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平成31年度 コンクール10句の模範吟

コンクール
08 /25 2018
来年の3月17日(日) 地域のコンクールがあります。
北多摩二区吟剣詩舞道連盟 《吟詠コンクール大会》です。

平成30年度の指定吟題10句は
こちら でご覧いただけますが、

2018年8月25日 に、
平成31年度 コンクール指定吟10句の
松岡萠洲先生による模範吟がありました。

7015 320
『絶句編』と 『続絶句編』 約280句の中から     
 
感有り       山崎闇斎 
かんあり     やまざき あんさい

楠公子に訣るるの図に題す     頼 山陽
なんこうこにわかるるのずにだいす       らい さんよう

春簾雨窓      頼 鷗厓
しゅんれんうそう       らい おうがい

黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る     李 白 
こうかくろうにてもうこうねんのこうりょうにゆくをおくる       りはく

烏江亭に題す       杜 牧 
うこうていにだいす       と ぼく

海に泛ぶ      王 守仁
うみにうかぶ      おう しゅじん

暁に発す       月田蒙斎
あかつきにはっす       つきたもうさい

落 花       徳富蘇峰
らっか       とくとみそほう

山亭夏日        高 駢
さんていかじつ       こう べん

梅 花       王 安石
ばいか         おう あんせきく
    
       
        

★私は 月田蒙斎の 『暁に発す』 に しました。


 

    【コンクール】
  地域のコンクール、四回目の参加






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頼 山陽 の 『 述 懐 』 

日本の律詩
08 /24 2018
  述 懐     頼 山陽

 十有 三 春秋
 逝く 者は 已に 水の 如し
 天地 始終 無く
 人生 生死 有り
 安んぞ 古人に 類して
 千載 青史に 列するを 得ん


  じゅっかい       らい さんよう
じゅうゆう さん しゅんじゅう
ゆくものは すでに みずの ごとし
てんち ししゅう なく
じんせい せいし あり
いずくんぞ こじんに るいして
せんざい せいしに れっするを えん


先生のお話によると、
頼 山陽(1781~1832))は、江戸時代後期の儒学者。
大坂生まれだが、父が広島に転居したため広島で育つ。

父・春水が江戸に出たため、叔父の頼杏坪に学び、
17才で江戸に遊学、昌平黌で学ぶ。帰郷後、
20才で結婚(妻・淳子)、男子一人(頼 聿庵)生まれるが、
脱藩を企て上洛した。叔父・杏坪によって京都で発見され、
広島へ連れ戻され、廃嫡の上、20~24才までの4年間
自宅に幽閉される。この間に、山陽は歴史と読書に専念し
著述に明け暮れ、『日本外史』の基礎を確立した。

31才、父の友人であった儒学者・菅茶山の廉塾の塾頭になる。
32才、京都に出て塾を開き、二度目の結婚(梨影)をする。
      (男子二人、頼 鴨厓、頼 三樹三郎)
46才、武家の時代史とも言える『日本外史』を完成させる。
51才ごろから健康を害し、容態が悪化する中でも著作に専念。
1832年、53才で死去した。

詩の意味は、
10年と3年、年月(春秋)がたちまちのうちに
過ぎ去ってしまった13年間・・・ 今、14才になって
振り返ってみると、歳月は川の水のように流れ去り、
二度と戻っては来ない。

 春 秋 = 年 月
 
天地の歴史が、これまで どれ位の長きに渡って
続いているのかは、誰も知ることはできないが、
人は生まれたら、必ず、死ななければならない。
これが約束ごとであり、人の運命でもある。

 始 終 = 始まりと終わり
 
そうであるならば、昔の文人・偉人たちのように、
精進を重ねて、何とか、1000年後の歴史にも
自分の名を残せるようにしたいものだ。
(これが、これから自分が生きていく目標である)
 
 古 人 = 昔の文人・偉人たち
 青 史 = 歴史書
 安 得 = 何とかして○○ したい
        
         ◆  ◆  ◆

これは、頼 山陽が14才のときに作った詩で、
父・春水が感心して、知人らに見せた。
寛政異学の禁の中心となった柴野栗山からも高く評価され、
山陽が世に出る登竜門にもなった詩である
   ・・・ とのことです。


