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大窪 詩仏 の 『 閑 遊 』

日本の律詩
08 /10 2018
  閑 遊     大窪 詩仏

 淡靄 微風 雨後の 天
 閑遊 時に 復 江辺に 向う
 落花 我に 於いて 何ぞ 軽薄なる
 飛絮 人に 比すれば 尤も 放顚
 詩 漸く 平に 至るは 淡を 愛するに 因り
 酒 聊か 量を 減ずるは 是れ 年を 添うるなり
 近来 自ら 覚ゆ 春 味い 無きを
 一酔 昏々として 只 眠らんと 欲す


  かんゆう       おおくぼ しぶつ
たんあい びふう うごの てん
かんゆう ときに また こうへんに むこう
らっか われに おいて なんぞ けいはくなる
ひじょ ひとに ひすれば もっとも ほうてん
し ようやく へいに いたるは たんを あいするに より
さけ いささか りょうを げんずるは これ としを そうるなり
きんらい みずから おぼゆ はる あじわい なきを
いっすい こんこんとして ただ ねむらんと ほっす


先生のお話によると、
大窪詩仏(1767~1837)は、江戸時代後期の漢詩人。
常陸国袋田村(現 茨城県大子町)に生まれた。
書画もたしなんだ。

中国唐の時代、詩仙・李白、
詩聖・杜甫、詩仏・王維と言われているが、
大窪詩仏は、尊敬し慕っていた杜甫の詩
『杜老詩中仏』から≪詩仏≫をとったと思われる。

医を生業としていたが、父が江戸にて小児科医を開業。
詩仏は15才頃、日本橋で開業する父の元に身を寄せて
医術を学んだ。21才頃より儒学も学び、詩作も始めた。
24才で父が亡くなると詩人として身を立てる決意をする。
25才の時、師事していた市河寛斎が富山藩に仕官したため
柏木如亭と二痩社を開き、100人を超える門人が集った。
一方で、詩集や啓蒙書なども刊行し、各地を旅もした。
39才の時、江戸の大火で家を焼失。復興の費用を
捻出するため遊歴。江戸に戻るとお玉ヶ池に家を新築
詩聖堂と名付け、杜甫の像も造り、頼山陽などとも交流した。

59才の時、詩仏は秋田藩に出仕する。江戸の藩校
日知館の教授として俸禄を支給され、生活は変らなかった。
『閑遊』は、この頃に作った詩である。

63才になる頃、江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂が全焼。
秋田藩邸に仮住まいをした後、小宅を構えることは出来たが
詩聖堂を復興することは出来なかった。この冬、妻が先立つ。
65才で秋田に旅した帰路、脚気が悪化し迎えが必要となった。
1837年、自宅で71才にて没した。

詩の意味は、
うすもやが立ち込め、心地良いそよ風が吹く
雨上がりの空。のんびりと散歩を楽しもう。
時にはまた、川のほとりにも足を伸ばそう。

 淡 靄 = うすもやが立ち込める様子
 閑 遊 = のんびりと楽しむ

(私が堪能するのを待たずに)花が散ってしまうことは
私からみると、なんと浅はかで無風流なことであろうか。
綿のような柳の新芽は、私のような風騒な人間に比べれば
もっと自由奔放で、風狂とも言えるほどである。

 飛 絮 = 綿のように柔かい柳の芽
 放 顚 = 自由奔放、気違いじみている
 人に比すればの『人』は、風流人、風騒の人のこと。
   風騒とは、『詩経』の中の≪国
          『楚辞』の中の≪離≫より
      ①詩文を作ること
      ②詩文をもてあそぶ風流なわざ、遊び

このごろになって、自分の詩が少しずつ平明で
分りやすくなってきているのは、あまり
難しく考えないで淡白を愛するようになったから。
酒も、わずかばかりでも量を減らすようになったのは
これもまた年を重ね、老境に至ったということであろう。
 
 平 = 平明、分りやすい
 
近ごろは、自分でも春に面白みをあまり感じなくなって、
ひとたび酔うと、うとうと朦朧となって、ただただ
このまま眠ってしまいたくなってしまうことだ。

 一 酔 = ひとたび酔うと
     
         ◆  ◆  ◆

この詩は、前半で春の明るく賑やかな世界を詠い、
後半では、自分の老年に至った心境などを詠っている。

大窪詩仏は旅をしながら詩をたくさん作り、
『西遊諸草』『北遊諸草』などにもまとめている
   ・・・ とのことです。



        

     【日本の律詩】

   良 寛 の 『 意に 可なり 』






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