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高杉晋作 の 『 獄中の作 』

日本の絶句
08 /08 2018
絶句編テキスト
2018年8月8日 絶句編 89ページ  

   獄中の作     高杉晋作 
 夜 深く 人 定まって 四隣 閑なり
 短燭 光は 寒し 破壁の 間
 無限の 愁情 無限の 恨
 君を 思い 父を 思うて 涙 潸々
   
  ごくちゅうのさく   たかすぎ しんさく
よる ふかく ひと さだまって しりん しずかなり
たんしょく ひかりは さむし はへきの かん
むげんの しゅうじょう むげんの うらみ
きみを おもい ちちを おもうて なみだ さんさん

テキストの通釈によると、
夜はしんしんと更けわたり、人はとうに寝静まって、
辺りは全くひっそりしている。
ひとり起きている私の、この獄の室内の壁は破れ損じ、
それをまた淡々と丈低い燭台の灯火が照らしている。
(時まさに物情騒然、しかも歴史は今、音を立てて動いて
 いる。それなのに讒人ばらの訴えるところとなり)
こうして獄舎に幽閉されていることは無限の愁いであり、
恨んでも余りあることである。
(しかも、わが御主君自身勅勘をこうむる身、わが父とて
藩のために、どれ程か心労して居られるであろうに)
御主君のこと、父上のこと、あれこれ思えば涙が
止めどなく溢れ流れてやまないのである。
 讒人(ざんにん)=讒言する人、他人をあしざまに訴える人
 勅勘(ちょっかん)=天子から受けるとがめ。勅命による勘当
 
     ・・・とのことです。

先生のお話によると、
高杉 晋作(1839~1867)は、幕末に活躍した長州藩士。
本名は春風、号・東行。
奇兵隊などを創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。

長州藩の上級武士の家に生まれ、生家は萩城下の菊屋横丁と
呼ばれる所にあり、近くには桂小五郎(木戸孝允)の屋敷もあった。
14才で、藩校・明倫館に入ったが、決まりきった授業に
魅力を感じなかった高杉は、落第を繰り返したという。

19才で、吉田松陰の私塾、「松下村塾」へ入ったのを機に
思想だけでなく、実行を重んじる松陰に、惹かれ勉学に励み
久坂玄瑞と共に塾生の「双璧」と呼ばれるほどに成長した。

20才の時、江戸へ遊学に行き、安政の大獄で捕らえられた
松陰を伝馬町獄に見舞って、師の世話をするが、松陰とは
手紙でやり取りしており、松陰から
 「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
 生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」という
松陰の死生観に、晋作は大きな影響を受けたと言われる。
その松陰は晋作が藩命により萩に戻る途中、処刑された。

萩に戻った晋作は両親の勧めもあり、結婚。
24才で、藩の代表として海外視察を命じられ、中国・上海で
西洋人にこき使われる中国人を見て、晋作は衝撃を受ける。

長州藩は、関門海峡にて外国船の砲撃を行ったが、
逆に米仏の報復に逢い惨敗(下関戦争)した。
さらに、幕府による第一次長州出兵、欧米列強の艦隊に
より下関の砲台が占領されるなど数々の危機に当たって
晋作は、奇兵隊による攻防、外国との交渉に臨んだ。

さらに幕府は、第二次長州征伐を発令し。
長州藩は、留学しようとしていた晋作を呼び戻し、
幕府軍に奇襲をかけて、幕府軍に勝利を収めた。
この勝利のあとにも長州軍は幕府軍を次々を打ち破って、
幕府打倒が実現する直前、晋作は肺結核に倒れ、
明治維新を目前にして病死。29(満27)才であった。

★ 1863年、高杉晋作は脱藩して京都で潜伏した後、
 帰郷したが、脱藩の罪で野山獄に投獄された。
 この詩はその時のものである。

★ 長州藩13代藩主・毛利敬親は、有能な家臣や若い才能を伸ばし活躍させることで窮乏していた長州藩を豊かにした。1863年、長州藩は京を追われ、翌年には池田屋事件で多くの長州藩士らが殺害・捕縛された。長州藩は京に出兵し、禁門の変を引き起こしたが、これに対して、朝廷は幕府に長州征討を命じ、敬親の官位を剥奪した。この第一次長州征伐が開始されると、敬親は3家老を切腹させ、自ら萩に謹慎した。

   ◆   ◆   ◆

四 隣 : 近隣の意もあるが、ここでは四辺の意。
短 燭 : 丈の低い燭台。
潸 々 : 涙のしたたるさま
     ・・・ とのことです。




     【 日本の絶句 】
   佐野竹之助 の 『 出郷の作 』








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