◆ 頼 山陽 の 絶句
   不識庵機山を撃つの図に題す
   楠公子に訣るるの図に題す    
   舟大垣を発し桑名に赴く   




     【日本の律詩】

   蒲生 君平 の 『 述 懐 』







蒲生 君平 の 『 述 懐 』

日本の律詩
08 /17 2018
 述 懐     蒲生 君平

 丈夫 生まれて 四方の 志 有り
 千里 剣書 何れの 処にか 尋ねん
 身は 転蓬に 任せて 遠近 無く
 思いは 流水に 随って 幾たびか 浮沈す
 笑って 樽酒を 看て 狂 先ず 発し
 泣いて 離騒を 読んで 酔後に 吟ず
 唯 太平 恩沢の 渥きに 頼って
 自ら 章句を 将って 青衿に 託す


  じゅっかい       がもう くんぺい
じょうふ うまれて しほうの こころざし あり
せんり けんしょ いずれの ところにか たずねん
みは てんぽうに まかせて えんきん なく
おもいは りゅうすいに したがって いくたびか ふちんす
わらって そんしゅを みて きょう まず はっし
ないて りそうを よんで すいごに ぎんず
ただ たいへい おんたくの あつきに よって
みずから しょうくを もって せいきんに たくす


先生のお話によると、
蒲生 君平(1768~1813)は、江戸時代後期の漢詩人、著述人。
君平は字で、本名は秀実(ひでざね)。通称は伊三郎。
下野国宇都宮の灯油商の家に生まれた。
父の本名は福田正栄であったが、祖父から、祖先
が蒲生氏郷(うじさと・戦国時代~安土桃山時代
の武将)であると教えられ、17才で蒲生に改姓した。

6才の頃から近所の延命院で学び、15才の頃
鹿沼の儒学者・鈴木石橋の麗澤之舎に入塾。
毎日、三里の道を往復、塾では『太平記』を愛読した。
勤皇思想に傾斜し、水戸藩の勤王の志士、
藤田幽谷とも出会い、水戸学の影響を受けた。

32才の時、父の喪が明け、すべての天皇陵を調べあげようと
旅に出る。佐渡島の順徳天皇陵までの歴代天皇陵を旅する。
旅から帰り、江戸駒込に塾を開き、何人かの弟子に講義、
『山陵志』を完成させ、その中で前方後円墳の語ができた。

『山陵志』は、大和(奈良)、河内・和泉(大阪)、山城(京都)、
などの畿内を中心に、天皇の墓92陵を訪ね歩き、調査し、
自身の考えも加えて、二巻の書物にまとめた。
君平は、皇室の御陵の荒廃を悲しみ、幕府にも献上。
当時の天皇も読まれたとのこと。
この詩では、諸国を調査しながら歩いて感じたこと、苦労した
ことなど、心の中の思い(述懐)が、述べられている。


詩の意味は、
一人前の男子として生まれて、四方あちらこちら
(尊王の)理想を求めて諸国へと旅に出る。長い遍歴の行程を
刀剣と書物をたずさえ、いったい、どこを探したらよいか
あてどもなく多くの陵墓を尋ね歩いた。

 四 方 = あらゆる場所、あちらこちら
 剣 書 = 身を守るための刀剣と、筆記する用紙

わが身は風になびく枯れ蓬のように、遠く
また近くを放浪し、あてどのない調査遍歴を重ねてきた。
ひとすじの思いは、流れる水に任せて浮き沈みする
浮遊物のようになすがまま、なされるままに
心もとなく、苦難の旅であった。

 転 蓬 = 風雨によってどちらに倒れるか分らない蓬
 
しばしの休息で、樽酒を見ては喜びによって笑い、
安らぎと開放感が狂ったようにこみ上げてくる。
『離騒』を読んでは泣いて、酔ったあとには吟じたものだ。
 
離 騒= 憂いに遭うという意。離は遭う、遭遇する。騒は憂う。
    楚辞の中に出てくる憂国の士・屈原の詩を読み、
    感銘を受けて、節をつけて詠ったということ。

