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頼 山陽 の 『不識庵機山を撃つの図に題す』

日本の絶句
09 /25 2017
絶句編テキスト

2017年9月25日 絶句編 47ページ  

   不識庵機山を撃つの図に題す    頼 山陽 
 鞭声 粛々 夜 河を 過る 
 暁に 見る 千兵の 大牙を 擁するを
 遺恨 十年 一剣を 磨き
 流星 光底 長蛇を 逸す
   
 ふしきあんきざんをうつのずにだいす   らい さんよう

べんせい しゅくしゅく よる かわを わたる
あかつきに みる せんぺいの たいがを ようするを
いこん じゅうねん いっけんを みがき
りゅうせい こうてい ちょうだを いっす


テキストの通釈によると、
(上杉謙信の軍は)ひっそりと鞭音も立てないようにして、
夜のうちに犀川を渡って(川中島の敵陣に)攻め寄せた。
(武田方は)明け方(霧の晴れ間に、上杉方の)大軍が
大将の旗を中心に守りながら迫ってくるのを見つけた。
この十年の間、一振りの剣を研ぎ磨いて(その機会を
待ったのであるが)、うちおろす刀光一閃の下に、
ついに強敵、信玄を取り逃がしたのは
無念至極なことであった。
(この戦いで、謙信は信玄を討ち取ることは
出来なかったが、その心中を察すると、
まことに同情にたえない。)

   ・・・とのことです。

先生のお話によると、
不識庵 : 上杉謙信(越後)の法号。本名は影虎。   
機  山 : 武田信玄(甲斐)の法号。本名は晴信。
図 題 : 両雄一騎打ちの劇的場面を描いたものの絵画的題材。
鞭 声 : 馬を打つ鞭の音。
粛 々 : 静かなさま。
暁 見 : 武田方が明けがた見たもの。
大 牙 : 大将の旗。象牙を使った。
 擁  : 守る。   
十 年 : 天文20年、村上義清を助け、謙信が初めて
   信玄と兵を交えてからおよそ十年。
   村上義清は北信濃の戦国大名・葛尾城主。
   信玄に攻められ、影虎を頼って越後に逃げた。   
一剣磨 : 長い年月の間、剣を磨きその機を待っていた。
流 星 : 剣光のきらめくさま。
光 底 : 斬りつけた剣の光の下。
長 蛇 : 信玄に例えた。

★川中島は、長野盆地の南、犀川と千曲川の合流地点。
いくつかの小河川も流れ込み、洪水により堆積された
土壌は肥沃で、米収穫高は当時の越後全土を上回り、
二毛作による麦の収穫もあった。鮭や鱒の溯上も多く、
経済的な価値が高かった。また、交通の要衝地で、
戦略上、武田・上杉、共に重要な地であった。
★川中島の戦いは、12年余りに及ぶ。
川中島で戦闘が行われたのは、第二次の
犀川の戦いと第四次である。いちばん激しく戦った
第四次合戦を、「川中島の戦い」ということもある。
★第四次合戦では、謙信は妻丈山(さいじょうやま)、
信玄は八幡原神社に陣を張り、激戦となった。
謙信側は、1万3000余兵、3000人の死傷。
信玄側は、2万余の兵、4000人の死傷と言われる。
★馬に乗った謙信が、信玄を打った時、信玄は鉄扇で
受け払ったが、近くにいた信玄の側近・原 大隅が槍で
謙信の馬を突いたため、信玄が助かったと言われる。

     ◆  ◆  ◆

頼 山陽(1781~1832)は、江戸時代後期の歴史家であり、
思想家、漢詩人でもある。主著に、『日本外史』がある。

大阪で生まれたが、1才の時、父親の 頼春水が
広島藩の学問所創設にあたり、登用されたため転居。
山陽は、広島藩学問所に入学したが、春水が江戸に
呼ばれたため、叔父の 頼 杏坪に学んだ。
18才で叔父・杏坪に従って江戸に出て、昌平校に学ぶ。

帰国後、妻を娶り、一子を授かったが家を出てしまう。
脱藩をして上洛したが、叔父の杏坪によって発見され、
広島へ連れ戻され、自宅に3年間、幽閉される。この間
山陽は学問に専念することになり、著述に明け暮れた。
『日本外史』の初稿が完成したのもこの時期といわれる。

謹慎を解かれたのち、広島藩学問所の助教に就任。
父の友人であった儒学者の菅茶山よって招かれ、
廉塾の都講(塾頭)に就任したが、32才、京都へ出奔。
洛中に塾を開き、2回目の結婚をして、2子を授かる。
鴨川の近く、東山を眺望できる 「水西荘」に居を構え、
著述等を続け、『日本外史』も完成させた。53才にて没。
      ・・・とのことです。





    【 日本の絶句 】
   良寛 の 『 半 夜 』






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 詩吟もえ子

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