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藤田 東湖 の 『 志を 言う 』

日本の絶句
01 /23 2018
絶句編テキスト

2018年1月23日 絶句編 65ページ  

   志を 言う    藤田 東湖 
 俯しては 郷国を 思い 仰いでは 君を 思う
 日夜 憂愁 南北に 分かる
 惟 喜ぶ 閑来 典籍に 耽るを
 錦衣 玉食 本 浮雲
   
 こころざしを いう   ふじた とうこ
ふしては きょうこくを おもい あおいでは きみを おもう
にちや ゆうしゅう なんぼくに わかる
ただ よろこぶ かんらい てんせきに ふけるを
きんい ぎょくしょく もと ふうん


テキストの通釈によると、
(自分は今、不自由な幽居の身である。こうした
境遇に置かれてこそ、人は一層、君国のことが案じられる)
あるときは主君のこと、あるときは故郷の同志のことが
思われる。自分と同じく、この江戸に幽閉の身の上の
御主君は、今、どのような御心境でおられるのであろうか。
北方の主の居ない水戸城下の人心は、今、いかがであろうか。

夜となく、昼となく、憂いは増し、心は傷む。
こんな焦燥と不安の中に過ごす日々にも一つの楽しみはある。
それは、多忙な政務と異なり、たっぷり時間があって
本を読めることである。

まことに、読書の楽しみは何物にも変え難く、
錦衣玉食のような物質上の贅沢や楽しみなどは
大空に浮かぶ雲のように取り止めがなく、何等、
心を動かすに足らないことを痛感するのである。
・・・とのことです。

先生のお話によると、
藤田 東湖(1806~1855)は、江戸末期の水戸藩の儒学者。
名は彪(たけき)、父・幽谷は水戸学者で彰考館総裁であった。
東湖の兄が早世していたため、東湖は嗣子として育てられた。
生家が千波湖を東に望む処にあったため≪東湖≫とした。

1827年、22才で家督を相続、200石となり、彰考館総裁。
1829年、斉昭が藩主となった後、郡奉行などとなり、
1840年、35才で側用人として藩政改革にあたった。
1844年5月、39才の時、斉昭が蟄居謹慎処分を受け、
東湖も小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、禄を剥奪される。
翌年2月、幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。
この幽閉中に『弘道館記述義』 『回天詩史』などの著作が
書かれ、幕末の志士たちに深い影響を与えることになった。
『志を言う』も、『夜坐』もこの蟄居中に作られた。

1847年、水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、
1852年に処分を解かれ、藩政に復帰した。
1853年、アメリカ合衆国のペリーが浦賀に来航し、
斉昭が海防参与として幕政に参画、東湖も江戸藩邸に移り
江戸幕府海岸防禦御用掛として斉昭を補佐することになり、
1854年に、側用人に復帰したが、
1855年の安政の大地震に遭い、江戸下屋敷にて
母を助けた後、梁の下敷きになって、50才で死去した。

言 志 : 自分の心のうちを述べること。
俯 仰 : 二語が対になっている。『地に俯し天を仰ぐ』のことを
  言うが、ここでは『あるときには・・・またあるときには・・・』の意。
郷 国 : ここでは水戸。
 君  : 斉昭公。水戸では主君が幕府により謹慎を
  命じられたことで、人心はきわめて不安な状態にあり、
  東湖は自分の置かれている境遇を忘れて、そのことを心配した。     
南北分 : 南は江戸の君主。北は水戸の同志。
閑 来 : 『来』は意味のない助詞。
  時間に余裕ができて、ひまの意。
典 籍 : 書物。
錦衣玉食 : 美麗な衣服と、贅沢な食べ物。
 本  : 本来、元来の意。
浮 雲 : 漠然として、まったく関心がないことを
  空に浮かぶ雲に喩えた。

東湖が亡くなって5年後の
   1860年3月3日、桜田門外の変となり、
   脱藩した水戸藩士たちが井伊直弼を殺した。
   井伊直弼は1858年、大老に就任。享年46才(満44才)  
          ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
   作者不詳 の 『太田道灌蓑を借るの図に題す』






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