今は幸いにも治世が行き届いて、天下がもっぱら
きわめて平和である。これからは、自分の学んだこと、
やってきたこと、知りえたことを、若い学生たちに伝え、
自分の思いを、希望を、若者たちに託していきたい。

 章 句 = 一章一句にだけ、全体をつかみ得ない(学問)
    自分の学問を謙遜し、へりくだってる言い方
 青 衿 = 学生の着る服 → 学生
    
         ◆  ◆  ◆

同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に
「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)
   ・・・ とのことです。


蒲生君平については こちら でも ご覧になれます。
        



     【日本の律詩】

   大窪 詩仏 の 『 閑 遊 』







大窪 詩仏 の 『 閑 遊 』

日本の律詩
08 /10 2018
  閑 遊     大窪 詩仏

 淡靄 微風 雨後の 天
 閑遊 時に 復 江辺に 向う
 落花 我に 於いて 何ぞ 軽薄なる
 飛絮 人に 比すれば 尤も 放顚
 詩 漸く 平に 至るは 淡を 愛するに 因り
 酒 聊か 量を 減ずるは 是れ 年を 添うるなり
 近来 自ら 覚ゆ 春 味い 無きを
 一酔 昏々として 只 眠らんと 欲す


  かんゆう       おおくぼ しぶつ
たんあい びふう うごの てん
かんゆう ときに また こうへんに むこう
らっか われに おいて なんぞ けいはくなる
ひじょ ひとに ひすれば もっとも ほうてん
し ようやく へいに いたるは たんを あいするに より
さけ いささか りょうを げんずるは これ としを そうるなり
きんらい みずから おぼゆ はる あじわい なきを
いっすい こんこんとして ただ ねむらんと ほっす


先生のお話によると、
大窪詩仏(1767~1837)は、江戸時代後期の漢詩人。
常陸国袋田村(現 茨城県大子町)に生まれた。
書画もたしなんだ。

中国唐の時代、詩仙・李白、
詩聖・杜甫、詩仏・王維と言われているが、
大窪詩仏は、尊敬し慕っていた杜甫の詩
『杜老詩中仏』から≪詩仏≫をとったと思われる。

医を生業としていたが、父が江戸にて小児科医を開業。
詩仏は15才頃、日本橋で開業する父の元に身を寄せて
医術を学んだ。21才頃より儒学も学び、詩作も始めた。
24才で父が亡くなると詩人として身を立てる決意をする。
25才の時、師事していた市河寛斎が富山藩に仕官したため
柏木如亭と二痩社を開き、100人を超える門人が集った。
一方で、詩集や啓蒙書なども刊行し、各地を旅もした。
39才の時、江戸の大火で家を焼失。復興の費用を
捻出するため遊歴。江戸に戻るとお玉ヶ池に家を新築
詩聖堂と名付け、杜甫の像も造り、頼山陽などとも交流した。

59才の時、詩仏は秋田藩に出仕する。江戸の藩校
日知館の教授として俸禄を支給され、生活は変らなかった。
『閑遊』は、この頃に作った詩である。

63才になる頃、江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂が全焼。
秋田藩邸に仮住まいをした後、小宅を構えることは出来たが
詩聖堂を復興することは出来なかった。この冬、妻が先立つ。
65才で秋田に旅した帰路、脚気が悪化し迎えが必要となった。
1837年、自宅で71才にて没した。

詩の意味は、
うすもやが立ち込め、心地良いそよ風が吹く
雨上がりの空。のんびりと散歩を楽しもう。
時にはまた、川のほとりにも足を伸ばそう。

 淡 靄 = うすもやが立ち込める様子
 閑 遊 = のんびりと楽しむ

(私が堪能するのを待たずに)花が散ってしまうことは
私からみると、なんと浅はかで無風流なことであろうか。
綿のような柳の新芽は、私のような風騒な人間に比べれば
もっと自由奔放で、風狂とも言えるほどである。

