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佐久間 象山 の 『 漫 述 』

日本の絶句
03 /18 2018
絶句編テキスト

2018年3月18日 絶句編 71ページ  

   漫 述      佐久間 象山 
 謗る 者は 汝の 謗るに 任せ
 嗤う 者は 汝の 嗤うに 任せん
 天公 本 我を 知る
 他人の 知るを 覓めず
   
 まんじゅつ   さくま ぞうざん
そしる ものは なんじの そしるに まかせ
わろう ものは なんじの わろうに まかせん
てんこう もと われを しる
たにんの しるを もとめず


テキストの通釈によると、
(世情騒然たる際においては、将来のことは見通しがたく、人はそれぞれ意見を同じくするものと党を組み、わが論のみを正しいものとし、他人の説を一概に非なりとして退ける。この間にあって百万人たりと言えども、われ行かんの気概をもって、ただひとり開国進取を主張する)
この自分に対し、謗るものは気のむくまで
謗るがよいし、嘲笑するものもまた、心ゆくまで
嘲笑するがよい。天の神だけは、もちろん私の
正しさを理解していて下さるに違いないのだから、
あえて他人に知られることを求める必要はない
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
佐久間 象山(1811~1864)は、本名は啓(ひらき)、衝樹(ひらき)
江戸時代末期の松代藩士で、洋学者(オランダ語)
儒学者であり、兵学者・思想家でもある。
信州松代にある山・象山の麓で生まれ、号とした。

15才頃、佐藤一斎の門下生であった鎌原桐山に入門し
経書を学んだ。他でも、和算や水練などを学んだ。
23才で江戸に出て、当時の儒学の第一人者であった
佐藤一斎について詩文・朱子学を学んだ。
  ※ 佐藤一斎は『佳賓好主』の作者で、
     当時、昌平黌の総長であった。
31才の頃、松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛となり
象山は顧問に抜擢され、アヘン戦争などの海外情勢を研究。
オランダの自然科学書、医書、兵書などの精通に努めた。

41才、江戸・木挽町に「五月塾」を開き、砲術・兵学を教え、
勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らが入門してきた。
この頃、ペリーが開港を迫っていて、吉田松陰が密航しようと
して捕えられた。これに象山が連座し、松代で9年間の蟄居。
この間に西洋の学問を勉強し、開国論者となった。

1864年、53才、象山は一橋慶喜に招かれて上洛。
慶喜に公武合体論と開国論を説いた。当時の京都は
尊皇攘夷派の拠点となっており、象山には危険な行動で
三条木屋町で尊皇攘夷派に暗殺された。享年54才。
現在、暗殺現場には遭難之碑が建てられている。

漫 述 : なんとはなしに自分の心持ちを言い表す。
   『漫』はそぞろに。考えもなく。
 謗  : 悪口をいう。
 嗤  : あざ笑う。
天 公 : 天の神。天帝。
 覓  : さがし求める。

★ この詩は、開国論者になってから作られたものである。
★ 横井小楠、藤田東湖、佐久間象山とで幕末の三傑 と言われる
     ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
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