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大槻磐渓 の 『 春日山懐古 』

日本の絶句
12 /26 2017
絶句編テキスト
2017年12月26日 絶句編 62ページ  

   春日山懐古     大槻磐渓 
 春日山頭 晩霞に 閉さる
 驊騮 嘶き 罷んで 鳴鴉 有り
 憐れむ 君が 独り 能州の 月を 賦して
 平安・城外の 花を 詠ぜざりしを
   
 かすがさん かいこ    おおつき ばんけい
かすがさんとう ばんかに とざさる
かりゅう いななき やんで めいあ あり
あわれむ きみが ひとり のうしゅうの つきを ふして
へいあんじょうがいの はなを えいぜざりしを


テキストの通釈によると、
今日、在りし日の上杉謙信の居城・春日山の跡に
来て見れば、山一面が夕映えに照り輝いて、
昔の名馬のいななきも聞えず、ただものさびしく
鴉が鳴いているだけである。それにつけても
謙信ほどの英雄が『越山併せ得たり能州の景』などと、
空しく僻地の月のみを愛でるに留まり、京都に上って
天下の統一を果して、都付近の花を詠むこともなく
身を絶えたことは、まことに気の毒でならない。

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
大槻磐渓(1801~1878)は、江戸後期から幕末に活躍した漢学者。
仙台藩士の子どもであるが、江戸木挽町で生まれる。
父は蘭学者で医者でもある大槻玄沢。
六番目の次男で六二郎と名づけられた。

16才のころ昌平坂学問所(昌平黌)で林家に入門。
22才の頃、仙台藩校の明倫養賢堂に入るが、翌年、
江戸の昌平黌に戻り、翌年また明倫養賢堂へ戻ったり、
27才までの間、断続的ではあるが、昌平黌で学ぶ。

1827年、27才の頃、蘭学の修行のため、関西・九州・
長崎に遊学。大槻玄沢の息子であったということもあり
多くの学者達の教えを受けながらの旅であった。

長崎遊学中、父が病に倒れたとの知らせで江戸へ帰るが、
父玄沢は亡くなっていた。翌年、再び長崎に遊学したが、
シーボルト事件の影響により蘭学を学べず、翌年江戸に帰った。
磐渓は父の望んだ蘭学の習得は出来ず、漢学者となった。

幼いころから異国の文化に触れながら育った磐渓は
開国論を唱えたが受け入れられず、多くの非難を浴びた。
そのような中で、磐渓は藩の命令で仙台に戻り、
65才で、藩校の明倫養賢堂の学頭となる。
68才で、戊辰戦争となり、磐渓は仙台藩論客として
奥羽列藩同盟の結成に進め、戦ったが破れた。

仙台藩は勤王派が中心となり、戦争を主導した者たち
磐渓を初めとした佐幕派への責任が問われた。
それにより、伊達家の存続は許されたが、指導者、
但木土佐ら磐渓の教え子たちは斬首刑に処せられた。
磐渓も、斬首刑者の中に入っていたが、高名な漢学者で
老体であることなどから終身禁固の刑となった。それも
1870年、仮出獄を許され、翌年には謹慎も解かれた。

その後、磐渓は江戸に出て、本郷に隠棲、静かに
詩酒を楽しみながら余生を送り、78才で亡くなった。

          
 
春日山 : 新潟県上越市にあって城跡を残している。
   謙信の父長尾為景がここを拠点とし、越後全州を領していた。
   謙信も又ここに城を築いたが、慶長2年、景勝に及んで
   会津に移封され、のち堀秀治の居城となり、江戸時代に
   到って平忠勝を封ずるに及び、居城を上越に移した。
晩 霞 : 夕映え。『霞』は淡い霧が日の方角にたなびいていて
   赤く見えるもので、ここでは朝焼け・夕焼けの意。
   一般には、春がすみの意に用いる。
驊 騮 : 樺色に似たあか毛の馬。ここでは謙信の乗った名馬。
賦能州月 : 謙信が能登の七尾城を攻撃した折、九月十三夜陣中に
   おいて明月を賞しながら酒宴を開き、詩を詠じたが、
   その転句に『越山併得能州景』とあったのを指す。
平安城 : 京都。謙信が上京して天下の権を取り、
   洛外の花見などが出来なかったのを惜しんで言う
         ・・・ とのことです。

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