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広瀬淡窓 の 『桂林荘雑詠諸生に示す その一』

日本の絶句
10 /23 2017
絶句編テキスト

2017年10月23日 絶句編 51ページ  

   桂林荘雑詠諸生に示す その一    広瀬 淡窓 
道ことを 休めよ 他郷 苦辛 多しと 
同袍 友 有り 自から 相 親しむ
柴扉 暁に 出ずれば 霜 雪の 如し
君は 川流を 汲め 我は 薪を 拾わん
   
 けいりんそう ざつえい しょせいに しめす そのいち   ひろせ たんそう
いうことを やめよ たきょう くしん おおしと
どうほう とも あり おのずから あい したしむ
さいひ あかつきに いずれば しも ゆきの ごとし
きみは せんりゅうを くめ われは たきぎを ひろわん


テキストの通釈によると、
他郷へ出て勉学するのはつらいなどと言いたもうな。
着物をともにする友もでき、仲良く暮らすようになるのだ。
朝早く柴の扉を開けて外に出れば、雪のように霜が降りている。
さあ炊事の支度だ。君は川の水をくみに行きたまえ、僕は薪を取りに行こう。

   ・・・とのことです。

先生のお話によると、
桂林荘 : 淡窓が26才の時、
   豊後(大分県)日田に開いた塾。弟子が増え、
   手狭になったため、10年後、堀田村に塾を
   移し、咸宜園と呼び名を変えた。
雑 詠 :いろいろな事柄・物・心境を詠んだ詩歌。
道 休 : ~と言うな。道は、説・言と同じ。
   休は、止と同じ。
同 袍 : 袍は綿入れの着物。着物をともにするほど
   仲の良い間柄であるとの意。親しい友のこと。
柴 扉 : 柴のとびら。
   雑木の枝などを組んだ粗末な扉をいう。

★広瀬 淡窓(1782~1856)は江戸時代末期の漢詩人。
豊後国日田商人の長男。淡窓は号で本名は建。享年75。

16才の時、筑前(福岡県)に出て、亀井塾に入門し、
亀井南冥・昭陽父子に師事したが、大病を患い、
19才で帰郷した。病は長引き、一時は命も危かったが
肥後国の医師・倉重湊によって命を救われる。
その後も病気がちで弟に家業(店)を任せ、学者となった。

23才の頃には、寺の一角を借りて初めての塾を開き、
26才の頃には桂林荘、その後の咸宜園へと発展させた。
咸宜園は、弟の広瀬旭荘ら10代の塾主によって
明治30(1897)年まで続き、4,000人余が学んだ。

淡窓は、毎夜、塾生を集めて、茶話会を開き、
漢詩を吟ずる声が外まで聞こえたほどで、
≪吟詠家≫の第一号といわれる。
『桂林荘雑詠諸生に示す』は、
≪その一≫から≪その四≫まである。
昔の塾は、文字通り笈(きゅう)を背負って、
遥々、他所の国の名高い先生のもとに
学問するためにやってくるというものだった。
志を立てて学問をするのに、時には
ホームシックにも掛かろうし、心細くにもなる。
そういう塾生を励ますために
この『雑詠』が作られたのである
        ・・・ とのことです。





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