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菅 茶山 の 『 赤馬が関 懐古 』

日本の律詩
07 /27 2018
赤馬が関 懐古     菅 茶山

 蜑雨 茫々たり 海上の 村
 水浜 何れの 処か 英魂を 問わん
 秖 聞く 波底に 皇居 在るを
 誰か 信ぜん 人間に 老仏の 存するを
 鷁首 還らず 楚沢を 悲しみ
 鵬程 際なく 厓門に 接す
 腥風 吹断す 蓬窓の 夢
 島樹 汀雲 鬼気 昏し


  あかまがせき かいこ     かん ちゃざん
たんう ぼうぼうたり かいじょうの むら
すいひん いずれの ところか えいこんを とわん
ただ きく はていに こうきょ あるを
たれか しんぜん じんかんに ろうぶつの そんするを
げきしゅ かえらず そたくを かなしみ
ほうてい かぎりなく がいもんに せっす
せいふう すいだんす ほうそうの ゆめ
とうじゅ ていうん きき くらし


先生のお話によると、
菅 茶山(1748~1827)は江戸時代中~末期の漢詩人。
茶山は号で、本名は、晋帥(ときのり)。
備中(岡山県)、神辺町(現・広島県福山市)の出身。
山陽道の宿場町の農家に生まれる。
京都で学んで、31才の時、神辺に私塾・
黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開き、
誰でもが学べ、貧富による差別のない社会を望んだ。

福山藩の藩校は弘道館であったが、藩主に認められ
49才の時、私塾が福山藩の郷校として認められ、
廉塾(れんじゅく)と改称した。
頼 山陽 も ここで学んでいる。
茶山は、福山藩の儒官ともなって弘道館にも出講。
詩集『黄葉夕陽村舎詩』が刷られている。


 詩の意味は、
漁師の里に降る雨が、茫々と辺り一面
かつての古戦場・海上の村にも広がっている。
壇の浦の水辺、合戦で亡くなった英雄たちの魂を
いったい何処に尋ねたら良いだろうか?

 蜑 雨 = 蜑 は、中国の港、広東州・福建省辺りの漁師
     ここでは、漁師の里という意味に使われている。
 英 魂 = 壇の浦の合戦で亡くなった英雄たちの魂
    
ただ聞くことができるのは、海底に皇居があるということを。
そして、誰が信ずることができるであろうか、
明の建文帝が逃れて老仏と名を変えて、市井に隠れていた伝説と同じく、
安徳帝が人間に身を隠されたと言う故事は信ずる事は出来ない。
 
 皇 居 = 二位の尼(平清盛の妻・時子)が
    『海底にも都がある』と言って、幼い安徳天皇を
    抱いて入水したとと言われている。
 老 仏 = 老僧の尊称
    極貧の農民出の明の初代皇帝・朱元璋が亡くなり、
    朱元璋の孫の朱允炆(しゅいんぶん)=建文帝が
    16歳で即位したが、叔父の燕王に攻められ、南京が
    陥落した時、建文帝の遺体が見つからなかった。
    そのため、建文帝が僧侶に変装し、雲南・ベトナム
    方面に逃げたのではないかという説がある。 
    燕王・朱棣は、朱元璋の弟で、建文帝の叔父、
    明の三代目の皇帝・永楽帝となった。

西周の昭王の鷁首の船の帰還しなかった楚の沼沢の故事も悲しい事であり、
懐いは遠く、南宋の幼帝・衛王が厓門で入水した伝説に馳せ、安徳帝の悲運が偲ばれる。
 
 鷁 首 = 天子が乗る りっぱな船。
    竜頭鷁首、鷺に似た鳥、竜の飾り物→船の守り神
    紀元前1050年、西周の4代・昭王が楚の国を
    攻める途中、鷁首の船が行方不明となった。
    楚の国の沼とか沢に沈んで亡くなったという説がある。
 鵬 程 = 鵬が飛ぶ里程、鵬の一飛びは九万里と言われる。 
 厓 門 = 南宗が元に亡ぼされた時、最後に陥落したのが厓門。
    南宗末期の重臣・文天祥、張世傑とともに三忠臣と言われた
    陸秀夫が、厓山の戦いでは、まだ8才だった衛王をかかえて
    入水したという故事がある。安徳帝の悲運とも重なる。
        
