FC2ブログ

西 道僊 の 『 城山 』

日本の絶句
06 /26 2018
絶句編テキスト

2018年6月26日 絶句編 86ページ  

    城山      西 道僊 
 孤軍 奮闘 囲を 破って 還る
 一百の 里程 塁壁の 間
 吾が 剣は 既に 摧れ 吾が 馬は 斃る 
 秋風 骨を 埋む 故郷の 山
   
  しろやま    にし どうせん
こぐん ふんとう かこみを やぶって かえる
いっぴゃくの りてい るいへきの かん
わが けんは すでに おれ わが うまは たおる
しゅうふう ほねを うずむ こきょうの やま

テキストの通釈によると、
孤立して援兵もない軍勢で、諸方の敵を破り、重囲を
脱して、やっと故郷の鹿児島に戻ってくることができた。
それは実に百里もあろうかと思われる遠い道程で、
その間至るところ敵のとりでがあった。
わが剣はすでにくだけ折れ、馬もたおれて死んだ。
もはやこれまでである。
今は吹きわたる秋風の中で、懐かしい
故郷の城山に、この骨を埋めるばかりである
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
西 道僊 (1836-1913)は、熊本県天草郡の出身。
熊本の家業の漢方医を継ぎ、長崎で開業。
長崎区会議長・医師会副会長などを務め、
教育者でもあり、大正2年78才にて没した。

城山は、鹿児島市のほぼ中央にある107mの山。
鹿児島城跡でもあり、頂上より少し下った処の洞窟
「岩崎谷の洞」で、明治10年9月24日 (旧暦)、
西郷隆盛は、別府晋介の介錯で、自害した。

   ◆   ◆   ◆

孤 軍 : 援兵のない孤立した軍隊。
破囲還 : 田原坂の敗戦から、人吉・宮崎・高鍋・
   延岡・長井の各地を転戦し、8月17日から
   翌日にかけ、長井の西方「可愛(えの)岳」を登り
   払暁(ふつぎょう・夜明け)官軍の包囲網を突破し
   三田井を経て、鹿児島に入ったことを指す。
一百里程 : 長井から鹿児島まで30里の間、
   至るところの官軍の守兵を破っての帰還は、
   まさに百里の思いであったことだろう。
塁 壁 : 諸方に設けられたとりで
     ・・・ とのことです。


 こちら によると、
この詩は作者が西南の役が起こった時、深く共鳴していたが、隆盛が戦いに敗れ、城山で自刃したことを聞き嘆いて、弔う意をこめて作った詩と云われてます。「我が剣は既に折れ、吾が馬は斃る」は崇拝している西郷南洲になり変っての句である。

南洲は乱をなす気持ちは毛頭なかったし、その心情を一番よく理解せられていたのは明治天皇である。明治16年旨を吉井友実に伝えてその遺族の近情を問わせられ、22年2月11日の憲法発布にあたり、その罪を赦して正三位を追贈され35年6月3日嗣子寅太郎を華族に列し侯爵を授けられた。作者は一世の英傑維新第一の功臣たる南洲の悲惨な最期に満腔の感情をよせたものである
     ・・・とのことです。

 また、こちら では、
政府軍は軍服に靴履き、薩軍は和服の袴、草履履き、雨の浸み込んだ服は動きに不利であり、武器も旧式銃だったといいます。大砲も鹿児島からいくつもの峠を越え、熊本まで運ぶ事は大変で4日かかったといいますが、政府軍は電信網を巡らし早急に情報をつかみ、薩軍が熊本に着く2日前には待ち構えていたようです。田原坂と吉次峠に隊を分け、どちらも大変な激戦で、雨のように降り来る銃弾は、資料館のかち合い弾を見ても想像つきますね。攻防は17日間続いたようです
     ・・・とのことです。






     【 日本の絶句 】
   篠原国幹 の 『 逸題 』








スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?