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頼 鴨涯 の 『 春簾雨窓 』

日本の絶句
04 /25 2018
絶句編テキスト

2018年4月25日 絶句編 77ページ  

   春簾雨窓      頼 鴨涯 
 春は 自ら 往来して 人は 送迎す
 愛憎 何事ぞ 陰晴を 惜しむ
 花を 落すの 雨は 是れ 花を 催すの 雨
 一様の 檐声 前後の 情
   
 しゅんれんうそう    らい おうがい
はるは おのずから おうらいして ひとは そうげいす
あいぞう なにごとぞ いんせいを おしむ
はなを おとすの あめは これ はなを もよおすの あめ
いちようの えんせい ぜんごの じょう


テキストの通釈によると、
春は自然にやってきて自然に去って行く。
人はこの去来を送り迎えすればよいわけであるが、
なかなかにそうはゆかぬものの様である。
何も、雨が降ったから花も台無しだと思い、晴れたから
花が見られると一々憎んだり喜んだりすることはないのである。
花を散らす雨は、つまり花の咲くのをうながした雨、
同じ雨なのである。(今、簾ごしに春雨の景色を
眺めながら、軒端の雨垂れの音を聞いているが)
同じこの雨垂れの音も花の咲く前と咲いた後とでは、
聞くものに愛憎両様の気持ちを起こさせることである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
頼 鴨涯(1825~1859)は、幕末の尊皇攘夷派の志士・儒学者。
本名は三樹三郎で頼山陽の三男(京都の奥さんの2番目の息子)

父・山陽をはじめ、16才からは大坂の儒学者に学んだ。
19才で江戸に出て、昌平黌で学んだが、徳川将軍家の
菩提寺である寛永寺の石灯籠を破壊して退学処分とされた。
その後、東北地方から松前藩へとまわり、松浦武四郎と親交。
1849年25才で京都に戻り、再び勤王の志士として活動するが、
母の注意もあって自重していたが、母が死去すると
家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。
1858年、将軍家跡目争いでは、徳川(一橋)慶喜擁立を求め、
大老の井伊直弼から危険人物の一人と見なされた。

梁川星巌がコレラで亡くなる際、鴨涯が最期を看取ったという。
同年、安政の大獄で捕らえられ、江戸に送られて幽閉され、
伝馬町牢屋敷で橋本左内や飯泉喜内らとともに斬首された。
享年35才。墓は京都にある長楽寺と松蔭神社とにある。

愛 憎 : 天気が良いと喜び、雨になると憎む。
陰晴惜 : 花を落とす雨を残念に思って憎む。
   「陰」はくもり。「惜」は「陰」だけにかかって「晴」にはかからない。
檐 声 : 軒に滴るあまだれの音。
前後情 : 花の咲く前と咲いた後の気持ち。
     ・・・ とのことです。

            

安政の大獄、死刑・獄死者
橋本左内………越前福井藩松平春嶽家臣、斬罪
梅田雲浜………小浜藩士、獄死
吉田松陰………長州藩毛利敬親家臣、斬罪
頼鴨涯(三樹三郎)……京都町儒者、斬罪
安島帯刀………水戸藩家老、切腹
鵜飼吉左衛門…水戸藩京都留守居役、斬罪
鵜飼幸吉………水戸藩京都留守居役助役、獄門
茅根伊予之介…水戸藩奥右筆、斬罪
飯泉喜内………元土浦藩士・三条家家来、斬罪
日下部伊三治…薩摩藩士、獄死
藤井尚弼………西園寺家家臣、獄死
信海……………僧侶、月照の弟、獄死
近藤正慎………清水寺成就院坊、獄死
中井数馬………与力、獄死

隠居・謹慎者
一橋慶喜………一橋徳川家当主(徳川慶喜)
松平春嶽………福井藩主
徳川慶篤………水戸藩主(9月30日に免除)
徳川慶勝………尾張藩主
伊達宗城………宇和島藩主
山内容堂………土佐藩主
堀田正睦………佐倉藩主
太田資始………前掛川藩主 他 多数

★1860年3月3日、桜田門外にて井伊直弼が殺害された
 二年後、慶喜が将軍後見職に、春嶽が政事総裁職となる。




     【 日本の絶句 】
   菊池三渓 の 『新涼書を読む』








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