生臭い風で、船の中で見る夢も断ち切られてしまい、
われに返ってみると島の樹木も、汀にかかっている雲も
鬼気がただよっていて、昏く思われることだ。

 腥 風= 生臭い風。壇の浦の戦いで多くの死者が出ている。
 蓬 窓 = 苫を下ろした船の窓 
    ・・・ とのことです。

        ◆  ◆  ◆

◆ 菅 茶山 については、
   『生田に 宿す』
   『冬夜 書を 読む』   でも ご覧いただけます。





     【日本の律詩】

   柴野 栗山 の 『 富士山を 詠ず 』






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佐野竹之助 の 『 出郷の作 』

日本の絶句
07 /21 2018
絶句編テキスト
2018年7月21日 絶句編 88ページ  

   出郷の作     佐野竹之助 
 決然 国を 去って 天涯に 向う
 生別 又 兼ぬ 死別の 時
 弟妹は 知らず 阿兄の 志
 慇懃 袖を 牽いて 帰期を 問う
   
  しゅっきょうのさく   さの たけのすけ
けつぜん くにを さって てんがいに むこう
せいべつ また かぬ しべつの とき
ていまいは しらず あけいの こころざし
いんぎん そでを ひいて ききを とう

テキストの通釈によると、
(国家百年の計を誤る姦賊・井伊大老の暗殺を決行しようと)
断固心を決めて水戸の国を立ち去り、
遠い天の果ての江戸に向う。
(この度の企ては万が一成功しても生還は期しがたい)
今日、家族の者と生きながら別れるが、これがまた
死の別れを兼ね、今生の暇乞いとなるのである。
幼い弟や妹は、それとも知らず、ねんごろに袖を
ひっぱり「お兄さん、お帰りはいつですか」という
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
佐野 竹之助(1839~1860)は、幕末の水戸藩士。
水戸9代藩主・徳川斉昭の近侍。
名は光明。竹之助は通称。

1860(万延元)年、脱藩して桜田門外の変で
井伊直弼の襲撃に携わった桜田十八士の一人。
(薩摩藩士が一人居たので総勢十九名)
当日3月3日は雪が積もった。竹之助は重傷を負い、
老中・脇坂安宅の屋敷に自首し、血判を提出、
その日に死去した。享年22才。

この詩は、家族との生別が、そのまま
死別となるという断腸の思いを詠っている。

★ 安政5(1858)~安政6(1859)年にかけて行われた
大老井伊直弼らによる安政の大獄では100人以上もの
尊王攘夷の志士や一橋派の大名・公卿らが粛清された。

   ◆   ◆   ◆

決 然 : 断固心を決して。
天 涯 : はるかな彼方。天の果て。
   この詩では、死の世界、死を覚悟して。
阿 兄 : 兄さん。
   「阿」は相手を親しんでいう時の助辞。
慇 懃 : ねんごろに。
帰 期 : 帰る日の時期
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   吉村寅太郎 の 『舟由良港に到る』








吉村寅太郎 の 『舟由良港に到る』

日本の絶句
07 /21 2018
絶句編テキスト
2018年7月21日 絶句編 87ページ  

   舟由良港に到る      吉村寅太郎 
 首を 回らせば 蒼茫たり 浪速の 城
 蓬窓 又 聴く 杜鵑の 声
 丹心 一片 人 知るや 否や
 家郷を 夢みず 帝京を 夢む
   
  ふねゆらこうにいたる    よしむら とらたろう
こうべを めぐらせば そうぼうたり なにわの しろ
ほうそう また きく とけんの こえ
たんしん いっぺん ひと しるや いなや
かきょうを ゆめみず ていきょうを ゆめむ

テキストの通釈によると、
(今しも船は淡路の由良の港に着いた。)
首をめぐらして振返れば、船出したあの大阪の町も
遥かに遠く、ぼんやりと霞んではっきり見えない。
(思えば、事は志と違い、無念にも故郷へ護送される身となった。)
とま舟の窓で血を吐くようなほととぎすの声を聞く私の心は重く苦しい。
一体、今の世に誰がこの胸中の一片のまごころを知ってくれようか。
今夜もこの船中で見る夢は故郷のことなどではなくて、
天皇の居られる京の都のことである。
(こうした気持は分かるものではない)
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
吉村 虎太郎(1837~1863)は、幕末の土佐藩の志士。
本名・重郷(しげさと)、号・黄庵、寅太郎は通称である。
12才で父の跡を継いで、庄屋となった。

