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西郷南州 の 『 偶 感 』

日本の絶句
05 /27 2018
絶句編テキスト

2018年5月27日 絶句編 80ページ  

   偶 感      西郷南州 
 幾たびか 辛酸を 歴て 志 始めて 堅し
 丈夫 玉砕するも 甎全を 恥ず
 我が 家の 遺法 人 知るや 否や
 児孫の 為に 美田を 買わず
   
 ぐうかん    さいごう なんしゅう
いくたびか しんさんを へて こころざし はじめて かたし
じょうふ ぎょくさいするも せんぜんを はず
わが いえの いほう ひと しるや いなや
じそんの ために びでんを かわず


テキストの通釈によると、
いくたびか艱難辛苦を経験して初めて
志が堅くなり、不屈の精神が養われるのである。
男子としては玉となって砕けるとも、瓦となって
生命を全うすることを恥辱とするものである。
我が家には先祖から伝わった子孫の守るべき
掟がある。それはご存知かどうか分らないが、
子孫のために田畑など財産を残し、安楽に世を
送らせるようなことは絶対にしない主義なのである。
(そんな事をしたならば、かえって子孫のためにならない
ことで、意志の強固な人物など出来はしないのである)
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
西郷 隆盛(1828~1877)は、薩摩藩士・軍人・政治家。
薩摩藩の下級藩士(郷士)の長男。南洲は号である。
吉之助→吉兵衛→明治以降・西郷隆盛を名のる。
藩主・島津斉彬(なりあきら)に抜擢され、お庭番、
現在の秘書のような役となり、強い影響を受けた。

公武合体政策で、篤姫が将軍家定に嫁ぐ時などに
活躍したが、斉彬の急死で失脚。奄美大島に流され
その後復帰するが、次の藩主・島津久光に反発したため
二回目の島流しで、沖永良部島に流罪となる。
しかし、大久保利通らの力添えで復帰したものの
三回目、徳の島に流される。が、三度、呼び戻され、
薩長同盟の成立や王政復古、戊辰戦争を主導した。

江戸城の総攻撃を前にして、勝海舟らと交渉し、
江戸の無血開城に力を注いだ。その後、薩摩へ
帰ったが上京し、明治4年、新政府参議となり、
陸軍大将などを務めたが、大久保らと対立。
征韓論を唱えたが反対され、鹿児島に戻って、
私学校での教育に当たっていた。

佐賀の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、
1877(明治10)年、西南戦争の指導者となるが、
敗れて城山で自刃した。51才であった。

            

偶 感 : 折にふれて、ふと思い浮かんだ感想。
丈 夫 : 責任と自覚をもって行動する一人前の男子。
   (中国古代の周の制で成年男子の身長を一丈としたことから)
玉 砕 : 玉のようにくだける、りっぱな死に方をいう。
甎 全 : 瓦となって安全に生き残ること。
   何もしないで生き長らえること。
美 田 : りっぱな田畑。転じて豊かな財産のこと。

★ 明治2年、正三位を与えられたが南洲はそれを固辞した。
 この詩は、その頃の気持ちをこめて作詩されたものである。
★ 大久保利通(幼なじみ)、木戸孝允(長州)、西郷隆盛、
 明治の三傑と言われている
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   山内容堂 の 『 逸 題 』








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