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西郷南州 の 『亡友月照十七回忌辰の作』

日本の絶句
05 /31 2018
絶句編テキスト

2018年5月31日 絶句編 81ページ  

   亡友月照十七回忌辰の作    西郷南州 
 相約して 淵に 投ず 後先 無し
 豈 図らんや 波上 再生の 縁
 頭を 回らせば 十有余年の 夢
 空しく 幽明を 隔てて 墓前に 哭す 
   
 ぼうゆうげっしょうじゅうしちかいきしんのさく 
               さいごう なんしゅう
あいやくして ふちに とうず こうせん なし
あに はからんや はじょう さいせいの えん
こうべを めぐらせば じゅうゆうよねんの ゆめ
むなしく ゆうめいを へだてて ぼぜんに こくす

テキストの通釈によると、
(月照とともに逃れて来た頼みのわが薩摩藩も、
身のおくところがなく、はや運命もこれまでと)
両人約束して薩摩の海の深みに身を
投じたのは、後先なく一緒であった。ところが、
どうしたことであろうか。前世からの因縁により
自分一人波の上に再び生き返ろうとは、
まことに信じられないほど意外であった。
思い返せば早くも十幾年前のことになるが、
昨日のように生々しく思い出される。
(今日は亡友月照の十七回忌の命日)むなしく
幽明境を異にし、互いに二度と相見ることが出来ない。
これを思うと悲しさに堪えず、墓前に額づき、
思わず声をあげて泣いたことであった
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
西郷 隆盛(1828~1877)は、薩摩藩士・軍人・政治家。
薩摩藩の下級藩士(郷士)の長男。南洲は号である。
吉之助→吉兵衛→明治以降・西郷隆盛を名のる。
藩主・島津斉彬(なりあきら)に抜擢され、お庭番、
現在の秘書のような役となり、強い影響を受けた。

公武合体政策で、篤姫が将軍家定に嫁ぐ時などに
活躍したが、斉彬の急死で失脚。奄美大島に流され
その後復帰するが、次の藩主・島津久光に反発したため
二回目の島流しで、沖永良部島に流罪となる。
しかし、大久保利通らの力添えで復帰したものの
三回目、徳の島に流される。が、三度、呼び戻され、
薩長同盟の成立や王政復古、戊辰戦争を主導した。

江戸城の総攻撃を前にして、勝海舟らと交渉し、
江戸の無血開城に力を注いだ。その後、薩摩へ
帰ったが上京し、明治4年、新政府参議となり、
陸軍大将などを務めたが、大久保らと対立。
征韓論を唱えたが反対され、鹿児島に戻って、
私学校での教育に当たっていた。

佐賀の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、
1877(明治10)年、西南戦争の指導者となるが、
敗れて城山で自刃した。51才であった。

   ◆   ◆   ◆

月 照 : 京都清水寺成就院の僧。猛烈な勤皇家で
   南洲が京都で勤皇の志士とともに大いに画策した
   ころからの同志で、幕府から厳しく探索されていた。
   南洲は近衛忠熙(ただひろ)の依頼を受け、守護して
   京都を逃れ、前後して薩摩に入ったが、藩庁は
   幕府を恐れて、月照を日向(宮崎県)に送ると称して
   国境で斬り捨てることを決めた。
   今はこれまでと考えた両人は、護送の途中、
   錦江湾心岳寺沖の船中から相抱いて入水したが、
   南洲は蘇生し、月照は絶命した。
   1858(安政5)年、南洲33才、月照46才であった。   
忌 辰 : 命日。
相 約 : 約束して誓う。ここでは互いに死を約束したこと。
投 淵 : 薩摩の海に投身。「淵」は川の流れが回流する
   ところで澱んで流れのほとんど無いところをいうが、
   ここでは深い海の意。
後 先 : 早い遅い。
豈 図 : どうしてこのような結果になることを
   予想し得たであろうか。反語の用法。
再生縁 : 自分だけが蘇生するという因縁。南洲だけが
   漁夫に助けられて蘇生するという前世からの定め。
幽 明 : あの世とこの世。幽界と明界、
   死と生の二つの界。

★ 大久保利通(幼なじみ)、木戸孝允(長州)、西郷隆盛、
 明治の三傑と言われている
     ・・・ とのことです。


             


こちら によると、
月照(1813~1858)は、大坂の町医者の長男として生まれ、
1835年、京都の清水寺成就院住職となり、西郷隆盛と親交があり、
島津斉彬が急死したとき、殉死しようとした西郷を止めた。

1858(安政5)年から始まった安政の大獄で追われる身となり、
西郷の強い希望により、薩摩藩に海路逃れたが、藩では
月照の保護を拒否し「日向国送り」を命じる。
これは、薩摩と日向との国境で殺害することを意味していた。
これを知った月照は死を覚悟し、西郷とともに錦江湾に入水。
月照は死亡したが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。

  『 月照 辞世の歌 』
大君の ためにはなにか 惜しからむ 
          薩摩の瀬戸に 身は沈むとも

 (直筆は香川県の海岸寺宝物館に保管されている)

月照の死後、弟・信海(1821~1859)が、成就院の住職を継いだが
兄などとともに活躍したことから捕縛され、江戸で獄死した(享年39)
     ・・・とのことです。

★ このあと、西郷は死去したものとされ名前を変えて
 奄美大島に流された (一回目の島流し)。




     【 日本の絶句 】
   西郷南州 の 『 偶 感 』








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