城下にて武市半平太に剣術を学び、尊攘思想に傾倒、
1861年、武市半平太が結成した土佐勤王党に加盟。
その後、脱藩して、京都にて、寺田屋事件で捕えられ、
身柄を土佐藩に引き渡されて、国元へ送還された。
この詩はその途中、由良港に立ち寄った折に書かれた。
土佐では、8か月間、投獄された後、釈放された。

1863年、藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。
尊皇攘夷運動が最高潮に達していた時期であった。

寅太郎らは、孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく、
公卿中山忠光を主将とし、自ら総裁となり天誅組を組織し
大和の国で挙兵。幕府五條代官所を襲撃したものの
直後に起こった京都での八月十八日の政変により、
逆賊とされ、吉野鷲家口で幕府軍による包囲に遭い
一斉射撃を浴びて、天誅組は壊滅。
虎太郎も、絶命した。享年27才であった。

虎太郎、辞世の句
  吉野山 風に乱るる もみじ葉(楓葉)は
        我が打つ太刀の 血煙と見よ


天誅組の挙兵は、短期間で失敗に終わったものの、
幕府の威光の失墜をも進行させることとなったと言える。
戊辰戦争はこの5年後となる。

その後、1877(明治10)年に、名誉の回復。
1891(明治24)年、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎と共に
正四位が贈られ、後に「土佐四天王」と呼ばれることになった。

   ◆   ◆   ◆

由良港 : 淡路島の東岸にある港。
蒼 茫 : ぼんやりとして遥かなさま。
浪速城 : 大阪の町。
蓬 窓 : とまをかけた舟の窓。
杜 鵑 : ほととぎす (初夏の鳥)
帝 京 : 天子の都。京都
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   西 道僊 の 『 城山 』








柴野 栗山 の 『 富士山を 詠ず 』 

日本の律詩
07 /20 2018
 富士山を 詠ず     柴野 栗山

 誰か 東海の 水を 将って
 濯い 出す 玉芙蓉
 地に 蟠まって 三州 尽き
 天に 挿んで 八葉 重なる
 雲霞 大麓に 蒸し
 日月 中峰を 避く
 独立 原 競うこと 無く
 自ら 衆岳の 宗と 為る


  ふじさんを えいず     しばの りつざん
たれか とうかいの みずを もって
あらい いだす ぎょくふよう
ちに わだかまって さんしゅう つき
てんに さしはさんで はちよう かさなる
うんか たいろくに むし
じつげつ ちゅうほうを さく
どくりつ もと きそうこと なく
おのずから しゅうがくの そうと なる


先生のお話によると、
柴野 栗山(1736~1807)は、江戸時代の儒学者・文人。
讃岐国(現:香川県)で生まれた。家の近くにある
八栗山(やくりざん・307m)から号をつけた。
18才の頃、江戸に出て、湯島聖堂・昌平黌で学び、
32才の頃、徳島藩に儒学者として仕えるようになり、
徳島藩主・蜂須賀重喜と共に江戸に赴き、そのあと
京都にて学び、53才で昌平黌の教官となる。
50才を過ぎた頃、老中松平定信から呼び出され、
幕府に仕えるようになり、寛政の改革に伴って
『寛政異学の禁』では指導的立場となり、
朱子学以外を禁止する強い主張を通した。
湯島聖堂の最高責任者ともなり、74才にて没す。

詩の意味は、
いったい誰が、東海の水でもって、
玉の芙蓉のような富士山を洗い清めたのであろうか。
(天地万物を創造する神のなされたことのようだ)

 将って = 用いて
 芙 蓉 = 富士山の頂上には八つの峰があって
   八ひらの花びらをもつ蓮(=芙蓉)に例えている

大地に深くどっしりと広がり、三州(甲斐・相模・駿河)にまたがり、
その頂が天にまで高くそびえている様子は、まさに
芙蓉の八枚の花弁が重なり合っているかのように見える。

