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阿倍仲麻呂の伝記

あれやこれ
01 /01 2017
≪阿倍仲麻呂の伝記≫で検索し、購入した本のご紹介です。

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私には難し過ぎて、分るところだけの飛ばし読みで、
まだ3分の1しか進んでいませんが、
なるほどと思ったことをメモしてみました。

仲麻呂の生年については二説がある。
 ・遣唐留学生に任命された年(716年)16才・・・日本の古書に記載
 ・仲麻呂が没したとされる年(770年)73才・・・唐の古書に記載
 どちらの記載に基づくかによって、唐に渡ったのが
 17才(任命の翌年)説か、20才説かになる。

仲麻呂の生家は中流の貴族であった。
 遣唐使となって勉学に励み、飛躍しようとしたのは、
 中流と下流の貴族出身者か、地方豪族出身者たちであった。
 上流貴族の子弟たちは危険を冒してまで遣唐使となることはしなかった。

17才で唐に渡った説をとると、18才以降で大学に入学し、
 21~27才(727年)の間に大学を修了。 
 在学中に蓄えた学力で 科挙の試験に臨んだとみられるが、
 仲麻呂が科挙の試験を受けたこと、合格したという記録も残っていない。
 仲麻呂の任官歴が、科挙及第者の任官コースに準じているため、
 多くの研究者が科挙に及第したと推定している。

李白(701~762年)と杜甫(712~770年)は、
 宮廷内の人的ネットワークがなく、努力をしたが、
 望むような官位を得ることができなかった。
 
仲麻呂が記録上、最初についた官職は【校書】と考えられる。
 書物の管理や高官の文筆を助ける係りであった。
 仲麻呂の唐名は朝衡で、友人とみられる人物の詩に、
 仲麻呂の容姿が美しく、皇太子宮に出入りしていると述べられている。
 宮廷社会においては、その容姿と立ち居振る舞いが重要視された。
 
仲麻呂も王維も、京兆府試験合格者であったが、王維は首席であり、
 10代で宮廷内の人的ネットワークを築くことができ、官位の上昇も
 早かったとみられるが、王維も美貌を誇る少年であった。

崔日知(さいじつち)という人物が仲麻呂を玄宗皇帝に推薦し、
 【左補闕】という官位につく。皇帝に近侍する側近で、
 高い見識が求められる官職であった。
 仲麻呂はその後一貫して、玄宗皇帝に近侍する官職を歴任し、
 安史の乱(755~763年)まで地方勤務がなく、
 玄宗皇帝の下を離れていない。
 科挙に及第して宮廷社会に入った文人官僚は、
 権力闘争が起きた場合、左遷や失脚することが多いが、
 仲麻呂の官位は上昇しつづけている。

玄宗皇帝の信任が篤く、学問に一定の評価がされていた
 ために就任したとみられる仲麻呂の官職は、
 【儀王友】 玄宗皇帝の第十二子儀王の家庭教師・教育係
 【衡尉少卿】えいいしょうきょう 衡尉卿の副官
 【衡尉卿】えいいきょう  『器械文物』の管理部門の統括者  
         武器庫、武器、守官の三部門も統括下となる。
 【秘書監】 秘書省の長官であり、定員一名、秘書省のトップである。

以上に続いて他の役職にも就いていくのですが、
この続きは、また後ほどに・・・

         ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

萠洲流の毎週のお稽古が、『続絶句編』の中国編に入って
盧僎『南楼の望』張敬忠『辺詞』 の2回が終ったところ。
中国の歴史についてほとんど知らなかった私にとっては
興味深い本にめぐりあえたと喜んでいるところです。
 

阿部仲麻呂の 和歌『天の原』絶句『無題』





  【あれやこれ】 
和歌を教えていただきました







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 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
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