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徳川景山 の 『 大楠公 』

日本の絶句
12 /21 2017
絶句編テキスト
2017年12月21日 絶句編 60ページ  

   大楠公     徳川景山 
 豹は 死して 皮を 留む 豈 偶然ならんや
 湊川の 遺跡 水 天に 連なる
 人生 限り 有り 名は 尽くる 無し
 楠氏の 精忠 万古に 伝う
   
 だいなんこう   とくがわ けいざん
ひょうは しして かわを とどむ あに ぐうぜん ならんや
みなとがわの いせき みず てんに つらなる
じんせい かぎり あり なは つくる なし
なんしの せいちゅう ばんこに つとう


テキストの通釈によると、
あのけだもの豹でも死んだ後に美しい皮を残す。
まして人間が死んで美名をこの世に留めるのは
偶然であろうか、決して偶然なことではない。
(忠義を全うすれば、死後その名は永く人に
記憶されて、いつまでも世に残るものである)
南朝の忠臣楠木正成公の戦死を遂げた湊川の遺跡に
来てみれば、川の流れがはるかに遠く天に連なっている。
人の生涯には限りがあるが、立派な人物の名前は
この川の流れのようにいつまでも尽きないのであって、
楠公の純粋な忠義は、万古にわたって
わが国民の間に伝えられることであろう

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
徳川景山(1800~1860)は、水戸藩の第9代藩主。
景山は号で、徳川斉昭と名乗っていた。
江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜の実父である。
三男だった斉昭は30才まで部屋住みであったが、
第8代藩主・斉脩が病死した後、家督を継いだ。

藩校・弘道館を設立、広く人材を登用することに努め、
戸田忠太夫、藤田東湖などを登用して藩政改革を行った。
大久保彦左衛門などと共に将軍のご意見番ともなっていた。

1853年、ペリーの浦賀来航の折、老中・阿部正弘の要請で
海防参与として幕政に関わったが、強硬な攘夷論を主張した。
1857年、阿部正弘が死後、開国を推進する井伊直弼と対立。
斉昭(景山)は、尊皇攘夷派の最たるものであったが、
安政の大地震で藤田東湖などのブレーンを失っている。

そして、第14代将軍をめぐって、井伊直弼らと争って敗れた。
直弼が大老となると、日米修好通商条約が調印され、
慶福(家茂)が第14代将軍となった。景山は直弼により
江戸水戸屋敷で謹慎を命じられ、幕府中枢から排除された。

さらに孝明天皇による密勅が水戸藩に下されたことに
井伊直弼が激怒し、水戸での永蟄居を命じられることになり、
事実上は政治生命を絶たれる形となった(安政の大獄)。
1860年、蟄居処分のまま、水戸にて61才で急逝した。
桜田門外の変から間もない時期であった。

          

豹死皮留 : 豹のような禽獣すら死後に美しい斑紋のある
   皮を残す。まして人は美しい名を後世に
   伝えなければならないという意。
豈偶然 : どうしてその美名が実なくして得られようか、
   得られるものではない。 「豈」は、反語。   
湊川遺跡 : 正成戦死の遺跡が攝津(兵庫県)の湊川にある。
限 有 : 人の一生には限りがある。

★ 水戸第三代藩主・水戸光圀(家康の孫・いわゆる黄門様)は
 『大日本史』の中で、楠木正成を忠臣とし、
 水戸魂・・・水戸の精神、忠誠心を唱えている。
★ 楠木正成を大楠公と呼ぶのに対し、子の正行を小楠公と呼ぶ
         ・・・ とのことです。




    【 日本の絶句 】
   徳川景山 の 『弘道館に梅花を賞す』






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