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山内容堂 の 『 逸 題 』

日本の絶句
05 /27 2018
絶句編テキスト

2018年5月27日 絶句編 79ページ  

   逸 題      山内容堂 
 風は 妖雲を 捲いて 日 斜ならんと 欲す
 多難 意に 関して 家を 思わず
 誰か 知らん 此の 裏 余裕 有るを
 馬を 郊原に 立てて 菜花を 看る
   
 いつだい    やまのうち ようどう
かぜは よううんを まいて ひ ななめならんと ほっす
たなん いに かんして いえを おもわず
たれか しらん この うち よゆう あるを
うまを こうげんに たてて さいかを みる


テキストの通釈によると、
風は妖しい雲を捲いて、はや日も暮れようとしている。
(それはちょうど太平の長い眠りを破って外国の軍艦が、
 わが海辺をしきりに窺い、いかなる事態が起ころうとする
 のか予測もつかないさまに似て不気味である)
まことに国家の多難が思われ、家のことなど顧みる暇もない。
しかし、このことのあるは前々から熟慮して来たところで、
いまさら何を慌てようか。自分がこういう時局に対して
ゆったりした気持ちを持っていることなど誰も知るまいが、
その胸中おのずから閑ありで、こうして乗馬を野中に
とどめて、今を盛りの菜の花見物をする折もあるのである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
山内豊信(とよしげ・1827~1872)は、幕末の外様大名で、
第15代土佐藩主。容堂は隠居後の号である。
初代藩主・山内一豊は(一豊の妻で知られる)、
もともとは秀吉の家臣であったが、家康に味方し、
遠州6万石から土佐24万石に移封された。

その15代藩主となった豊信は、革新派の吉田東洋を起用。
福井藩主・松平春嶽や、薩摩藩主・島津斉彬らとも交流し、
公武合体や幕政改革なども訴えた。老中、阿部のあと、
大老に就いた井伊直弼とは将軍継嗣問題で対立。
豊信は、徳川斉昭・松平春嶽らと共に謹慎となり、
藩主の座を譲り、隠居の身となって、容堂と号した。

桜田門外の変のあと、尊王攘夷の動きが活発となり、
土佐藩でも武市瑞山(半平太)ら土佐勤王党が台頭し、
1862年、容堂の意をくむ吉田東洋が暗殺された。

翌年、容堂は謹慎を許され、土佐に戻ると、
東洋を暗殺した土佐勤王党員を捕縛し、投獄した。
瑞山は切腹、他の党員らをも死罪などに処した。

一方、東洋が暗殺される直前に脱藩していた
坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介によって、
1866年、 薩長同盟が成立、明治維新へと移行していく。

容堂は、幕府を擁護し続けた一人であったが、
倒幕への動きを止めることは出来ず、
15代将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出、
1867年、政権が朝廷に返還された。

晩年は江戸(東京)で、酒と作詩に明け暮れて過ごした。
武市瑞山を殺してしまったために薩長に対抗できる
土佐の人物を欠いてしまったことを悔やんだともいう。
1872(明治5)年、46才、脳溢血に倒れ、生涯を閉じた。

            

逸 題 : 特に題をつけない詩。失題と同じ。
妖 雲 : 妖しい雲。
   ここでは外国の軍艦が海辺に出没することをいう。
此 裏 : このところ。今の事態において。
   『裏』は、処の意。
郊 原 : 野原

★ この詩は、幕末に国内が騒然としていた頃の作詩である
     ・・・ とのことです。




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