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大槻磐渓 の 『 平泉懐古 』

日本の絶句
01 /13 2018
絶句編テキスト
2018年1月13日 絶句編 63ページ  

   平泉懐古     大槻磐渓 
 三世の 豪華 帝京に 擬す
 朱楼 碧殿 雲に 接して 長し
 只今 唯 東山の 月のみ 有って
 来たり 照らす 当年の 金色堂
   
 ひらいずみかいこ    おおつき ばんけい
さんせいの ごうか ていきょうに ぎす
しゅろう へきでん くもに せっして ながし
ただいま ただ とうざんの つきのみ あって
きたり てらす とうねんの こんじきどう


テキストの通釈によると、
藤原氏三代の繁栄は豪華を極めた。当時、
平泉を天皇の都『京都』になぞらえ、
雲に届くばかりの朱塗りの楼台、碧色(あおいろ)の
殿堂が長々と立ち並んでいたものであったが、
今はただ、そうした豪奢も空しい夢となり、
昔と変わらぬものは東山に出る月だけで、
毎夜来て、当時からの唯一の遺物たる
金色堂を照らしているのである

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
大槻磐渓(1801~1878)は、江戸後期から幕末に活躍した漢学者。
仙台藩士の子どもであるが、江戸木挽町で生まれる。
父は蘭学者で医者でもある大槻玄沢。
六番目の次男で六二郎と名づけられた。

16才のころ昌平坂学問所(昌平黌)で林家に入門。
22才の頃、仙台藩校の明倫養賢堂に入るが、翌年、
江戸の昌平黌に戻り、翌年また明倫養賢堂へ戻ったり、
27才までの間、断続的ではあるが、昌平黌で学ぶ。

1827年、27才の頃、蘭学の修行のため、関西・九州・
長崎に遊学。大槻玄沢の息子であったということもあり
多くの学者達の教えを受けながらの旅であった。
(この旅については自著 『西遊記程 』に書かれている)

長崎遊学中、父が病に倒れたとの知らせで江戸へ帰るが、
父玄沢は亡くなっていた。翌年、再び長崎に遊学したが、
シーボルト事件の影響により蘭学を学べず、翌年江戸に帰った。
磐渓は父の望んだ蘭学の習得は出来ず、漢学者となった。

幼いころから異国の文化に触れながら育った磐渓は
開国論を唱えたが受け入れられず、多くの非難を浴びた。
そのような中で、磐渓は藩の命令で仙台に戻り、
65才で、藩校の明倫養賢堂の学頭となる。
68才で、戊辰戦争となり、磐渓は仙台藩論客として
奥羽列藩同盟の結成に進め、戦ったが破れた。

仙台藩は勤王派が中心となり、戦争を主導した者たち
磐渓を初めとした佐幕派への責任が問われた。
それにより、伊達家の存続は許されたが、指導者、
但木土佐ら磐渓の教え子たちは斬首刑に処せられた。
磐渓も、斬首刑者の中に入っていたが、高名な漢学者で
老体であることなどから終身禁固の刑となった。それも
1870年、仮出獄を許され、翌年には謹慎も解かれた。

その後、磐渓は江戸に出て、本郷に隠棲、静かに
詩酒を楽しみながら余生を送り、78才で亡くなった。

          
 
平 泉 : 岩手県西磐井(いわい)郡平泉町、北上川中流にある史跡。
   東北本線に近い平泉丘陵には、中尊寺・毛越(もうつう)寺や、
   源義経最期の地といわれる高館の跡などがある。
   清衡・基衡・秀衡の藤原三世がこの地に居館を築き、
   約100年にわたり奥羽の地を領して豪華を極めた。
 ★清衡(1代)・基衡(2代)・秀衡(3代)・泰衡(4代)
  平泉は、2011(平23)年に世界遺産に認定されている。
   泰衡が義経を自害に追いやり、泰衡は頼朝に殺される。
豪 華 : 非常に華やかなこと。威勢が良くて派手やかなこと。
   また奢りを極めること。
金色堂 : 平泉の駅の西方2kmにある中尊寺の仏閣。
   一名、光(ひかり)堂と呼ばれ、国宝に指定されている。
 ★ 『奥の細道』芭蕉の句に 『五月雨の降り残してや光堂』とある
         ・・・ とのことです。




    【 日本の絶句 】
   大槻磐渓 の 『 春日山懐古 』






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