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良寛 の 『時に憩う』

日本の絶句
08 /24 2017
絶句編テキスト

2017年8月24日 絶句編 45ページ  

    時に 憩う    良 寛 
 薪を 担うて 翠岑を 下る 
 翠岑 路は 平かならず
 時に 憩う 長松の 下
 静かに 聞く 春禽の 声
   
 ときに いこう   りょうかん
たきぎを にのうて すいしんを くだる
すいしん みちは たいらかならず
ときに いこう ちょうしょうの もと
しずかに きく しゅんきんの こえ


テキストの通釈によると、
少し欲張って、自分の体力としては
多い目の薪を背に、春の峰を下る。
目には美しい緑の峰であるが、馬の背のように
狭い路は、やけに凸凹している。薪の重みも、
肩にかけた細い縄を通して食い込む。
もう少し、もう少しと歩みながらも、丈高く
碧空にそびえる松の木にたどり着くと、
やはり自然と休んでしまう。
春とはいうものの、こう体中が
汗ばんでくると、松の木陰が好ましい。
肌に風を入れていると、どこからともなく鴬の声。
耳を澄ましていると、あたりの静けさが
ひときわ深く感じられる。

   ・・・とのことです。

先生のお話と、こちら によると、
良寛〔1758~1831)は、江戸時代後期の
曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。
俗名、山本栄蔵、幼名は文孝(ふみたか)

良寛は、越後国出雲崎に生まれた。
父はこの地区の名主であり、俳人でもあった
良寛は、父の後を継ぐため名主見習いを始めて
2年目の18才の時に、突如出家してしまい、
子供の頃に学んだ曹洞宗光照寺にて修行をする。

この頃、全国各地に米騒動が頻発していた。
越後にも、天災や悪疫が襲い、
凶作により餓死者を出した。
村人の争いを調停し、盗人の処刑に
立ち会わなければならなかった良寛には、
救いのない人間の哀れな世界に思えた。

両親の説得にも関わらず、
良寛は頑なに、寺での修行を続けた。

出家後、22才の時、玉島(岡山県倉敷市)の
円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事する。
円通寺の入門には、厳しい戒律があった。
経を学ぶことより、勤労に励むことを第一としていた。
「一日作らざる者は、一日食わず」
国仙和尚は、日を変え言葉を変えて良寛に説いた。
その教えは後の良寛の生き方に強い影響を与える。

良寛が修行した僧堂は、『良寛堂』として
今もその当時のまま残されている。
修行4年目の春、良寛は母の訃報に接する。
しかし帰郷は許されるはずもなく、
円通寺の修行は12年も重ねたが、この
修行時代を記すものはほとんど残っていない。

34才の時「好きなように旅をするが良い」と言い残し
世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた。
父の訃報を受けても放浪の旅は続けた。
48才の時、越後・国上村(現燕市)国上山(くがみやま)
国上寺(こくじょうじ)の五合庵にて書を学ぶ。
五合庵は、一日五合の米があれば良い、と農家から
貰い受けたことからこの名が付けられた。
五合庵の良寛は何事にもとらわれず、
何者にも煩わせることもない、といった生活だった。

筍には居間を譲り、子供にせがまれれば、
日が落ちるまで鞠付きに興じるのだった。
良寛の歌に「この子らと 手鞠付きつつ遊ぶ春
   日はくれずともよし」と残している。
書は良寛にとって己が鬱勃たる心情の吐露だった。

五合庵での階段の昇り降りが辛くなり、
61才の時、乙子神社境内の草庵に居を構えた。
円熟期に達した良寛の書はこの時に生まれている。

70才の時、島崎村(現長岡市)の
木村元右衛門邸内にそれぞれ住んだ。
無欲恬淡な性格で、生涯、寺を持たず、
諸民に信頼され、良く教化に努めた。
良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、
自らの質素な生活を示す事や簡単な言葉(格言)
によって一般庶民に解りやすく仏法を説いた。

74才で亡くなった後、最期を看取った弟子の
貞心尼が、良寛の和歌を集め、
『蓮の露』にまとめて、世に出した。
新潟県長岡市(旧和島村)の隆泉寺に眠る。

    ◆ ◆ ◆

時に  : 良いタイミングで。時に逢う・・・など。   
 担 /strong> : になう。かつぐ。背負う。
翠 岑 : 『翠』はみどり。『岑』はみね。春の青々とした峰。
長 松 : 丈の高い松。
春 禽 : 春の鳥。越後地方のことであり、
   「静かに聞く」とあるから鴬であろう。

※ 良寛が小さいころに学んだ「光照寺」は、
  曹洞宗の寺で、全国にある。

     ・・・とのことです。




    【 日本の絶句 】
   菅 茶山 の 『冬夜書を読む』






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