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菊池 渓琴 の 『 河 内 路 上 』

日本の絶句
11 /27 2017
絶句編テキスト

2017年11月27日 絶句編 56ページ  

   河 内 路 上    菊池 渓琴 
 南朝の 古木 寒霏に 鎖さる
 六百の 春秋 一夢 非なり
 幾度か 天に 問えども 天 答えず
 金剛山下 暮雲 帰る
   
 かわち ろじょう/strong>   きくち けいきん
なんちょうの こぼく かんぴに とざさる
ろっぴゃくの しゅんじゅう いちむ ひなり
いくたびか てんに とえども てん こたえず
こんごうさんか ぼうん かえる


テキストの通釈によると、
南朝時代からの老木は、あたりに立ち込めた
冷たいもやに包まれて、さびしく立ち並んでいる。
思えば楠公の事蹟も六百年たった今となっては、
むなしい一場の夢と化した。このことを、いくたびか
天に向って尋ねてみたが、天の答えるはずもなく、
ただ金剛山の麓に夕暮れの雲が寂しく
帰って行くのを見るばかりである

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
菊池 渓琴(1799~1881)は、幕末から明治にかけての漢詩人。
本姓は垣内安定であるが、南朝の重臣・菊池武光の子孫
(足利尊氏が京都に上るとき戦って敗れた)のため、菊池とした。
他の号に、海荘などもある。武術(槍や剣)にも励んだ。

紀伊栖原(和歌山県有田郡湯浅町)の代々の
豪農・豪商の家に生れ、兄が仏門に入ったので、
13才のとき、父に連れられて江戸に出て、
家業の砂糖・薬問屋を継ぎ、大窪詩仏に学んだ。

1836年、 天保の飢饉のときには私財を投じ、
坂の改善や、港の修復など、失業対策事業で窮民を救済する。
大坂の飢饉では、大塩平八郎とともに、
救済策を建議したが要れられず有田の故郷に帰る。

1869(明治2)年、有田・日高2郡の文武総裁となり、農兵を組織。
有田郡民生局副知事。郷学所を創り養蚕・製茶に貢献した。
辞職後、東京に移り、渡辺崋山、佐久間象山、大塩平八郎らと
親交を結び、国内、世界の情勢に通じていた。

           

河内 路上 : 河内(大阪府)の金剛山の麓に楠氏の遺跡を
     訪ね、往時を追懐したので、このように題した。
南朝古木 : 実景を詠じたものであるが、後醍醐天皇が
     笠置(かさぎ)山で『南木(なぎ)』(楠)の夢(南北夢)を見て、
     正成の挙兵を予知された故事にかけている。 南朝→吉野山    
寒 霏 : 冷たいもや、あるいは寂しいもや。
六百晴秋 : 六百年。一年を春と秋によって代表させる。
     後醍醐天皇の笠置行幸(1331年8月27日)から、
     この詩の作られた時までの五百余年たっており、
     概数をあげたのである。
一夢非 : 一場の夢。世の中が全く変ってしまって、
     当時のことは夢のように思われる。
問 天 : 屈原の楚辞『天問』編をひびかせている。
     『天問』では、屈原が続けさまに心に満ちた憤りを
     のべて、その疑問を天に問うている。
金剛山 : 奈良県と大阪府の境を南北に連なる
     山脈の主峰(標高1,125m)。山腹に正成の築いた  
     千早・赤坂・国見などの城址がある。

  ★ 屈原(くつげん、紀元前343~紀元前278)は、
    中国戦国時代の楚の政治家であり、
    春秋戦国時代を代表する詩人としても有名。
    秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする
    懐王を必死で諫めたが受け入れられず、
    楚の将来に絶望して入水自殺した 
          ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   安積 艮斎 の 『 春初感を書す 』






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