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作者不詳の『太田道灌蓑を借るの図に題す』

日本の絶句
01 /13 2018
絶句編テキスト
2018年1月13日 絶句編 64ページ  

   太田道灌蓑を借るの図に題す    作者不詳 
 孤鞍 雨を 衝いて 茅茨を 叩く
 少女 為に 遺る 花 一枝
 少女 言わず 花 語らず
 英雄の 心緒 乱れて 糸の 如し
   
 おおたどうかんみのをかるのずにだいす  さくしゃふしょう
こあん あめを ついて ぼうしを たたく
しょうじょ ために おくる はな いっし
しょうじょ いわず はな かたらず
えいゆうの しんしょ みだれて いとの ごとし


テキストの通釈によると、
太田道灌が、あるとき供を連れず一人馬に乗って
狩りに行ったが、途中ひどい雨に遭い、ある藁屋の
戸を叩いて蓑を借りようとした。すると、その家の
娘が出てきて、八重山吹の一枝を差し出した。
娘はそれなり一言も発せず、道灌は花を見ていても
どういう意味か一向に判断が付かない。
さすが英雄道灌も、この時ばかりは心の中が
千々に乱れて、まるでもつれて解けぬ糸のようであった

     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
太田 道灌(1432~1486)は、江戸城を築いたことで有名で、
武将としても学者としても一流という定評があった。

道灌は、扇谷家2代にわたって補佐、河越城、
江戸氏の領地であった地に江戸城を築城した。

道灌はいくつもの合戦を戦い抜き、上杉家を救った。
それによって扇谷上杉家の勢力は大きく増し、
道灌の力や人望も絶大なものになっていった。

1486年、道灌は主君である扇谷定正の館に招かれ、
ここで暗殺された。死に際に「当方滅亡」と言い残した。
「自分がいなくなれば、扇谷家は滅びる」という
この言葉の通り、まもなく扇谷上杉家は滅ぼされた。

          
 
太田道灌 : 室町時代の武将で、江戸城の築城者として名高い。
   川越城も道灌の築城による。
   道灌は剃髪後の称で、名は資長(すけなが)。
   和歌に巧みで後土御門(つちみかど)上皇にお答えした
     「わが庵は松原つづき海近くふじの高嶺を軒端にぞ見る」
   は有名である。上杉定正に仕え、定正の勢威を妬んだ
   上杉顕定(あきさだ)に諌言され、異志あるものと疑われて
   1486年に55才で殺された。   
孤 鞍 : 従者も連れずに一人で馬に乗って行くこと。
茅 茨 : かやぶきの家。
花一枝 : 八重の山吹の一枝。
   少女が無言のまま一枝の花を捧げたのは、
     「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき」
   という 『後拾遺集』の中務郷兼明親王(醍醐天皇の第16子)の
   歌の、八重山吹には 『実』がならぬの意を借りて、
    『蓑』一つさえないことを示したものである。
心 緒 : 心持ち。心の動き
         ・・・ とのことです。

こちら に よると、作者については「遠山雲如(うんじょ)、大槻磐渓、新井白石、愛敬四山説などあって、作者不明とする解説書も多数ある」とのことです。

       ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ 


★今から50年前位に発行された子ども向けの本に載っていたお話し。
その本では「およそ500年前」となっていましたが、「およそ550年前」
と変更しました。暗誦して語ったことがありますので書き添えます。
     (少し文を変えてあります)

