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李 白 の 『独り敬亭山に坐す』

中国の絶句
04 /21 2017
続絶句編 250  
 2017年4月21日 続絶句編 130ページ

  独り敬亭山に坐す   李 白
 衆鳥 高く 飛び尽くし 
 弧雲 独り 去って 閑なり
 相看て 両つながら 厭わざるは
 只 敬亭山 有るのみ

    ひとり けいていざんに ざす    り はく
     しゅうちょう たかく とびつくし
     こうん ひとり さって かんなり
     あいみて ふたつながら いとわざるは
     ただ けいてんざん あるのみ


テキストの通釈によると、
たくさんの鳥が飛んでいたが、
残らず空高く飛び去ってしまった。
空に浮かんだ一ひらの雲も流れ去って、
私は一人心静かに座っている。
じっと見合って、互いに飽きないのは、
ただ、敬亭山だけだ。


先生のお話によると、
敬亭山は、安徽省宣城県の北にある山。
高さ約千メートルで、一名、
昭亭山とも 査山ともいう。
中国の南北朝(六朝)時代に、
宣城県の太守であった謝眺(しゃちょう)が
たびたび登った山でもある。
謝眺(464~499)は、李白より280年も前の
山水詩人で、李白が崇拝(尊敬)していた。
その謝眺が、よく敬亭山に登っていたため
同じように、李白も登ったと思われる。

玄宗皇帝に追放されて、山東省を旅したのち
敬亭山がある安徽省 宣城県にやって来ていた
李白が、53~54才の頃に この詩を作った。
当時、李白は 宣州 の長官 宇文(うぶん)の食客・
居候をしていて、755年に安録山の乱が
起きるまでここにいた。

この詩で用いられている 
などの言葉から、長安を追われて8年が過ぎても
なお、李白にとってはショックで 心淋しい気持ちが
あったのではないかと思われる
    ・・・とのことです。
 
★私は、李白が玄宗皇帝に追放されたことより、
 それからの8年間、充実して満足できるような
 時間をあまり過ごせなかったのかな~と思いました。
 『自分は何をしているんだろうか』 とか、焦りとか、
 不安とか・・・そんな気持ちを詩に託すことはしても
 それが即、どうなるということでもなかったでしょうし。
 食客とか、居候って、長期間になると、
 あまり居心地が良さそうではありませんものね。
 
  『鐘山即事』 で、一日中 山に向かい合っていた
  王 安石 は、結果はどうであれ、やれることは
 全力を尽くしてやってきたという自負の気持ちは
 あったとは思うのですが、李白の場合は、
 同じように、一日中 山に向かい合っていても、
 自分の持てる力を発揮できていないもどかしさの
 ようなものがあったのかも・・・?
 
★李白が崇拝していた謝朓って こちら に よると、

謝朓は若い頃から学問を好み、詩文に巧みで名声が高かった。・・・493年、武帝が死去し・・・明帝が即位すると、謝朓は明帝の封地であった宣城郡の太守に赴任するなど、明帝に大いに信任された。
498年、謝朓の妻の父である王敬則が反乱を・・・決断し、娘婿の謝朓に協力を呼びかけた・・・しかし謝朓は王敬則からの使者を捕らえ、逆に朝廷に王敬則の反乱を告発した。明帝は謝朓を賞賛・・・岳父を告発したという行為は、謝朓自身にもさすがに後ろめたいものであり、これによって世間の批判を受けたため、尚書吏部郎を拝命したのは再三の固辞の末のことであった。また彼の妻はこのことを恨み、懐に短剣を隠し持って謝朓に報復しようとしたため、謝朓は彼女に会うのを避けた。王敬則の敗死に臨んで、謝朓は「私は王公を殺したわけではないが、王公は私のせいで死んだのだ」と嘆いたという。
明帝の跡を継いだ東昏侯は暗君で失政が続いたため、499年、重臣である江祏・江祀兄弟は、これを廃して始安王蕭遙光を擁立しようと謀り、謝朓にもその謀議への参加を誘った。しかし謝朓は元々江祏を軽んじていたことから参加を拒否し、彼らの計画を他人に漏らしてしまった。このことを知った蕭遙光・江祏らは計画が露見する前に先手を打ち、逆に謝朓を捕らえ、朝政誹謗の罪で告発した。詔勅が下り謝朓は処刑された。享年36。


・・・とのことで、すさまじい経歴の人だと思いました。 
  



  【 中国の絶句 】
 李 白 の 『客中の作』 







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