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岩渓裳川 の 『 松島 』

日本の絶句
08 /25 2018
絶句編テキスト
2018年8月25日 絶句編 93ページ  

   松 島     岩渓裳川 
 水寺 茫々 日墓の 鐘
 驚濤 万丈 詩胸を 盪かす
 海竜 窟に 帰って 金燈 滅す
 雨は 余醒を 送って 乱松に 入る
   
  まつしま   いわたに しょうせん
すいじ ぼうぼう にちぼの かね
きょうとう ばんじょう しきょうを うごかす
かいりゅう いわやに かえって きんとう めっす
あめは よせいを おくって らんしょうに いる

テキストの通釈によると、
海辺の寺(瑞巌寺)の夕暮れの鐘が、
広々と果てしない海上に響き渡り、逆巻く
万丈の大波は、わが詩情を激しく揺り動かす。
 (詩を無性に作りたくなる)
海竜も岩穴に帰って(民間信仰があった)、
かがやく竜灯も消えてしまい、真っ暗な夕闇を
雨がなまぐさい竜の臭いの名残りを送って、
島々の入り乱れた松の木立に吹き込んでいる
     ・・・とのことです。

        ◆   ◆   ◆

先生のお話によると、
岩渓裳川(1852~1943)は明治・大正・昭和にかけての漢詩人。
兵庫但馬(福知山)の人。本名は晋(すすむ)幼時、父に素読を学ぶ。
明治6年に上京し、森春涛(しゅんとう)の門に入り、詩を学ぶ。

詳細はよく分らないが、文部省の官吏をしていた時
永井荷風の父親と知り合い、荷風に『三体詩』の
講義をしたりしていたという。
詩は杜甫・白居易を尊び、著書に裳川自選稿5冊がある。
二松学舎の教授、芸文社の顧問となり、昭和18年、92才没。

国分青厓(昭和19年、88才没、大東文化学園教授)
と共に、詩壇の双璧と言われた。

          ★  ★  ★

松 島 : 宮城県にある仙台湾の支湾一帯の景勝地。
   260余の小島があり、日本三景の一つ。 
水 寺 : 水辺の寺。瑞巌寺(ずいがんじ)をいう。
   臨済宗・妙心寺派。仙台市内にも瑞巌寺があり、
   二寺とも、伊達家代々の菩提寺。
茫 々 : 広く遠いさま。
驚 濤 : 逆巻く大波。怒濤。
金 燈 : 金色に輝く灯。海中の鬼火で、竜が捧げるという。 
余 醒 : あとに残るなまぐさい臭気。竜の体臭のなごり。
   竜宮城で竜が灯を燈しているといわれる。
乱 松 : 入り交じっている松。秩序なく生えている松。
   松島の一帯に松が植えられている。

★ この詩は、昼間とは違ったものすごさのある夜の風景を詠っている。
★ 日本三景 : 天の橋立、安芸の宮島、仙台の松島
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   乃木希典 の 『 富嶽 』








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平成31年度 コンクール10句の模範吟

コンクール
08 /25 2018
来年の3月17日(日) 地域のコンクールがあります。
北多摩二区吟剣詩舞道連盟 《吟詠コンクール大会》です。

平成30年度の指定吟題10句は
こちら でご覧いただけますが、

2018年8月25日 に、
平成31年度 コンクール指定吟10句の
松岡萠洲先生による模範吟がありました。

7015 320
『絶句編』と 『続絶句編』 約280句の中から     
 
感有り       山崎闇斎 
かんあり     やまざき あんさい

楠公子に訣るるの図に題す     頼 山陽
なんこうこにわかるるのずにだいす       らい さんよう

春簾雨窓      頼 鷗厓
しゅんれんうそう       らい おうがい

黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る     李 白 
こうかくろうにてもうこうねんのこうりょうにゆくをおくる       りはく

烏江亭に題す       杜 牧 
うこうていにだいす       と ぼく

海に泛ぶ      王 守仁
うみにうかぶ      おう しゅじん

暁に発す       月田蒙斎
あかつきにはっす       つきたもうさい

落 花       徳富蘇峰
らっか       とくとみそほう

山亭夏日        高 駢
さんていかじつ       こう べん

梅 花       王 安石
ばいか         おう あんせきく
    
       
        

★私は 月田蒙斎の 『暁に発す』 に しました。


 