   山吹の里   新宿区の伝説
今からおよそ550年あまり昔、東京が江戸と呼ばれていた頃のこと。
ということは、徳川家康が江戸に幕府を開く100年も前のことなんじゃが、
その頃の江戸はまだ住む人も少なく、雑木林や荒れ野のつづく寂しい村じゃった。
扇谷(おおぎがやつ)上杉家に仕える太田持資(もちすけ)という武士が、
今の皇居のある所に、小さな城を築いていた。
そのころ京都では、応仁の乱という大きな戦さが何年も続いていたんじゃ。
ほぼ10年もの激しい戦さで、京都の町はほぼ全滅したということなんじゃが、
ここ武蔵野の辺りでも、あちらこちらに城を構えた武将たちが、
互いに争い、小さな戦さをくり返していた。
そんなある日のこと、持資は何人かの家来を連れて鷹狩りに出かけた。
鷹匠が馬に乗り、手に鷹をとまらせ、犬を連れて、殿に従った。
いつものように江戸城から馬場下へ出て、高田村(今の高田馬場)の辺りで
狩りをしていた。獲物を求めて高い空を舞う鷹を見ていると、持資は日ごろの
疲れを忘れた。持資の心はのびのびと空へ広がっていく思いだった。

いつのまにか時が過ぎて、日暮れ近くになったのだろうか。
辺りが薄暗くなってきた。
「さて、そろそろ帰るとしようか」
家来に声をかける間もなく、ポツリポツリと大粒の雨が落ちてきた。
雨はたちまち激しくなる。
持資と家来は、どこか木陰でもないかと辺りを見回した。
すると、向こうの林の外れに小さなわら屋根が見えた。
 
軒下に駆け込んだ家来が、「申し!」と声をかけた。
すると、ひとりの娘が出てきた。あばら家に似合わぬ美しい娘だった。
持資は言った。
「急な雨で、雨具の用意もなく困っている。すまんが、蓑を貸して下さらぬか」
すると、娘は黙って家の中へ消えた。と思うと、しばらくして
裏庭から折り取ってきたらしい小枝を持って現れた。そして、
静かに持資の前に差し出した。濡れた緑の葉の間に、
黄色い花が美しい。山吹の枝だった。
黙って恥ずかしそうにうつむいている娘と、山吹の枝を見比べて、
持資はとまどった。
 (この娘は口がきけないのだろうか。
    それとも何か勘違いしているのだろうか)

持資は腑に落ちないまま、にわか雨のやむのを待って城へ帰った。
城でそのことを話すと、中村治部少輔重頼(なかむらじぶのしょうゆう
しげより)という家来が言った。和歌にくわしい、年とった家来だった。
「殿、むかし、醍醐天皇の皇子、兼明親王が
小倉の山荘に住んでおられた時に詠まれた歌に、
   七重八重 花は咲けども 山吹の 
          実のひとつだに なきぞかなしき

 という歌がございます。 『後拾遺和歌集』にも載っている
有名な歌でございます。 『山吹は美しい花を咲かせるけれど
実のひとつもならないかなしい花だ』というその歌の
『実のひとつだになき』という言葉にかけて、その娘は
『お貸しする蓑ひとつない貧しい暮らしでございます。
 どうぞ、お許し下さいませ』という気持ちをこめて、
山吹の枝を差し出したのでございましょう。
田舎にはめずらしい学問のある娘とみえまする」
 「そうであったのか」
持資は、深く自分の無知を恥じた。

その賢く、美しい娘は、応仁の乱の難をさけて、
京都から武蔵野に逃れてきて住みついた武士の娘だった。
武士にはふたりの娘があって、太田持資に山吹の枝を
差し出したのは、姉娘の紅皿(べにざら)であった。
このことがあってから、持資は武道だけでなく学問にも励んだ。
そして、強い武将であると同時に、心も豊かな人間になろうと心がけた。
のちに、頭を剃って、太田道灌と名乗るようになったが、
紅皿を江戸城に呼んで、歌の友として、一生、
親しい交わりを続けたということじゃ。  (おしまい)


★太田道灌が亡くなった(殺害された)あと、尼になった紅皿の墓は、東大久保の大聖院という寺の境内に今も残っているということです。




    【 日本の絶句 】
   大槻磐渓 の 『 平泉懐古 』






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 詩吟もえ子

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