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徳川景山 の 『弘道館に梅花を賞す』

日本の絶句
12 /21 2017
絶句編テキスト
2017年12月21日 絶句編 59ページ  

   弘道館に梅花を賞す    徳川景山 
 弘道館中 千樹の 梅
 清香 馥郁 十分に 開く
 好文 豈 威武 無しと 謂わんや
 雪裡 春を 占む 天下の 魁
   
 こうどうかんに ばいかを しょうす/strong>  とくがわ けいざん
こうどうかんちゅう せんじゅの うめ
せいこう ふくいく じゅうぶんに ひらく
こうぶん あに いぶ なしと いわんや
せつり はるを しむ てんかの さきがけ


テキストの通釈によると、
弘道館の中には、およそ千株もの梅の木がある。
その梅は、いま満開で清らかな香りが
ぷんぷんとあたりに漂っている。
昔、晋の武帝が学問を好むと梅の花が咲き、
学問を辞めると咲かなくなった故事から、
梅を好文木と称するようになったというが、
その一面、武の威力が梅にないといえようか。
あのきびしい寒中に雪を冒して独り咲き出でて、
天下の春の魁をなすのは、まさにこの花である

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
徳川景山(1800~1860)は、水戸藩の第9代藩主。
景山は号で、徳川斉昭と名乗っていた。
江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜の実父である。
三男だった斉昭は30才まで部屋住みであったが、
第8代藩主・斉脩が病死した後、家督を継いだ。

藩校・弘道館を設立、広く人材を登用することに努め、
戸田忠太夫、藤田東湖などを登用して藩政改革を行った。
大久保彦左衛門などと共に将軍のご意見番ともなっていた。

1853年、ペリーの浦賀来航の折、老中・阿部正弘の要請で
海防参与として幕政に関わったが、強硬な攘夷論を主張した。
1857年、阿部正弘が死後、開国を推進する井伊直弼と対立。
斉昭(景山)は、尊皇攘夷派の最たるものであったが、
安政の大地震で藤田東湖などのブレーンを失っている。

そして、第14代将軍をめぐって、井伊直弼らと争って敗れた。
直弼が大老となると、日米修好通商条約が調印され、
慶福(家茂)が第14代将軍となった。景山は直弼により
江戸水戸屋敷で謹慎を命じられ、幕府中枢から排除された。

さらに孝明天皇による密勅が水戸藩に下されたことに
井伊直弼が激怒し、水戸での永蟄居を命じられることになり、
事実上は政治生命を絶たれる形となった(安政の大獄)。
1860年、蟄居処分のまま、水戸にて61才で急逝した。
桜田門外の変から間もない時期であった。

          

弘道館 : 水戸の藩学。文館と武館とがあった。
   文武両道が奨励され、戊辰戦争で焼けて一部しか残っていない。
馥 郁 : 香気盛んなさま。    
好 文 : 梅の異名を好文木という。
   晋(山西省)の武帝(司馬炎)が学問を好むと
   梅の花が咲き、学問を辞めると咲かなくなった
   故事から梅を好文木と称するようになった。
威 武 : 武帝の威力。
雪 裡 : 雪を冒して。
 魁  : 他に先んじる事。

★ 後楽園は、偕楽園、兼六園とともに三大名園とされる。
★ 徳川御三家としては最後の将軍だけが水戸藩から出た
         ・・・ とのことです。





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