    【コンクール】
  地域のコンクール、四回目の参加






頼 山陽 の 『 述 懐 』 

日本の律詩
08 /24 2018
  述 懐     頼 山陽

 十有 三 春秋
 逝く 者は 已に 水の 如し
 天地 始終 無く
 人生 生死 有り
 安んぞ 古人に 類して
 千載 青史に 列するを 得ん


  じゅっかい       らい さんよう
じゅうゆう さん しゅんじゅう
ゆくものは すでに みずの ごとし
てんち ししゅう なく
じんせい せいし あり
いずくんぞ こじんに るいして
せんざい せいしに れっするを えん


先生のお話によると、
頼 山陽(1781~1832))は、江戸時代後期の儒学者。
大坂生まれだが、父が広島に転居したため広島で育つ。

父・春水が江戸に出たため、叔父の頼杏坪に学び、
17才で江戸に遊学、昌平黌で学ぶ。帰郷後、
20才で結婚(妻・淳子)、男子一人(頼 聿庵)生まれるが、
脱藩を企て上洛した。叔父・杏坪によって京都で発見され、
広島へ連れ戻され、廃嫡の上、20~24才までの4年間
自宅に幽閉される。この間に、山陽は歴史と読書に専念し
著述に明け暮れ、『日本外史』の基礎を確立した。

31才、父の友人であった儒学者・菅茶山の廉塾の塾頭になる。
32才、京都に出て塾を開き、二度目の結婚(梨影)をする。
      (男子二人、頼 鴨厓、頼 三樹三郎)
46才、武家の時代史とも言える『日本外史』を完成させる。
51才ごろから健康を害し、容態が悪化する中でも著作に専念。
1832年、53才で死去した。

詩の意味は、
10年と3年、年月(春秋)がたちまちのうちに
過ぎ去ってしまった13年間・・・ 今、14才になって
振り返ってみると、歳月は川の水のように流れ去り、
二度と戻っては来ない。

 春 秋 = 年 月
 
天地の歴史が、これまで どれ位の長きに渡って
続いているのかは、誰も知ることはできないが、
人は生まれたら、必ず、死ななければならない。
これが約束ごとであり、人の運命でもある。

 始 終 = 始まりと終わり
 
そうであるならば、昔の文人・偉人たちのように、
精進を重ねて、何とか、1000年後の歴史にも
自分の名を残せるようにしたいものだ。
(これが、これから自分が生きていく目標である)
 
 古 人 = 昔の文人・偉人たち
 青 史 = 歴史書
 安 得 = 何とかして○○ したい
        
         ◆  ◆  ◆

これは、頼 山陽が14才のときに作った詩で、
父・春水が感心して、知人らに見せた。
寛政異学の禁の中心となった柴野栗山からも高く評価され、
山陽が世に出る登竜門にもなった詩である
   ・・・ とのことです。


◆ 頼 山陽 の 絶句
   不識庵機山を撃つの図に題す
   楠公子に訣るるの図に題す    
   舟大垣を発し桑名に赴く   




     【日本の律詩】

   蒲生 君平 の 『 述 懐 』







乃木希典 の 『 富嶽 』

日本の絶句
08 /19 2018
絶句編テキスト
2018年8月19日 絶句編 92ページ  

   富 嶽     乃木希典 
 崚嶒たる 富嶽 千秋に 聳ゆ
 赫灼たる 朝暉 八洲を 照らす
 説くを 休めよ 区々 風物の 美
 地霊 人傑 是れ 神州
   
  ふがく   のぎまれすけ
りょうそうたる ふがく せんしゅうに そびゆ
かくしゃくたる ちょうき はっしゅうを てらす
とくを やめよ くく ふうぶつの び
ちれい じんけつ これ しんしゅう

テキストの通釈によると、
霊峰富士は、まことに気高く雄々しく、
千年万年の昔から今も変わらぬ姿で聳えている。
この峰から昇る朝日は、あかあかと国中をくまなく
照らしている。実にこの山は大日本国の象徴である。
あれこれと細かく、諸々の風景などを述べ立てることはいらない。
土地はあらたかで、傑出した人物に富む、
これこそ、わが国は神国たる所以である 
     ・・・とのことです。

        ◆   ◆   ◆

先生のお話によると、
乃木希典(1849~1912)は、長州藩の支藩である長府藩の
藩士の三男として、江戸の長府藩上屋敷に生まれた。
長兄、次兄は夭折していたため世嗣となる。10才まで
江戸で暮らしたのち、長府(現・山口県下関市)に転居。

