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蒲生 君平 の 『 述 懐 』

日本の律詩
08 /17 2018
 述 懐     蒲生 君平

 丈夫 生まれて 四方の 志 有り
 千里 剣書 何れの 処にか 尋ねん
 身は 転蓬に 任せて 遠近 無く
 思いは 流水に 随って 幾たびか 浮沈す
 笑って 樽酒を 看て 狂 先ず 発し
 泣いて 離騒を 読んで 酔後に 吟ず
 唯 太平 恩沢の 渥きに 頼って
 自ら 章句を 将って 青衿に 託す


  じゅっかい       がもう くんぺい
じょうふ うまれて しほうの こころざし あり
せんり けんしょ いずれの ところにか たずねん
みは てんぽうに まかせて えんきん なく
おもいは りゅうすいに したがって いくたびか ふちんす
わらって そんしゅを みて きょう まず はっし
ないて りそうを よんで すいごに ぎんず
ただ たいへい おんたくの あつきに よって
みずから しょうくを もって せいきんに たくす


先生のお話によると、
蒲生 君平(1768~1813)は、江戸時代後期の漢詩人、著述人。
君平は字で、本名は秀実(ひでざね)。通称は伊三郎。
下野国宇都宮の灯油商の家に生まれた。
父の本名は福田正栄であったが、祖父から、祖先
が蒲生氏郷(うじさと・戦国時代~安土桃山時代
の武将)であると教えられ、17才で蒲生に改姓した。

6才の頃から近所の延命院で学び、15才の頃
鹿沼の儒学者・鈴木石橋の麗澤之舎に入塾。
毎日、三里の道を往復、塾では『太平記』を愛読した。
勤皇思想に傾斜し、水戸藩の勤王の志士、
藤田幽谷とも出会い、水戸学の影響を受けた。

32才の時、父の喪が明け、すべての天皇陵を調べあげようと
旅に出る。佐渡島の順徳天皇陵までの歴代天皇陵を旅する。
旅から帰り、江戸駒込に塾を開き、何人かの弟子に講義、
『山陵志』を完成させ、その中で前方後円墳の語ができた。

『山陵志』は、大和(奈良)、河内・和泉(大阪)、山城(京都)、
などの畿内を中心に、天皇の墓92陵を訪ね歩き、調査し、
自身の考えも加えて、二巻の書物にまとめた。
君平は、皇室の御陵の荒廃を悲しみ、幕府にも献上。
当時の天皇も読まれたとのこと。
この詩では、諸国を調査しながら歩いて感じたこと、苦労した
ことなど、心の中の思い(述懐)が、述べられている。


詩の意味は、
一人前の男子として生まれて、四方あちらこちら
(尊王の)理想を求めて諸国へと旅に出る。長い遍歴の行程を
刀剣と書物をたずさえ、いったい、どこを探したらよいか
あてどもなく多くの陵墓を尋ね歩いた。

 四 方 = あらゆる場所、あちらこちら
 剣 書 = 身を守るための刀剣と、筆記する用紙

わが身は風になびく枯れ蓬のように、遠く
また近くを放浪し、あてどのない調査遍歴を重ねてきた。
ひとすじの思いは、流れる水に任せて浮き沈みする
浮遊物のようになすがまま、なされるままに
心もとなく、苦難の旅であった。

 転 蓬 = 風雨によってどちらに倒れるか分らない蓬
 
しばしの休息で、樽酒を見ては喜びによって笑い、
安らぎと開放感が狂ったようにこみ上げてくる。
『離騒』を読んでは泣いて、酔ったあとには吟じたものだ。
 
離 騒= 憂いに遭うという意。離は遭う、遭遇する。騒は憂う。
    楚辞の中に出てくる憂国の士・屈原の詩を読み、
    感銘を受けて、節をつけて詠ったということ。

今は幸いにも治世が行き届いて、天下がもっぱら
きわめて平和である。これからは、自分の学んだこと、
やってきたこと、知りえたことを、若い学生たちに伝え、
自分の思いを、希望を、若者たちに託していきたい。

 章 句 = 一章一句にだけ、全体をつかみ得ない(学問)
    自分の学問を謙遜し、へりくだってる言い方
 青 衿 = 学生の着る服 → 学生
    
         ◆  ◆  ◆

同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に
「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)
   ・・・ とのことです。


蒲生君平については こちら でも ご覧になれます。
        



     【日本の律詩】

   大窪 詩仏 の 『 閑 遊 』







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