 飛 絮 = 綿のように柔かい柳の芽
 放 顚 = 自由奔放、気違いじみている
 人に比すればの『人』は、風流人、風騒の人のこと。
   風騒とは、『詩経』の中の≪国
          『楚辞』の中の≪離≫より
      ①詩文を作ること
      ②詩文をもてあそぶ風流なわざ、遊び

このごろになって、自分の詩が少しずつ平明で
分りやすくなってきているのは、あまり
難しく考えないで淡白を愛するようになったから。
酒も、わずかばかりでも量を減らすようになったのは
これもまた年を重ね、老境に至ったということであろう。
 
 平 = 平明、分りやすい
 
近ごろは、自分でも春に面白みをあまり感じなくなって、
ひとたび酔うと、うとうと朦朧となって、ただただ
このまま眠ってしまいたくなってしまうことだ。

 一 酔 = ひとたび酔うと
     
         ◆  ◆  ◆

この詩は、前半で春の明るく賑やかな世界を詠い、
後半では、自分の老年に至った心境などを詠っている。

大窪詩仏は旅をしながら詩をたくさん作り、
『西遊諸草』『北遊諸草』などにもまとめている
   ・・・ とのことです。



        

     【日本の律詩】

   良 寛 の 『 意に 可なり 』






5回目の夏季温習会 律詩『 春日山荘 』

夏季温習会
08 /05 2018
平成30年度の夏季温習会が、練馬区の
『ホテルカデンツァ光が丘』でありました。
尺八伴奏は、五十嵐 明 先生です。

プログラムは、
  第一部 温習会
    開会のことば
    会詩合吟
    会長あいさつ
    宗家あいさつ
    会員吟詠


1、中秋月を望む     王 建
2、松山城     小原六六庵
3、六行詩 天草洋に泊す     頼 山陽
4、律詩 春日山荘     有智子内親王
5、律詩 祝賀の詞     河野 天籟
6、松竹>       松口 月城
7、短歌入り 九段の桜     本宮 三香
8、舟中子規を聞く     城野 静軒
9、不識庵機山を撃つの図に題す     頼 山陽
10、山中幽人と対酌す     李 白
11、律詩 祝賀の詞     河野 天籟
12、暑を山園に避く     王 世 貞
13、百人一首 第九十八首 風そよぐ  従二位家隆
14、時に憩う     良 寛
15、弘道館に梅花を賞>     徳川 景山
16、舟中子規を聞く     城野 静軒
17、律詩 月夜荒城の曲を聞く>     水野 豊州
18、律詩 祝賀の詞     河野 天籟
19、百人一首 第二首 春すぎて    持統天皇
20、江南の春     杜 牧
21、宝 船     藤野 君山    
22、和歌入り 山行同士に示す     草野 佩山
23、律詩 花月吟<     藤野 君山
24、民謡吟詠 さんさ時雨     石高 琴風

宗家講評と模範吟  松岡萠洲 先生
   律詩 『琵琶湖上の作』     室 鳩巣

このあと 『萠洲流宗家を祝う』(小倉萠佳 作)の
  吟と舞が披露されました。

 
  第二部 懇親会
   乾杯・宴会
   舞・人生桜(歌・テープ)
   閉会の言葉・手締め



     ◆  ◆  ◆


私は、入会して5回目の夏季温習会で、
4番目、律詩『春日山荘 』でした。作者は、有智子内親王で
テキスト≪絶句編≫≪続絶句編≫≪律詩・古詩編≫で
ただ一人の日本の女性の作なので選びました。
テキスト3冊を通じて載っているもう一人の女性は
中国の杜秋娘で 『金鏤の衣』 の作者です。

4回目は、 『奥羽道中』 榎本 武揚 作   
3回目は、『西南の役陣中の作』 佐々 友房 作 
2回目は、『 雲 』 大窪 詩仏 作 
1回目は、『金鏤の衣』 杜秋娘 作 でした。





   【夏季温習会】
4回目の夏季温習会『奥羽道中』
 


 



    

 詩吟もえ子

お稽古に参加して六年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?