11才で、漢学者の結城香崖に入門。弓術、西洋流砲術、
槍術および剣術なども学んだ。幼少より泣き虫で、妹に
いじめられて泣くこともあったという。

1864年16才、学者となることを志して父と対立し、出奔。
長府から70km以上離れた萩まで歩いて行き、親戚筋の
兵学者・玉木文之進への弟子入りを試みた。当初は、
弟子入りを拒絶されたが、玉木家に住むことを許され、
文之進の農作業を手伝いながら、学問を学び、のちには
萩藩・明倫館に通学する一方、一刀流剣術も学び始めた

翌年、第二次長州征討が開始されると、長府へ呼び戻され、
長府藩報国隊に属し、小倉口での戦闘(小倉戦争)に加わった。
このとき、奇兵隊の山縣有朋の下で戦い、小倉城一番乗りの
武功を挙げたのち、明倫館の文学寮に入学(復学)した。

明治4(1872)年、大日本帝国陸軍の少佐に任官され、
明治9年、福岡県秋月で起きた秋月の乱にて反乱軍を潰走させる。
その直後に起きた萩の乱では、弟の正誼は反乱軍に加わり戦死。
学問の師である玉木文之進は、門弟の多くが反乱軍に参加した
責任をとるため自刃。乃木は萩の乱では連隊を動かさなかった。

明治10年、西郷隆盛ら挙兵の動きが政府側にも伝わり、
政府軍の連隊長として従軍するが、薩摩軍に連隊旗を奪われ、
生涯の恥と自責の念を抱いて、いくども自殺を図ろうとした。
西南戦争時、中佐となり、翌年、東京の歩兵第一連隊長に
抜擢された。「静子」と結婚。

明治20年1月から翌年6月まで、ドイツ帝国へ留学。
明治25年、10か月休職して復職。東京の歩兵第1旅団長となり、
明治27年、日清戦争が始まると、出征。武功を挙げ、中将に昇進。
明治29年、台湾総督に任じられ、翌年、台湾総督を辞職。
明治31年、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職。
明治34年、休職を申し出て帰京し、栃木県那須野にて農耕。
明治37年、動員令が下り、留守近衛師団長として復職したのち
  第3軍の司令官となり、日本を発つ直前、長男・勝典が戦死。
  
第3軍は旅順攻撃を開始したが、十分な補給が行われず、
大本営と満州軍司令部との異なる指示による混乱もあったが、
明治38年1月、旅順要塞は陥落させることができた。
その後も第3軍の奮戦によって、奉天会戦に勝利し、帰国。

明治40年、明治天皇の勅命により、学習院院長に就任。
明治41年、裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると
   勤勉と質素を教え、裕仁親王人格形成に影響を与えた。
大正元年、明治天皇の大喪の礼が行われた日の夜、
   妻・静子とともに自刃して亡くなる。享年64(満62才)没。

          ★  ★  ★

富 嶽 : 富士山(芙蓉に例えられる)。 
 崚  : 嶺が重なって高く聳えるさま。
赫 灼 : あかあかと照り輝くさま。
朝 暉 : 朝日の光。
八 洲 : 大八洲国(おおやしまぐに)。わが日本のこと。
   古事記に出てくる。本州、四国、九州、淡路島(兵庫)、
   隠岐・対馬(長崎)、隠岐島(島根)、佐渡島(新潟)
   北海道は蝦夷地で日本ではなかった。
   日本人が渡って行ったのは室町時代以降で
   江戸時代になって松前藩が設けられた。
区 々 : こまかいさま。
地 霊 : 土地があらたかな意。
人 傑 : 人物が秀でている。
神 州 : 神国。古来わが国は神ながらの国と称した。
    『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』(北畠親房)に
   「わが国は神国なり」とある。

★ この詩は、乃木希典 晩年の作である
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   乃木希典 の 『金州城下の作』








乃木希典 の 『金州城下の作』

日本の絶句
08 /19 2018
絶句編テキスト
2018年8月19日 絶句編 91ページ  

   金州城下の作     乃木希典 
 山川 草木 転た 荒涼
 十里 風 腥し 新戦場 
 征馬 前まず 人 語らず
 金州城外 斜陽に 立つ
   
  きんしゅうじょうかのさく   のぎまれすけ
さんせん そうもく うたた こうりょう
じゅうり かぜ なまぐさし しんせんじょう
せいば すすまず ひと かたらず
きんしゅうじょうがい しゃように たつ

テキストの通釈によると、
山川草木(すべて弾丸のあとも生々しく)あたり一面、
見れば見るほど荒れ果てて、凄まじいありさまである。
十里四方の間を血なまぐさい風が吹いて、この戦争直後の
戦場は実に痛ましい限りである。我が乗る馬は
進もうとせず、だれもかれもみんな黙って口もきかない。
自分は今、赤々とした夕日に照らされて、金州の町外れで
無限の感慨に堪えながら馬をとどめているのである。 
     ・・・とのことです。

