊との戦いでは、正面の黒門口を攻撃。
奥羽白川の戦い、会津攻城戦でも軍功を挙げている。

その後、陸軍大佐を経て、陸軍少将になると
近衛長官として明治天皇の前で、軍事演習を披露し、
その指揮ぶりが称賛されたほどであった。
1873(明6)年、西郷隆盛が鹿児島に下野すると、
篠原も、天皇に説得されるも陸軍近衛長官を辞して
鹿児島に戻り、村田新八らと共に私学校を設立。

1877(明10)年、西南戦争となり熊本城への攻撃。
南下してきた官軍と、田原坂の戦いとなり、
3月4日の早朝、政府軍による奇襲攻撃。吉次峠の
攻防戦では銃弾を受け、命を落とした。享年41。

この戦いで、政府軍の江田少佐は陣頭に立って指揮する
赤裏外套姿の篠原を見つけ、射撃の名手に狙撃を命じた。
数発の銃弾を受けた篠原はその場に崩れ落ちたという。
その後、江田少佐も薩摩兵から狙撃されて命を落とした。

西南戦争における官軍の死者は6,922名、戦傷者9,252名
西郷軍の戦死者は、約5千名、戦傷者約1万名、
両軍の死傷者を合わせると3万数千名にものぼったという。

   ◆   ◆   ◆

逸 題 : 無題・漫述・偶成などの意。
緑 江 : 鴨緑江。朝鮮と旧満州(中国東北部)の
   境界を西に流れる大河。
事 去 : 征韓論に破れての下野をいう。
壮 図 : 盛んなる計りごと。ここでは征韓をさす。
英 雄 : すげれた大丈夫。ここでは自身をいう。
袖 手 : 手をこまぬく。何もしないこと。
一 朝 : 何か事があれば。いったんは。

★この詩は、篠原国幹が陸軍近衛長官を辞して
 薩摩に戻った後に胸の内を詠ったものである

     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   木戸孝允 の 『 偶 成 』








第58回 全朗協 『吟と舞の集い』

全朗協『吟と舞の集い』
06 /24 2018
平成30(2018)年6月24日(日)10時から
江戸川区総合文化センターにて
全国朗吟文化協会主催による
第58回 全朗協 『吟と舞の集い』 が ありました。
第58回 全朗協 吟と舞の集い1

わが吟詠萠洲流からは次の14名が参加しました。

第一部(合吟の部)があり、

第二部(独吟その1)では、
  9、春日家に還る
 21、九月十三夜陣中の作 
 29、海 南 行
 31、酔うて祝融峰を下る
 39、静 夜 思
 
第三部(剣詩舞その1)

◆式典

第四部(会長・副会長・副理事長・地区代表者吟詠)
 58、初 夏 即 事 松岡萠洲先生

第五部(独吟その2)
 62、壇の浦夜泊
 71、九月十三夜陣中の作
 77、芳野に遊ぶ

第六部(剣詩舞その2)

第七部(独吟その3)
 87、平 泉 懐 古 
 95、春日家に還る
104、芳野に遊ぶ

◆構成吟 詩吟と舞で綴る
 ≪日本紀行(その2) 四国・山陽・山陰道を行く≫
 12、芳野に遊ぶ
 15、冬夜書を読む

第八部(少壮吟士吟詠)

第58回 全朗協 吟と舞の集い2
第58回 全朗協 吟と舞の集い松岡先生
今年度から、わが師匠 松岡萠洲先生が全朗協の
会長に就任され、式典にて ご挨拶をされました。

また、子どもたちによる 心なごむ舞いもありました。
子どもたちの舞い 小


         


私は 昨年 に続いて3回目の参加で、
朱熹 作 『酔うて祝融峰を下る』でした。

今年も、帰りには、参加した女性たちに花束を
いただきました。 持ち帰って室内に活けて
10日間ほども楽しませていただきました。

 


      【全朗協】
  第57回 『吟と舞の集い』

 






伊藤 仁斎 の 『一乗寺に遊ぶ』

日本の律詩
06 /22 2018
一乗寺に遊ぶ   伊藤 仁斎

 秋色 蒼茫 翠微に 上り
 雲は 老樹に 交わり 雁 初めて 飛ぶ
 山園 柿 熟し 烏 銜んで 去り
 渓澗 蕈 稠く 人 負うて 帰る
 市 遠ければ 看ず 塵の 漠々たるを
 林 深ければ 只 見る 霧の 霏々たるを
 尋ねんと 欲す 他日 身を 棲ましむる 処
 比叡 山前 野水の 磯


 いちじょうじに あそぶ    いとう じんさい
しゅうしょく そうぼう すいびに のぼり
くもは ろうじゅに まじわり かり はじめて とぶ
さんえん かき じゅくし からす ふくんで さり
けいかん きのこ おおく ひと おうて かえる
まち とおければ みず ちりの ばくばくたるを
はやし ふかければ ただ みる きりの ひひたるを
たずねんと ほっす たじつ みを すましむる ところ
ひえい さんぜん やすいの いそ

先生のお話によると、
伊藤 仁斎(1627~1705)は、江戸時代の儒学者・思想家。
京都堀川町の材木商の家に生まれたが、家を継がないで
29才で隠棲、30代の頃、胸部疾患で闘病生活を送り、
その中、36才で家塾・古義堂を立ち上げた。
当時、儒学の中には朱子学・陽明学などいろいろな学派が
あったが、伊藤仁斎は、孔子や孟子の古典を直接に学んで
原点に戻るべきとする 古学派の代表的存在であった。
どの藩にも仕官せず、町の学者として最後まで通し、
79才で没し、その弟子は3000人を超えた。
40才を過ぎてから結婚、52才で妻に先立たれ、
その数年後に再婚した。仁斎の5人の男子は皆
すぐれた儒学者となった。

詩の意味は、
秋の気配は青々として広大で、瓜生山の中腹から
7~8合目位まで上って、さらに上を仰ぎ見ると、
雲は老樹にたれて、今年初めて雁が列をなして飛んでいく。

 一乘寺 = 京都市左京区一乗寺町
 瓜生山 = 一乘寺から目の前に見える山
 翠 微 = みどり(翠)が微かになってくる山の七・八合目付近

山間の家の近くには熟した柿がなっていて、
その柿を烏が口に銜えて飛び去っていく。
谷川近くでは、香りが漂ってくるほど沢山の蕈(しめじか?)が
生えているのか、人が採って背中の籠に入れて帰っていく。

 山 園 = 山の家の庭、または畑
 銜 = 口に含む、銜える
 溪 澗 = 谷川
 蕈 = 茸(きのこ)、湿地(しめじ)

町から遠く離れているので、馬車や人があげる
塵や埃もなく、清らかで美しく、清浄そのものであり、
林が深いため、ただ厚く漂っている霧だけが見える。
 
 漠 々 = 遠く果てしないさま
 霏 々 =  深く立ち込めているさま

将来、隠棲する地を探すとしたら、比叡山前、
一乗寺近く、野水の磯(河原)の辺りが良いかなと思う。

 尋ねんと欲す = もし聞かれたら、こう答える
    
         ◆  ◆  ◆

この詩は、伊藤仁斎が71才の時の作である
   ・・・ とのことです。


  【 感 想 】
当時の人たちの寿命などを考えると、仁斎が71才で
『 将来 隠棲するとしたら、このように自然豊かな地を
探したい』という気持ちになったことがすごいと思いました。





   
     【日本の律詩】

   石川 丈山 の 『 幽居 即事 』






 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?