 蟠まる = 蛇がとぐろを巻く裾野がしっかり広がっているさま。
 三 州 = 甲斐(山梨)・相模(神奈川)・駿河(静岡)の三州
 插んで = 分け入って

雲や霞は、広大な裾野から湧き上がり、
日や月は、中央の峰(最高峰)を避けて通るかのようだ。
 
 蒸 し = 水蒸気などが湧き上がる
 中 峰 = 中央の高い峰 
        
すっくと聳える独立峰・富士山は、外に競うものも無く
自然と、多くの峰々の宗本山とも言える存在である。

  原 = そのさま
 衆 岳 = たくさんの山々、多くの峰々 
  
         ◆  ◆  ◆

『寛政異学の禁』で指導的立場となった 柴野 栗山は、
古学派など諸学派の反発がある中でも、その政策を
強く押し通した
   ・・・ とのことです。





     【日本の律詩】

   太宰 春台 の 『 寧楽 懐古 』






太宰 春台 の 『 寧楽 懐古 』

日本の律詩
07 /13 2018
  寧楽 懐古     太宰 春台

 南土 茫々たり 古帝城
 三条 九陌 自ら 縦横
 籍田 麦 秀でて 農人 度り
 馳道 蓬 生じて 賈客 行く
 細流 低く 垂れて 常に 恨を 惹き
 閑花 歴乱として 竟に 情 無し
 千年の 陳迹は 唯 蘭若 
 日暮 呦々として 野鹿 鳴く


  なら かいこ     だざい しゅんだい
なんと ぼうぼうたり こていじょう
さんじょう きゅうはく おのずから じゅうおう
せきでん むぎ ひいでて のうじん わたり
ちどう よもぎ しょうじて こかく ゆく
さいりゅう ひくく たれて つねに うらみを ひき
かんか れきらんとして ついに じょう なし
せんねんの ちんせきは ただ らんにゃ
にちぼ ゆうゆうとして やろく なく


先生のお話によると、
太宰 春台(1680~1747)は江戸時代中期の儒学者・経世家。
信濃国飯田生まれ。春台は号で、本名は純。
父が藩主から改易され、浪人となり一家で
江戸へ出た。春台は苦学して学問を修め、
15才で、但馬出石藩の松平氏に仕えた。
21才で官を辞し、10年間、畿内を遊学する。
30才で大阪にて結婚。32才で江戸に戻った。
友人の紹介で荻生徂徠の門に入り、
36才の時、本格的に研究・執筆活動に入り、
江戸の小石川に塾・紫芝園を開き、多くの門人を集めた。
1747年、68才、江戸にて没した。

詩の意味は、
(京都から)南の地にある奈良に来てみれば、
かつて栄えた平城京であるが、草が茫々、
(江戸時代から見ても)はるか遠い昔の古帝城。
南北に走る三すじの道、東西に走る九すじの道が
碁盤の目のように整然と縦横に整備されている。

 三 条 = 三本の通り、三本の南北に走る道
 九 陌 = 九本のあぜみち、九本の東西に走る道
 三条九陌 = たくさんの街路

天子が祭りごとのためお造りになった耕作地に
今は麦が伸びていて、農民が野面を歩いて行き、
天子がその昔、行幸などでお通りになった道には
行商人たちが行き交っている。

 籍 田 = 天子の耕作地
 馳 道 = 天子が行幸などの折に通られた道
 賈 客 = 物売、行商人  

かつて貴人たちが愛でたであろう柳が、昔と
変わらずに枝を低く垂らして、常に恨みを
惹き起こしているように思われる。そして、
心静かに咲いている花(しだれ桜か)は、古都を
なつかしむような感情は持っていないであろう。
 
 閑 花 = のどかに咲いている花
 歴 乱 = 咲き乱れているさま 
        
1000年前の旧跡は、ただ寺院しか残っていない。
日暮れになると、ゆうゆうと野生の鹿が鳴き、
その声が、いっそう侘しさをつのらせる。

 陳 迹 = 古跡、旧跡 
 蘭 若 = 梵語(古代インドの言葉)東大寺などの寺院
 呦 々 = 鹿の鳴き声(淋しい感じを強める)
  
         ◆  ◆  ◆

太宰 春台は、経世(経世済民)家として経学をさらに発展させ、
    日本に『経済』という言葉を広めた人物でもある
   ・・・ とのことです。


【 感 想 】
 現在の奈良は、落ち着いた古都の風格のある街並みですが
 江戸時代の頃には、草が茂って、荒れ果てた侘しい感じに
 なっていたのかな~と思いました。




   
     【日本の律詩】

   室 鳩巣 の 『琵琶湖上の作』






 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?