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梅田 雲浜 の 『 訣 別 』

日本の絶句
03 /18 2018
絶句編テキスト

2018年3月18日 絶句編 72ページ  

   訣 別      梅田 雲浜 
 妻は 病牀に 臥し 児は 飢えに 泣く
 挺身 直ちに 戎夷を 払わんと 欲す
 今朝 死別と 生別と
 唯 皇天 后土の 知る 有り
   
 けつべつ   うめだ うんぴん
つまは びょうしょうに ふし こは うえに なく
ていしん ただちに じゅういを はらわんと ほっす
こんちょう しべつと せいべつと
ただ こうてん こうどの しる あり


テキストの通釈によると、
妻は病の床についており、子どもたちは空腹に
耐えかねて泣き叫んでいる。 (妻子の明日からの
生活を考えれば、去ろうにも去れない気持であるが)
それをおいて自分は今一身を投げうって、かの暴慢
無礼な外敵を打ち払わんと出発するのである。
ああ今日のこの別れは、死別となるか性別となるか、
それはただ天地の神々のみが知り給うところであって
人の予期しうるところではない
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
梅田 雲浜(1815~1859)は幕末の志士で雲浜は号。
名は義質、定明。小浜藩士・矢部義比の次男で、
藩の儒学者・山口菅山から朱子学をび、祖父の家系
である梅田氏を継ぎ、大津に湖南塾を開いた。
29才で京都に行き、藩の塾である望楠軒の講師となる。

その後、 小浜藩主・酒井忠義に海防策を建言したところ、
藩政批判ととられ藩籍を剥奪され、浪人として各地をまわり、
尊王攘夷派の思想的指導者となっていく。
井伊直弼のやり方に強い危機感を持ち、井伊政権打倒を画策。
水戸藩に幕政改革を求める密勅を降下させたりしたことが
結果的に井伊直弼を硬直化させ、安政の大獄を引き起こさせ、
梅田雲浜も捕らえられたが、拷問に屈することなく45才で獄死。

訣 別 : ながのわかれ。永訣。
病 牀 : やまいのとこ。妻・信子は28才、
   雲浜が40才で出ていった翌年に没した。
児泣飢 : 長女・竹子は7才、長男・繁太郎は3才で病弱。
   翌々年に死亡した。
挺 身 : 身を抜き出す。真っ先に進む。
戎 夷 : 中国で東のえびすを『夷』、従って『東夷(とうい)』。
   西方を『戎』、従って『西戎(せいじゅう)』という。
   ここでは、露国を卑しめていう。中国では洛陽を中心にして、
   南は『南蛮(なんばん)』、北は『北狄(ほくてき)』と争っていた。
皇天后土 : 天地の神々。天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)

★ この詩は、大阪湾にロシアの船が入港した折
  雲浜が、家族との永久の別れをも決意して
  40才で家を出ていく時に作った詩である
     ・・・ とのことです。





    【 日本の絶句 】
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