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木戸孝允 の 『 勧 学 』

日本の絶句
06 /16 2018
絶句編テキスト

2018年6月16日 絶句編 83ページ  

    偶 成    木戸孝允 
 駑馬 遅しと 雖も 積歳 多ければ
 高山 大沢 尽く 過ぐるに 堪えたり
 請う 看よ 一掬 泉厳の 水
 流れて 汪洋 万里の 波と 作る
   
 かんがく    きど たかよし

どば おそしと いえども せきさい おおければ
こうざん だいたく ことごとく すぐるに たえたり
こう みよ いっきく せんがんの みず
ながれて おうよう ばんりの なみと なる

テキストの通釈によると、
いかに足の遅い馬でも、倦まずたゆまず
長年月かかって歩み続けるならば、高い山でも
大きな沼沢地でも、すべて通過することが出来る。
ほんの一すくいほどの岩間の泉も、絶え間なく涌き出て
流れ流れて止むことがなければ、ついには広々と
果てしない大海万里の波ともなるのである。
(そのように人も不断の努力を積むことが大切であって
 多少の才能などは問題ではないのである)
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
木戸孝允(1833~1877)、志士時代・桂 小五郎。号・松菊。
維新の三傑の一人。孝允「こういん」と読まれることもある。

現在の山口県萩市に藩医・和田昌景の長男として生まれたが
7才で桂家の養子となる。養父は桂黒(九郎)兵衛孝古で、
長州藩の武士の身分となり、桂小五郎、剣豪とも知られる。

1849年、藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった吉田松陰に
兵学を学び、才能を認められていた。

1852年、江戸に出て、練兵館(神道無念流)に入門。
免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となり、藩命で帰国するまでの
5年間練兵館の塾頭を務め、剣豪としての名を天下に轟かせた。

1858年12月に萩で松陰の自宅を訪ねた折、老中・間部詮勝の
暗殺計画を知り、これを諫めたため、松陰はこれを断念したが、
松陰は、別の計画を立て、野山獄に投獄され、翌年処刑され、
伊藤博文らと共に遺体をひきとり、埋葬したという。

1867年12月9日に開かれた小御所会議により新政府が成立。
翌年の明治元年1月25日、ただ一人木戸孝允が総裁局顧問と
なり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となった。

新政府では総裁局顧問、外国事務係、参与となり、
「五箇条の御誓文」の起草に参画。版籍奉還の実現に尽力する。

明治10年、西南戦争の最中、駆けつけた大久保利通の手を握り、
「西郷、いいかげんにせんか」と明治政府と西郷の両方を案じる
言葉を発したのを最後にこの世を去ったという。病没。享年45才。

   ◆   ◆   ◆

駑 馬 : 足ののろい馬。才能の乏しい人間にたとえる。
積 歳 : 年を経る。歳月を積み重ねる。
大 沢 : 大きな沼沢地。大湿地帯。
一 掬 : 『掬 』はすくう。両手で一すくいするほどのわずかな量。
汪 洋 : 海の広々として果てしのないさま。

     ・・・ とのことです。

 木戸孝允 の 『 偶 成 』




     【 日本の絶句 】
   吉田松陰 の 『 辞 世 』








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