        ◆   ◆   ◆

先生のお話によると、
乃木希典(1849~1912)は、長州藩の支藩である長府藩の
藩士の三男として、江戸の長府藩上屋敷に生まれた。
長兄、次兄は夭折していたため世嗣となる。10才まで
江戸で生活したのち、長府(現・山口県下関市)に転居。

11才で、漢学者の結城香崖に入門。弓術、西洋流砲術、
槍術および剣術なども学んだ。幼少より泣き虫で、妹に
いじめられて泣くこともあったという。

1864年16才、学者となることを志して父と対立し、出奔。
長府から70km以上離れた萩まで歩いて行き、親戚筋の
兵学者・玉木文之進への弟子入りを試みた。当初は、
弟子入りを拒絶されたが、玉木家に住むことを許され、
文之進の農作業を手伝いながら、学問を学び、のちには
萩藩・明倫館に通学する一方、一刀流剣術も学び始めた

翌年、第二次長州征討が開始されると、長府へ呼び戻され、
長府藩報国隊に属し、小倉口での戦闘(小倉戦争)に加わった。
このとき、奇兵隊の山縣有朋の下で戦い、小倉城一番乗りの
武功を挙げたのち、明倫館の文学寮に入学(復学)した。

明治4(1872)年、大日本帝国陸軍の少佐に任官され、
明治9年、福岡県秋月で起きた秋月の乱にて反乱軍を潰走させる。
その直後に起きた萩の乱では、弟の正誼は反乱軍に加わり戦死。
学問の師である玉木文之進は、門弟の多くが反乱軍に参加した
責任をとるため自刃。乃木は萩の乱では連隊を動かさなかった。

明治10年、西郷隆盛ら挙兵の動きが政府側にも伝わり、
政府軍の連隊長として従軍するが、薩摩軍に連隊旗を奪われ、
生涯の恥と自責の念を抱いて、いくども自殺を図ろうとした。
西南戦争時、中佐となり、翌年、東京の歩兵第一連隊長に
抜擢された。「静子」と結婚。

明治20年1月から峪年6月まで、ドイツ帝国へ留学。
明治25年、10か月の休職して復職。東京の歩兵第1旅団長となり、
明治27年、日清戦争が始まると、出征。武功を挙げ、中将に昇進。
明治29年、台湾総督に任じられ、翌年、台湾総督を辞職。
明治31年、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職。
明治34年、休職を申し出て帰京し、栃木県那須野にて農耕。
明治37年、動員令が下り、留守近衛師団長として復職したのち
  第3軍の司令官となり、日本を発つ直前の長男・勝典が戦死。
  
第3軍は旅順攻撃を開始したが、十分な補給が行われず、
大本営と満州軍司令部との異なる指示による混乱もあったが、
明治38年1月、旅順要塞は陥落させることができた。
その後も第3軍の奮戦によって、奉天会戦に勝利し、帰国。

明治40年、明治天皇の勅命により、学習院院長に就任。
明治41年、裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると
   勤勉と質素を教え、裕仁親王人格形成に影響を与えた。
大正元年、明治天皇の大喪の礼が行われた日の夜、
   妻・静子とともに自刃して亡くなる。享年64(満62才)没。

          ★  ★  ★

金州城 : 満州(中華人民共和国東三省)遼東半島の南端、
   旅順港の背後の要地。南山の激戦地で、日本軍は
   ここから南下して旅順を攻撃した。乃木将軍の長子
   陸軍歩兵中尉 乃木勝典の戦死したところである。
   第二軍がこの地の強敵を撃退して占領したのは、
   明治37年5月26日であった。
     城 = 町のこと
 転  : いよいよ。ますます。
荒 涼 : 荒れ果てて凄まじいさま。
新戦場 : 「新」には戦争が終わった直後の意が込められている。
   長男がここで戦死している。
征 馬 : 軍馬。もとは旅行用の馬を言ったが、のちに
   戦争に用いる馬の意にも使われるようになった。
不 前 : 「前」は「進」と同意。
立斜陽 : 夕日を受けながら馬をとどめる。

★ この詩は、戦いが終わって10日後位に行って作られた
     ・・・ とのことです。


  乃木希典 『 富嶽 』




     【 日本の絶句 】
   新島 襄 の 『 寒 梅 』








 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?