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篠原国幹 の 『 逸題 』

日本の絶句
06 /26 2018
絶句編テキスト

2018年6月26日 絶句編 85ページ  

    逸題      篠原国幹 
 馬を 緑江に 飲うは 果して 何れの 日ぞ
 一朝 事 去って 壮図 差う
 此の 間 誰か 解せん 英雄の 恨み
 手を 袖にして 春風 落花を 詠ず
   
  いつだい    しのはら くにもと
うまを りょくこうに みずこうは はたして いずれの ひぞ
いっちょう こと さって そうと たごう
この かん たれか かいせん えいゆうの うらみ
てを そでにして しゅんぷう らっかを えいず

テキストの通釈によると、
(虎の威を借る狐のごとく、大国 『清』を後ろ盾とした最近の朝鮮の無礼は日増しに増大、今にしてこれを打たずんば悔いを千歳に残すであろう。かの秀吉のように兵を繰り出して朝鮮を征伐し)
軍馬に鴨緑江の水を飲ませるのは、何時のことであろうか。

(さして遠い日ではあるまいと思い、日々軍令の下るのを待っていたが、なんと西郷先生以下の面々の「征韓論」は破れ)遠征の機会は去り、わが雄図もむなしく故郷に帰った。

この英雄失意の無限の痛恨を誰が理解し得ようか。

今はただ、春風に散る花を眺め、漫然と詩を作っている日々である。
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
篠原国幹(1837~1877)は薩摩藩士で、西郷隆盛ら
多くの英傑を出している下級藩士の住まいである
鹿児島城下加治屋町で生まれた。通称は篠原冬一郎。
西郷隆盛より、だいたい9才年下である。

寺田屋騒動のあと、鹿児島に戻って謹慎処分となった。
その後、薩英戦争では砲台での守備を担当、
戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いで官軍として活躍。
上野の彰義隊との戦いでは、正面の黒門口を攻撃。
奥羽白川の戦い、会津攻城戦でも軍功を挙げている。

その後、陸軍大佐を経て、陸軍少将になると
近衛長官として明治天皇の前で、軍事演習を披露し、
その指揮ぶりが称賛されたほどであった。
1873(明6)年、西郷隆盛が鹿児島に下野すると、
篠原も、天皇に説得されるも陸軍近衛長官を辞して
鹿児島に戻り、村田新八らと共に私学校を設立。

1877(明10)年、西南戦争となり熊本城への攻撃。
南下してきた官軍と、田原坂の戦いとなり、
3月4日の早朝、政府軍による奇襲攻撃。吉次峠の
攻防戦では銃弾を受け、命を落とした。享年41。

この戦いで、政府軍の江田少佐は陣頭に立って指揮する
赤裏外套姿の篠原を見つけ、射撃の名手に狙撃を命じた。
数発の銃弾を受けた篠原はその場に崩れ落ちたという。
その後、江田少佐も薩摩兵から狙撃されて命を落とした。

西南戦争における官軍の死者は6,922名、戦傷者9,252名
西郷軍の戦死者は、約5千名、戦傷者約1万名、
両軍の死傷者を合わせると3万数千名にものぼったという。

   ◆   ◆   ◆

逸 題 : 無題・漫述・偶成などの意。
緑 江 : 鴨緑江。朝鮮と旧満州(中国東北部)の
   境界を西に流れる大河。
事 去 : 征韓論に破れての下野をいう。
壮 図 : 盛んなる計りごと。ここでは征韓をさす。
英 雄 : すげれた大丈夫。ここでは自身をいう。
袖 手 : 手をこまぬく。何もしないこと。
一 朝 : 何か事があれば。いったんは。

★この詩は、篠原国幹が陸軍近衛長官を辞して
 薩摩に戻った後に胸の内を詠ったものである

     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   木戸孝允 の 『 偶 成 』








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