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広瀬 淡窓 の 『筑前城下の作』

日本の律詩
11 /23 2018
  筑前城下の作    広瀬 淡窓

 伏敵門頭 浪 天を 拍つ
 当時の 築石 自ら 依然たり
 元兵 海に 沒す 蹤 猶 在り
 神后 韓を 征する 事 久しく 伝う
 城郭 影は 浮かぶ 春浦の 月
 絃歌 声は 隱る 暮洲の 煙
 昇平 象 有り 君 看取せよ
 処々の 垂楊に 賈船を 繋ぐ



  ちくぜんじょうかのさく    ひろせたんそう
ふくてき もんとう なみ てんを うつ
とうじの ちくせき おのずから いぜんたり
げんぺい うみに ぼっす あと なお あり
じんこう かんを せいする こと ひさしく つとう
じょうかく かげは うかぶ しゅんぽの つき
げんか こえは かくる ぼしゅうの けむり
しょうへい しょう あり きみ かんしゅせよ
しょしょの すいように こせんを つなぐ


先生のお話によると、
広瀬 淡窓(1782~1856)については、
こちらこちら でも ご覧いただけますが、
豊後国日田郡豆田町に生まれ、少年の頃より聡明であった。
16才の頃に筑前国の亀井塾に遊学したが、大病を患い
19才で帰郷。病気がちであることを理由に家業を弟に任せる。
26才の頃に豆田町にある長福寺の一角を借りて塾を開き、
   桂林荘・咸宜園へと発展させた。
咸宜園は弟の広瀬旭荘や10代の塾主によって
明治30年(1897年)まで続き、塾生は延べ4,000人を超えた。
淡窓は、毎夜、塾生を集めて茶話会を開き、
漢詩を吟じていたが、その声が外まで聞こえ、
吟詠家の第一号と言われ、75才で亡くなっている。

       ◆  ◆  ◆

この詩は、淡窓が筑前城(福岡城、別名 舞鶴城)下の
箱崎・筥崎八幡宮に行き、元寇の役を偲んで作った。

詩の意味は、
亀山上皇が敵の降伏を願って書かれた『敵国降伏』の
四文字を掲げた筥崎八幡宮の門頭は、永年の
波浪に洗われながらも、今もその姿をとどめている。
文永の役後に築かれた石垣もなお昔の姿そのままにある。

 筑 前 = 現在の福岡市博多地区
 伏敵門 = 筥崎(はこざき)八幡宮の門に亀山上皇の直筆
   (宸筆・しんぴつ)で「敵國降伏」の四文字が掲げられているが
   元寇に際して降伏を勧めたいとの朝廷の願望の現れである。
 築 石 = 城の周りに、敵の侵入を防ぐため築いた石垣
   文永の役ではまだなかったが、7年後の弘安の役には
   石垣を築いて備えていた。

元軍十万余の兵士たちが海に没した跡も今もなお残り、
さらに遡って、神功皇后の御世に三韓出兵された折にも
この地から船が出て行ったことも久しく伝えられている。
 
 元 兵 = 元寇・文永の役では2万7千人、
   弘安の役では14万人が4千4百隻で襲来した。
 神 后 = 神功(じんぐう)皇后のことで、4世紀後半の
   飛鳥時代には、朝鮮半島が高句麗、百済、新羅に
   別れていて、百済が日本に助けを求めてきたため出兵した。  

けれども、今はそういう戦跡とは様子が変わっていて、
城の囲いや石垣は、春の海べりの月光に照らされ
水面に浮かびあがり、弦の音や歌声が、夕暮れの
霧の中にどこからともなく、ただよい聞こえてくる。
 
 城 郭 = 城の囲いと周辺の石垣  
 弦 歌 = 管弦の音と歌声

世の中が平和に治まっている今の様子、
太平の世の姿を、君たちは良く看たまえ。
あちらこちらのしだれ柳には商いの舟が繋がれているのを。
太平の世を築いてくれた祖先に感謝するべきではないだろうか。
 
 昇 平 = 太平、世の中が平和で穏やかに治まっていること
  象  =  姿
 賈 船 = 商売の船。賈は売ったり買ったり。
       ・・・ とのことです。
         



     【日本の律詩】

   頼 山陽 の 『 静 御 前 』







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